〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.150 2009/05/23 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その4) 前回の末尾で触れたアウグスティヌスは、あくまで物体内部に宿る力を示 唆するにとどまっていましたが、ピロポノスはもっと端的な言い方をして います。運動の原理は媒質にはありえないとし、媒質ではなく物体そのも のに力が伝わる、と述べているのですね。ピロポノスは6世紀ごろにアレ クサンドリアで活躍した新プラトン主義の哲学者で、後にキリスト教徒に なり神学論なども残しています。ちょっと異例な経歴ですが、とはいえや はり、アリストテレスの批判者として最もよく知られているようです。ピ ロポノスによるアリストテレス批判は、エーテル問題から世界の永続性に いたるまで多岐にわたるようです。 投擲物についてのアリストテレス説の批判とインペトゥス理論の先駆的示 唆は、『自然学注解』の四巻に出てきます。アリストテレスが運動理論を 開示しているのは『自然学』四巻八章と八巻一〇章ですが、ピロポノスの 『自然学注解』の方は、四巻まではまとまって残っているものの、八巻は 断片的でしかありません。そのため、主に四巻が問題になります。で、そ の当該箇所ですが、ピロポノスはアリストテレス説の否定に続けて「そう ではなく、なんらかの非物体的な動力が、投擲するものによって投擲物へ と伝えられなくてはならない」と明言しています。フランスの文献データ ベース「Galica」で落とせるギリシア語版『自然学注解』(アリストテレ ス・ギリシア語注解書シリーズ)では、該当箇所はp.642(文書内のペー ジ数(下巻)、当該pdfファイルの152ページ目)で、アリストテレスの テキスト214b28の注解の一部に当たります。 このピロポノスの考え方は、フランスの物理学者・科学史家ピエール・ デュエム(20世紀前半)が大著『世界の体系』で取り上げてよく知られ るようになったもののようです。デュエムの『世界の体系』第一巻では、 『自然学注解』の該当箇所が仏訳されています(pp.381-383)。続く箇 所でピロポノスは、非物体的な力が物体に付与される例はほかにもあると して、色つきのガラスを通ることで太陽光が物体に色を帯びさせることを 挙げたりしています(色のなんらかの力が物体を色づけする、という説明 です)。投擲物の場合もそうですが、ピロポノスは「常識的な見方 (sens commun)」にもとづく議論を重視している、とデュエムは強調 しています。 ちょっと確認が取れていないのですが、後にキリスト教徒になったピロポ ノスは、『世界創造について』という書を著し、この中でその「インペ トゥス理論」を星辰の動きに適用しているのだそうです(英語版 Wikipediaから)。インペトゥス理論が成立するもう一つのモチーフは星 辰の動きの説明だったと言われたりもしますが、この説によるならば、そ こでもピロポノスが先鞭を付けているということになるのでしょうか。こ れは是非とも確認してみなくてはなりませんね。また、ちょっと先走りに なりますが、もしそうだとすると、これは後の14世紀のビュリダンの議 論などとも重なってきます(ビュリダンもまた、インペトゥス理論で星辰 の動きを説明づけようとしていたのでした)。とはいえ、ピロポノスが ビュリダンの直接のソースになったという事実は確認できていないという 話もあります(平凡社版『哲学事典』)。このあたりも確認を取る必要が あります。 というわけで、今回は未確認事項が多すぎますが(苦笑)、ピロポノスは なかなか面白そうですので、今後また別の機会に詳しく取り上げてみたい と思います。とりあえず目下の話題に戻ると、ピロポノスの『自然学注 解』はその後シリア語、アラビア語に翻訳され、アラブ世界で受容されて いったことが知られています。では「インペトゥス理論」もアラブ世界で 継承されていくのでしょうか。というわけで、中世に目を向ける前に、や はり例によって私たちは一度アラブ世界を通過しなくてはならないようで す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの個体化論を読む(その15) 『ボエティウス「三位一体論」注解』問四第二項の末尾の箇所です。第二 項の最初のところに掲げられたテーゼに対して応答しています。そのテー ゼとは(4)類的・種的に異なるのも、数の上で異なるのも、実体の類に おいて異なるのであって、付帯性によるのではない、(5)付帯物は基体 から取り除かれる場合があるので、数の上での相異の原理にはならない、 (6)数は量など他の付帯性に先行するので、他の付帯性が数の原理では ありえない、というものでした。これらを踏まえつつ、さっそく見ていき ましょう。 # # # 4. Ad quartum dicendum, quod illa que differunt numero in genere substantie non solum differunt accidentibus, set etiam forma et materia. Set si queratur quare differens est eorum forma, non erit alia ratio nisi quia est in alia materia signata; nec inuenitur alia ratio quare hec materia sit diuisa ab illa nisi propter quantitatem. Et ideo materia subiecta dimensioni intelligitur esse principium huius diuersitatis. 5. Ad quintim dicendum, quod ratio illa procedit de accidentibus completis, que sequntur esse forme in materia, non autem de dimensionibus interminatis, que preintelliguntur ante ipsam formam in materia: sine his enim non potest intelligi indiuiduum, sicut nec sine forma. 