〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.149 2009/05/09 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その3) 投擲物が手を離れた後も運動し続けることについてアリストテレスが唱え た説は、媒質となる空気がもとの動因の運動を伝えるというものでした。 これに対し、もう一つの考え方があったようで、どうやらそれはプラトン 主義の側から出てきたもののようです。今回はマイヤー本ではなく、ユル ゲン・サルノウスキー『アリストテレス主義スコラ学の運動理論』(J. Sarnowsky, "Die aristotelisch-scholastische Theorie der Bewegung", Aschendorff, 1989)という一冊を参照します。で、その もう一つの考え方ですが、同書ではこれを「antiperistasis」理論と称し ています。ギリシア語に由来する名称で、「相互交代」理論とでも訳せば よいでしょうか。空気や水が継続的に間を埋めようとすることによって真 空が生じないようにする、というものです。 この説のおおもとは『ティマイオス』の中の記述だといいます。参照箇所 (『ティマイオス』の59a)を見てみると、これは凍結についての説明部 分なのですが、その中に、「火(の粒子)は再び追われるが、真空へとい たるわけではなく、近接する空気が押されて、同じく簡単に動く水の粒子 を、火が占めていた場所へと押しやり、その場所に混合させるのである」 と記されています。これを敷衍したのがantiperistasis理論で、投擲物に ついての説明は次のようになります。投げられた物体が大気中を進み、そ れによって空気が押しのけられると、その押しのけられた空間に真空がで きないよう、順次空気が物体の後ろに回り込み、結果的にそれが物体をさ らに先へと押しやるというのです。 実はこの説についてはアリストテレスも言及しています。『自然学』第八 巻十章(267a14-20)がそれで、物体が連続的に場所を占める運動につ いて触れ、「空気や水のそうした運動がantiperistasisと言われる」と述 べ、「とはいえantiperistasではすべてが同時に動かし動かされ、停止も 同様とされる。とすると、何か同時に動かす一者があることになる。それ は何によるのだろうか。同一のものによるとは考えられない」と、否定的 な見解を示しています。アリストテレスは外部の一義的な動因を重視する ため、結果的に、先の媒質伝達論のほうがベターだと考えたようなので す。 ですが、アリストテレスの「自然の動き(本性的な動き)」と外部から加 わる「強制的な動き」の区別は、後世の注釈家たちに問題を残すことに なったようです。サルノウスキーも述べていますが、媒質に力が伝わると いう説から物体そのものに力が伝わるという説までは、ほんの一歩だとい う感じがします。実際に、後のインペトゥス理論に近い先駆的な説は古代 末期に散発的に出てくるようで(とくに新プラトン主義の側から)、サル ノウスキーはここで、ちょっと意外にもアウグスティヌスに言及していま す。 アウグスティヌスの『魂の大きさについて』(De quantitate anime) 22章の37節には、物体の大きさが違えばそこに宿る力も違うという話が 出てきます。大小の石をそれぞれ下方、上方に投げて互いにぶつける場 合、大きな石の動きが勝るといった例を挙げて、物体がもたらす外的な衝 動(impetus)の大きさが、物体そのものの大きさに依存することを論じ ています。この話はあくまで魂が身体に働きかける力の話の枕なのです が、それにしてもimpetusという語が使われている(意味はあくまで外的 な衝動ということですが)ことがやや意外な感じもします。サルノウス キーは、後のインペトゥス理論に見られる性質(力の保持ということで しょう)もほぼ顕著に示されているとしています。 このほか、インペトゥス理論の先駆的な考えをもっていた重要な人物とし て、ヨアンネス・ピロポノスが挙げられていますが、これは次回に少し詳 しく見ることにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その14) 項の末尾となる、冒頭の議論への反論部分です。今回はその前半の3つを 見てみます。それぞれ対応する冒頭の議論というのは次のようなものでし た。(1)質料が一つであるものが数の上でも一つだとアリストテレスが 述べている。(2)付帯性は個体の一性の原因ではなく、また実体の原因 でもない。(3)付帯性がもたらす共約性や普遍性も個体化の原因にはな らない。これらを念頭に、テキストを見てみましょう。 # # # 1. Ad primum ergo dicendum, quod cum dicit Philosophus quod numero sunt unum quorum est materia una, intelligendum est de materia signata, que subest dimensionibus; alias oporteret dicere quod omnia generabilia et corumptibilia sint unum numero, cum eorum sit mateira una. 2. Ad secundum dicendum, quod dimensiones cum sint accidentia, per se non possunt esse principium unitatis indiuidue substantie, set materia prout talibus dimensionibus subest intelligitur esse principium talis unitatis et multitudinis. 3. Ad tertium dicendum, quod de ratione indiuidui est quod sit in se indiuisum et ab aliis ultima diuisione diuisum. Nullum autem accidens habet ex se propriam rationem diuisionis nisi quantitas; unde dimensiones ex se ipsis habent quandam rationem indiuiduationis secundum determinatum situm, prout situs est differentia quantitatis. Et sic dimensio habet duplicem rationem indiuiduationis, unam ex subiecto sicut et quodlibet aliud accidens, et aliam ex se ipsa, in quantum habet situm; ratione cuius etiam abstraendo a materia sensibili ymaginamur hanc lineam et hunc circulum. Et ideo recte materie conuenit indiuiduare omnes alias formas, ex hoc quod subditur illi forme que ex se ipsa habet indiuiduationis rationem, ita quod etiam ipse dimensiones terminate, que fundantur in subiecto iam completo, indiuiduantur quodammodo ex mateira indiuiduata per dimensiones interminatas preintellectas in materia. 