〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.148 2009/04/18 *お知らせ 本マガジンは隔週の発行ですが、次回は連休中となるため、一週遅れて5 月9日の発行といたします。ご承知おきください。 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その2) 〜アリストテレスを振り返る マイヤー本ではまず、投射物の運動が継続する理由についてのアリストテ レスの説明が挙げられています。よく知られているように、アリストテレ スの場合、基本的に運動の原因(動因)と運動する物体(動体)が区別さ れます。そして運動が生じるには、動因が動体に接し、直接働きかけなく てはならないとされます。自生する生物ですら、魂という動因が身体とい う動体を動かす、という図式で説明されるのでした。ですが投射物の場 合、動体は動因から離れた後も運動し続けるわけで、そのような説明は妥 当なものではありません。そこでアリストテレスが用意したのは、その場 合動因は媒質を介して動体を動かす、という説明でした。 便宜的に媒質と言っていますが、これはつまり物体を取り巻いている空気 や水のことです。この媒質についてアリストテレスは、後世において解釈 されたように、たとえば石を投げる場合、媒質である空気も一緒に運動を 被り、それが動体を動かしつづける動因になるとは考えていないとマイ ヤーは指摘しています。アリストテレスは、媒質は運動そのものを伝える のではなく、運動の力を伝えるものと考えていたというのですね。運動が 漸進的に弱まるのも、媒質が伝える力が弱まるからだというわけです。 マイヤー本が挙げているアリストテレスのテキストは、投射物の運動に触 れた代表的な三箇所です。まずは『自然学』第八巻一〇章(266b27 - 267a7)で、そこでは運動において動因が接していることが不可欠であ ることのほか、投射物の場合に空気や水が介在して運動を伝える旨が記さ れています。『天空論』第三巻(301b17 - 30)では、物体に「もとよ り(自然に)備わっている力」(潜在力)について説明されています。物 体の軽さや重さは、それぞれがもつ上昇する性向(潜在力)、下降する性 向などの現れであり、動因によって誘発されることでそうした性向が具現 化し、運動が生じると記されています。『自然学』第四巻八章(215a14 - 17)では、ものを投げる場合、投射物をとりまく空気が素早く移動し (上昇する性向により)、投射物の下降の力(重力)を押しやって飛翔を 続けさせるのだと説明しています。 マイヤーによれば、アリストテレスがここで述べているのは、媒質(この 場合は空気)にもとより備わっている力(空気の場合は上昇する性向)が 物体の下降する力(重力)にまさるために投射の運動が継続するというこ となのですが、ただその記述がやや曖昧であるために、後世の人々は「ア リストテレスは媒質を動因と考えた」と誤解したのだいいます。たとえば アヴェロエスなども、媒質がもつ「重い」「軽い」といった特性を、潜在 的な力というより、上昇、下降といった物体に備わる本来的な運動と解釈 しているといいます(これは個人的には未確認です)。しかも中世のかな り後の時代にいたるまで、潜在力について説明した『天空論』第三巻の箇 所は注解すらされていないとも述べています。 かくして、アリストテレスの媒質の考え方についての誤解は中世盛期にま で持ち越されていくのですね。ここでとくに注目されるのは、アリストテ レスが媒質(というか物体)の中に潜在力があることを認めている点で す。とするなら、そうした潜在力を媒質だけにとどめず、投射物そのもの へと拡張する議論もありえなくはないように思えてきます(逆になぜアリ ストテレスがそういうふうにもっていかないのか、という疑問もあります が……)。そう考えると、後のインペトゥス理論の萌芽の一つは、なんだ かアリストテレスそのものの中にあったのかもしれないという気がしてき ます。ともすればアリストテレスへのアンチテーゼと見られがちなインペ トゥス理論ですが、そのもともとの芽がアリストテレス自身にあったとし たら、それもまた歴史の皮肉ということになるわけですが……。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その13) 『ボエティウス「三位一体論」注解』問四第二項の本論部分の末尾です。 さっそく見ていきましょう。 # # # Dimensiones autem iste possunt dupliciter considerari. Vno modo secundum earum terminationem; - et dico eas terminari secundum determinatam mensuram et figuram, et sic ut entia perfecta collocantur in genere quantitatis -; et sic non possunt esse principium indiuiduationis, quia cum talis terminatio dimensionum uariatur frequenter circa indiuiduum, sequeretur quod indiuiduum non remaneret semper idem numero. Alio modo possunt considerari sine ista determinatione, in natura dimensionis tantum, quamuis numquam sine aliqua determinatione esse pussint, sicut nec natura coloris sine determinatione alibi et nigri; et sic collocantur in genere quantitatis ut imperfectum, et ex his dimensionibus interminatis materia efficitur hec materia signata, et sic indiuiduat forma. Et sic ex materia causatur diuersitas secundum numerum in eadem specie. Vnde patet quod materia secundum se accepta nec est principium diuersitatis secundum speciem nec secundum numerum; set sicut est principium diuersitatis secundum genus prout subest forme communi, ita est principium diuersitatis secundum numerum prout subest dimensionibus interminatis. Et ideo, cum hee dimensiones sint de genere accidentium, quandoque diuersitas secundum numerum reducitur in diuersitatem materie, quandoque in diuersitatem accidentis, et hoc ratione dimensionum predictarum. Alia uero accidentia non sunt principium indiuiduationis, set sunt principium cognoscendi distinctionem indiuiduorum. Et per hoc modum etiam aliis accidentibus indiuiduatio attribuitur. しかるに、諸次元(量的な大きさ)は二様に考えることができる。