〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.151 2009/06/06 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その5) 前回取り上げたピロポノスの『自然学注解』は、どうやらラテン世界に直 接翻訳を通じて入ってはいないようで、アラビア哲学経由での流入の可能 性が示唆されていたりします。というわけで、今回はアラブ世界での「イ ンペトゥス理論」(らしきもの)の展開を、再びマイヤー本でざっと眺め ておきます(以下マイヤー本pp.127-133のまとめです)。 まず、前回も登場したデュエムは、スペインで活躍した哲学者・天文学者 アルペトラギウスの著書に注目しているようです。その天体論が1217年 にマイケル・スコットによって翻訳されているのですが、それが「インペ トゥス理論」の伝播に寄与した可能性を指摘しているのですね。マイヤー によると、その天体論では最上位の天空がそれ自身の力によって動き、そ の力が下方の天空に伝えられ、徐々に減衰して地上世界にまで至るという 話が骨子になっています。内在し伝えられる力の漸減は投擲物の運動に見 られるものと同じ、とされているらしいのです。 このアルペトラギウスの著書にもとづく記述は、14世紀から16世紀にか けて西欧でも散見されるらしいのですが、マイヤーはこれを「インペトゥ ス理論」の普及経路の決定打とは言えないとし、複合的に受容されていた 可能性を示唆し、別の経路についても検討しています。イベリア半島経由 ではないピロポノスの理論の受容経路として挙げられているのはアヴィセ ンナとその周辺で、これは主にピネスの研究がベースになっているようで すが、いずれにしても「インペトゥス理論」と見解的に一致する議論がア ヴィセンナにあり、それはアラブ世界で17世紀くらいまで継承されると いいます。とはいえ、西欧への影響という点はこれまた疑問符つきです。 その考え方が示されているのはアヴィセンナによる『自然学』の後半部分 (第八巻)ということですが、ラテン語訳は四巻までしかなく、マイヤー が言うには、その肝心の後半部分を中世のスコラ哲学者たちは知らなかっ たはずなのですね。結局アヴィセンナの「インペトゥス理論」は、前半部 分(第二巻)に付随的に記された箇所から窺うしかない状況です。そんな わけで、これが西欧のインペトゥス理論に直結するという話には到底なり そうにないのですが、いちおう内容にも触れておくと、その説は「真空に おいては運動は成立しない、ゆえに真空は存在しえない」という論証の過 程で出てくる話のようです。 アリストテレスの媒質による運動の伝達説(二種類あったのでした)で は、真空における運動がありえないのは、真空ではそもそも媒質が存在せ ず、ゆえに運動も成立しないからだとされます。ですがそれだけでなく、 もう一つの論法として、「もし真空があったら運動は終わらない」という 議論もなされます。真空においてはそもそも働きかける原因もないことに なるので、物体は静止したままか果てしなく動き続けるかのいずれかに なってしまう、実際にはそれはありえないので、真空は存在しない、とい う論法です。アヴィセンナはこの論法について詳述する際に、アリストテ レスの媒質論からの議論を挙げたほか、もう一つ別の説明の可能性を示し ます。それが、物体そのものに運動の力が宿ると考えた場合、ということ になります。 アラビア語のテキストはこのあたりを詳しく述べているのだそうですが、 要するに、物体の中に運動の力があるとするなら、真空においてはその力 を滅するいかなる原因もないので、運動は果てることがない、(でも実際 にはあらゆる運動は終わるので真空はありえない)というのが骨子となっ ています。ただ、ラテン語版の『自然学』では訳語の選択や語順の入れ替 えなどで不明瞭さが増し、テキストが損なわれて意味が正しく伝わらなく なっている(アリストテレスの媒質理論に適合するような意味になってい たりする)、とマイヤーは論じています。実例は割愛しますが、マイヤー からすると、アヴィセンナの考えを西欧のスコラ学者たちがきちんと取り 込んでいたかどうかは疑問だということになってしまうのですね。 マイヤーは結局、インペトゥス理論の展開は史的な従属関係から見るので はなく、アラブ世界と西欧とに類似の考え方がパラレルに存在していたと 捉えるほうがよいのではないかと考えます。これはある意味とても妥当な 見方だとも思えます。アリストテレス思想が伝わり、その内的な論理から 同じような問題点が浮かび上がり、同じようなアプローチをかけるがゆえ に同じような見解が導かれる……それは十分にありそうな気がします。マ イヤーはその際のアプローチの基礎として「経験への志向」があったと論 じていますが、それはピロポノスが見出したのとまさしく同様の志向性で す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その1) 今回から、『ボエティウス「三位一体論」注解』の問四第三項を見ていき ます。題して「場所論」。