6. Ad sextum dicendum, quod numerus formaliter loquendo est prius quam quantitas continua; set materialiter quantitas continua est prior, cum numerus ex diuisione continui relinquatur, ut dicitur in III Phisicorum. Et secundum hanc uiam causat diuersitatem secundum numerum diuisio materie secundum dimensiones. Rationes autem que sunt in contrarium patet ex dictis qualiter sunt concedende et qualiter falsum concludunt. 四.第四点についてはこう述べなくてはならない。実体の類において数の 上で異なるものは、付帯物によって異なるのみならず、形相と質料によっ ても異なる。しかしながら、なぜその形相が異なるのかが問われるなら ば、それは指定された質料が違うから以外にないであろう。また、なぜこ の質料があの質料から区別されるかの理由も、その量のため以外にない。 よって次元のもとに置かれた質料は、そうした相異の原理であると理解さ れるのである。 五.第五点についてはこう述べなくてはならない。そうした原理は、質料 のもとにある形相の存在が付き従う、完全な付帯物より生じるのであっ て、質料のもとに形相そのものが置かれる前に理解される、非限定の次元 から生じるのではない。というのも、それがなければ個物は、形相がない 場合と同様、理解できないからだ。 六.第六点についてはこう述べなくてはならない。形相的に言われる場 合、数は連続した量に先立つ。しかしながら質料的に言われる場合には連 続した量が先である。なぜなら、『自然学』第三巻に記されているよう に、数は連続体の分割から生じるからだ。またそうした方途により、次元 にもとづく質料の分割によって、数の上での相異が生じるのである。 しかるに反論に記された推論は、以上の議論から、いかに承認すべき か、いかに誤りと結論づけるべきかは明白である。 # # # とりあえず今回は本文に関してはこれといったコメントはありません (笑)。そんなわけで、トマスの「個体化論」絡みの一応のまとめという ことで、またまた脱線になりますが、別の角度からトマスの思想を眺め返 しておきましょう。そのキーとなるのが「天使」の扱いです。 今回の本文からも感じ取れるように、トマスにおける問題へのアプローチ の基本は、やはり与件の分割と再統合にあります。そうしたアプローチ は、限定的な知性しかもたないという人間の狭量さゆえに取らざるをえな いという類のものなのでした。当然ながらそれは、人間の「自己認識論」 にも適用されます。 フランスの現象学系の研究者エマニュエル・ファルクの『神、肉体、他 者』(puf, 2008)という著書に、トマスの天使論を扱った一章がありま す。そこでは、トマスが考える人間の自己認識と天使の自己認識とが対比 され、端的にまとめられています。つまりこうです。天使は純粋な知性的 存在とされるので、認識者と認識対象とが即一致し、「みずからの直接的 かつ純粋な体験(認識)へと至り」ます。ところが「逆に人間は、認識す べき対象に関してつねに潜在状態にしかなく、質料と形相の複合によって のみ対象にアクセスできず、感覚による捕捉にもとづいた認識プロセスか ら、媒介された形でのみ自己を認識する」(p.400)しかありません。ア ウグスティヌス主義に見られるような神秘主義的な即時的認識は、ここで は天使の領域へと追いやられ、人間はあくまでアリストテレス主義的な分 析と統合のプロセスを経るしかない、とされるのですね。ファルクは、は るか後代のデカルトが唱える純粋な「自我」の祖形を、その天使の自己認 識に見出しています。 さて、トマスの考えでは、種を分ける原理は形相にあり、個体を分ける原 理は(限定された)質料にあるのでした。このことからすると、天使は形 相はもつものの質料はもたない存在なので、種には分かれるものの、個は 存在しないことになります。実際トマスは、「天使は質料と形相から成っ てはいないので、同じ種の二者の天使が存在することはありえない」と述 べています(『神学大全』第一部問五〇第四項)。 では、天使が自己を直接的に認識するとして、種でしか分けられていない 他の天使を認識するという場合にはどう認識するのでしょうか。トマスは アヴェロエスやアヴィセンナが唱える直接知を批判する形で、そこにスペ キエス(形象:species impressae)の介在を示唆しています(『神学大 全』第一部問五六第二項)。人間と同様に被造物である天使は、形相しか もたない他の天使を直接知ることはできず、スペキエスを介して間接的に しかアクセスできないとされます。スペキエスは、「神の御言葉によって 天使の知性に刻まれる像」ということで、相手の天使は「自然(本来の) の存在」ではなくあくまで「思慮上の存在」(esse intentionale)とし て理解される、といいます。ちょうど思慮の上での色が自然の状態の色と は異なるように、思慮の上での天使は自然(本来)の状態での天使とは違 い、あくまで類似(similitudo)であるというわけです。 ファルクはここに、天使が独我論から外に開かれる契機を見、いわば間主 観性への祖形を見出しています。ま、それはともかく、トマスのこの天使 の認識論は、当然ながら人間の認識論にも重なっています。人間の場合も また、スペキエスの介在を通してしか実在の事物を理解できず、かくして 事物の存在は「自然の状態(事物そのもの)」と「思慮の上での状態(概 念)」とに分かれます。たびたび参照している山田晶は、これらはそれぞ れ第一実体(個別)と第二実体(普遍)に対応し、しかも知性によって把 握されるかぎりでの二重性だと指摘しています。トマスの立場では、普遍 性は知性の次元でしか成立しないものの、そうした概念が構成される根拠 は「レス」そのものの次元にあるとされ、かくして徹底した概念論の立場 ではないとも言われています。実在論との中道、という感じでしょうか。 と、このように個体化論の話は、認識論の方にも接合していくのですね。 トマスの議論はいろいろな方向に引っ張ることができ、やはり興味深いで す。そんなわけで、個体化の原理に関する部分は今回で読了ですが、次回 からも引き続き『ボエティウス「三位一体論」注解』の問四の第三項、第 四項を見ていくことにしたいと思います。ちょっと仕切り直しをして、今 度は「場所論」という括りになりそうです。それでは、どうぞお楽しみ に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------