まず一 つは、その限定に沿って考えるやり方である(つまり、その場合の諸次元 は特定の尺度と形によって限定されるということだ。かくしてそれらは完 全であるものとして量の類に置かれるのである)。この場合、それらは個 別化の原理にはなりえない。なぜなら、かかる次元の限定は個物において たびたび異なり、そのため個物は数的につねに同一であるとはいえなく なってしまうからである。もう一つは、そうした限定を抜きにして、かか る次元の本性において考えるやり方である(とはいえ、白や黒といった限 定なしには色の本性がありえないように、何であろうとなにがしかの限定 なしには存在できないが)。その場合、それらは不完全なものとして量の 類に置かれ、その非限定の次元ゆえに、質料は「この質料」との指定を受 け、かくして形相を個別化する。こうして質料から、同じ種の中に数の上 での相異が生まれるのである。ゆえに、そのものとして受け取られた場合 の質料が、類における相異の原理にはならず、数における相異の原理にも ならないことは明らかである。しかしながら質料は、共通する形相に従属 する限りにおいて類における相異の原理をなすように、非限定の次元に従 属する限りにおいて数における相異の原理をもなすのである。 よって、こうした次元は付帯性の類に属する以上、数における相異は、質 料の相異に帰される場合もあれば、付帯性の相異に帰される場合もあり、 前述の次元がその理由となる。とはいえ、他の付帯性は個物の原理にはな らないが、個物を区別する際の認識の原理にはなる。そのような形で、個 体化は他の付帯性にも帰されるのである。 # # # 数の上での相異、つまり個物の相異をもたらすのは質料であり、しかもそ れは「この質料」として限定されていなくてはならない、というのがトマ スのテーゼでした。前回のところでは、質料が形相を受け取るには、まず 量によって「この質料」として限定されていなくてはならない、としてい ました。今回の箇所では、その「量による限定」とはどういうことかを説 明しています。いくぶんわかりにくいですが、ここではさしあたり次のよ うにまとめておきます。「量による限定」を「限定」という側面から考え るというのは、尺度も形でもってすでに「限定」された状態から質料を考 えるということで、つまりは個物から質料を考えようとする方向性を言う のでしょう。その場合、個物ごとの限定はあまりに多岐にわたり、結果的 に個物を個物として切り出す原理としての質料(「この質料」)を認識す ることはひどく困難になってしまいます。ですが視点の方向を変えて「量 による限定」とはどういうことかと全体的・一般的に考えると(これは質 料から個物を考えるということでしょう)、その場合の「この質料」は、 まったくの非限定ではないにせよ、個物としての最終的な限定に対しては 相対的に非限定の状態、いわば中間段階のように見なすことができます。 その中間段階こそが、個の相異の原理をなすのだという論旨と解釈できま す。 さて前回、アリストテレスはものごとの「実体であるための条件」を論究 していたのだという話を取り上げましたが、山田晶『トマス・アクィナス の<レス>研究』(創文社、1986)に、アリストテレスの実体(ウシ ア)概念についての有益な整理があります。それによると、ウシアが狭い 意味での「真に在るもの」の意味で使われる場合、アリストテレスはその 「真性」を見分ける基準として、自存性と可知性を挙げているといいま す。自存性はものごとが他によらずみずから存在すること(質料的世界の 個的実体がその最たるものとされます)、可知性とはものごとが他から区 別されて知られるということです。同書は、ここで自存性を挙げている点 にアリストテレスの独自性があるといい、「プラトンの世界から一歩外に 踏み出して、いわば質料という泥沼の中に足を踏み入れたことが、アリス トテレスのウシア論にさまざまな難問を胚胎させる原因となった。もっと もアリストテレス自身はまだその難問に気が付いていないように思われ る」(p.276)としています。 同書はまた、アリストテレスは偶有を担う基体、または述語に対して主語 となるものをヒュポケイメノン(基に置かれてあるもの)と称し、その両 方の意味でヒュポケイメノンをなすものをウシアと呼んでいる、とも指摘 しています。すると、個的実体でそのヒュポケイメノンの地位を占めるの は質料であるということが帰結されます(同、p.308)(ものごとに対し て質料は、相対的にヒュポケイメノンの地位を占めることになります。こ のあたりの説明は詳しく触れている余裕はないので端折りますが、相対的 な位置づけであることに留意しておきましょう)。ヒュポケイメノン性を 多くもつものほどウシア性も大きいとするなら、最大のウシアに相当する のは質料ということにもなりそうですが、一方で質料はまったくの無規定 性であるといわれ、純粋可能態だとされています。すると質料が最大のウ シアであるとは言えなくなってしまいます。この矛盾から、アリストテレ スは最大のウシアを、結局は質料と形相からなる複合体へと送り返してし まいます。 ところがトマスになると、本文にも見られたように、質料概念の二重化 (それ自体はアリストテレスにあるものですが)の議論の上に立ち、無規 定性とされていた質料に相対的な限定性を付すことで、少なくとも個体化 の原理としての質料を救い出しています。山田氏は、アリストテレスのテ キストには個体化の原理を質料とするような箇所はなく、一方でその原理 は形相であるという議論もなく、そもそも個体化の原理自体がアリストテ レスの問題意識にあったのかどうかも問題である、と述べています(p. 361)。ではトマスの場合、「最大のウシア」としての質料についてはど う考えているのでしょうか?そのあたり、ちょっと検証してみる必要があ りそうです。 次回は先に出た異論へのトマスの反論です。いよいよこの項の締めくくり になります。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は変則的に05月09日の予定で す。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------