一.第一点についてはこう述べなくてはならない。質料が一つであるもの が数も一つであると哲学者が述べた際、それは次元のもとに置かれた、指 定された質料のことだと理解しなくてはならない。そうでないと、質料が 一つであるのだから、すべての生成・消滅しうるものは数の上で一つであ ると言わなくてはならなくなる。 二.第二点についてはこう述べなくてはならない。次元は付帯性である以 上、それ自体で個体実体の一性の原理にはなりえず、かような次元のもと に置かれた限りでの質料が、かかる一と多の原理であると理解される。 三.第三点についてはこう述べなくてはならない。それ自体では分割され ず、最終的分割によって他から区別されるのが個体の道理である。しかし ながら、いかなる付帯物も量以外にみずから固有の分割原理をもつことは ない。したがって、位置とは量の違いのことだという意味において、限定 された位置を取ることによって次元みずからがなんらかの個体化の原理を 有するのである。また、次元には個体化の二つの原理がある。一つは基体 によるもので、それは他のどの付帯物の場合も同様である。もう一つは位 置をもつ限りにおいての、それ自身によるものである(だからこそ、感覚 的質料を抽象してもなお、われわれはこれこれの直線、これこれの円を思 い描けるのである)。ゆえに他のあらゆる形相を個別化するというのは、 まさに質料に適することなのである。その質料が、個別化の原理をみずか ら有するそれらの形相に従属するがゆえである。それはつまり、すでに完 成した基体に成立する自己限定された諸次元さえも、質料において先に理 解される無限定の次元によって個別化された質料から、なんらかの仕方で 個別化されるからである # # # テキストはややわかりにくい感じですが、要は(前回、前々回の繰り返し になりますが)質料が個別化する一次的レベル(無限定のものがなんらか の位置を備えたものとして切り出されるレベル)と、それが具体的な形を 取る二次的レベル(形相が与えられて個別化が完成するレベル)があり、 後者のレベルによって前者のレベルも覆われる、ということではないで しょうか(なんだか言語の二重分節にも似ていますね)。これが三で述べ られている個体化の二つの原理ということでしょう。両者はそもそも渾然 一体となっているはずですが、トマスは認識の便宜上、それらのレベルを 分けて考えている印象です。形相だけでは種しか構成されませんが、形相 は質料による個別化を許容し(基体と付帯物の関係ですね)、それに従う ことで質料は形相の個別化を図ります。そうしてできる質料と形相の複合 体(「完成した基体」)にあっては、一次的なレベルでの位置取りが二次 的なレベルに覆われる形で、一次的な位置取り自体も個別化される、とい うことでしょう。 このようにトマスはアリストテレスと違い、実体化という以上に個体化の 問題に深く関わるわけですが、前回も触れた山田晶『トマス・アクィナス の<レス>研究』は、そうした個体化へのこだわりについてのある種のま とめを示してくれています。それによると、トマスが個物の問題にこだわ るのは神による創造という立場に立つためだからです。そこで問題になっ ているのは個を個として成立させる根拠ですが、トマスはそれを神のうち にある「個物の知」「個物のイデア」に求めているのですね。その一方で 人間の側からの個物の理解は神の理解にはとうてい及ばないとし、人間は 思惟への直接的な与件である「本質と存在の錯綜物」を手がかりに、世界 についての認識を深めていくしかないと考えているのだといいます。結果 的にトマスは、推論・類比などを駆使しながら「個物」の普遍的要素を 探っていくことになります(p.648)。 ですが、個物は真に個物として扱うべきだとするドゥンス・スコトゥスな どは、トマスのそうした立場を批判し、人間による個物の認識とは、神の うちにある「個物の知」(「個物のイデア」)をなんらかの形で「想起す る」、つまりイデアを直観することにあると考えるようです。スコトゥス の「このもの性」は、そうしたプラトン主義的な認識論を標榜し、トマス が用いるアリストテレス的な抽象による認識と対立することになります (p.649)。山田氏はこれを、存在論と認識論を構成するおおもとの着眼 点が、「人間認識の最も原初的な状態」(トマス)か「人間認識の究極的 完成の状態」かの違いだと述べています(p.650)。 やはりたびたび参照している長倉久子『神秘と学知』では、このトマスと スコトゥスの違いを、個体化の原理を質料に見るか形相に見るかの差に帰 着させています(p.103)。「このもの性」はいわば個々のものに固有の 形相で、その意味で個体化の原理は形相の側に帰されるわけですが、トマ スがそういう考え方に至らなかったのは、形相というものがすべて普遍を 指示するからだと長倉氏は述べています。普遍を指示するものは、認識の 指標という意味でのみ個体化の原理をなす(個体化の認識に至らせる)の であって、実際の個体化の原理にはならない、という箇所がトマスのテキ ストにあるからです。長倉氏のこの指摘は、普遍を指向しているのはむし ろスコトゥスのほうで、トマスはあくまで個物そのものにこだわってい た、というふうにも読めます。 一見相反するかに見えるこの二つの議論ですが、(ちょっとここで深入り はできませんけれど)スコトゥスの場合にも質料を重視するスタンスは見 られますし、また普遍を指向していないわけでもありません。ただトマス の方は、分析的なアプローチを重視することにより、認識によって捉えら れる個体化と現実に成立する個体化の間には超えがたい大きな溝があると 捉えているのだと思われます。スコトゥスはそのあたりをもっとフラット に捉えているのではないでしょうか。トマスにとって、人間が認識によっ て捉えることのできる個体化には、質料というものが、認識を媒介すると 同時に厚い壁として立ちふさがってもいて、両義的な役割を果たしている ように思われます。このあたりはもっとちゃんと検討してみたいところで すけれど……。 次回はいよいよこの項の最終回となります。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------