例によって論じるパターンは一緒で、まずは異 論、反対異論ときて、持論が述べられます。今回は最初の異論部分の前半 です。さっそく見ていきましょう。 # # # Articulus tertius Vtrum duo corpora possint esse uel intelligi esse in eodem loco Ad tertium sic proceditur; uidetur quod duo corpora possint intelligi esse in eodem loco. Omnis enim proposito uidetur esse intelligibilis in cuius subiecto non includitur oppositum predicati; quia talis proposito non habet repgnantiam intellectum. Set hec proposito 'duo corpora sunt in eodem loco' non est huismodi, alias numquam posset miraculose fieri quod duo corpora sint in eodem loco; quod patet esse falsum in corpore dominico, quod exiuit clauso utero Virginis et intrauit ad discipulos clausis ianuis: non enim Deus potest facere quod affirmatio et negatio sint simul uera, ut dicit Augustinus contra Faustum. Ergo potest aliquis saltim intellectu fingere corpora esse in eodem loco. 2. Preterea. A corporis glorificatis non remouetur natura corporeitatis, set solum natura corpulentie. Set remouetur ab eis ista conditio quod non possunt esse in eodem loco, per dotem subtilitatis, ut a multis dicitur. Ergo hec conditio non sequitur naturam corporeitatis, set corpulentie siue grossitiei cuiusdam. Ergo non est impossibile uniuersaliter duo corpora esse in eodem loco. 3. Preterea. Augustinus dicit, Super Genesim ad litteram, quod lux in corporibus primum tenet locum. Set lux est simul in eodem loco cum aere. Ergo duo corpora possunt esse simul in eodem loco. 4. Preterea. Quelibet species ignis est corpus. Set lux est quedam species ignis, ut dicitur Philosophus in V Topicorum. Ergo lux est corpus; et sic idem quod prius. 第三項 二つの物体は同じ場所に存在しうるか、あるいは存在すると理解できるか 第三項については次のように進めよう。一.二つの物体は同じ場所に存在 すると理解できるように思われる。述語に対立するものが主語に含まれて いない場合、そのすべての命題は理解可能と考えられる。というのも、そ のような命題の場合には概念の矛盾がないからだ。しかるに「二つの物体 が同じ場所に存在する」というこの命題にはそのような概念の矛盾はな い。さもないと、奇跡によって二つの物体が同じ場所に存在しうることも 決してないことになる。主の身体においてそのことが偽であることは明ら かである。主の身体は処女の閉じた胎から出でて、弟子たちの閉じた戸へ と入っていったのだから。アウグスティヌスが『ファウストゥス反駁』で 述べているように、神は肯定と否定を同時に真理にはできないのである。 以上から、人は少なくとも知性でもって、物体が同じ場所に存在すること を思い描きうる。 二.加えて、栄光へと高められた身体から取り除かれるのは身体性の本性 ではなく、空間的厚みの本性のみである。しかるに、多くの人によって言 われているように、そこからは、精妙さの付与によって、同じ場所には存 在しえないという条件が取り除かれるのである。したがってその条件は、 身体性の本性に付随するのではなく、物体のもつ空間的厚みもしくは幅に 付随するものである。したがって二つの物体が同じ場所に存在すること は、普遍的に不可能とは限らない。 三.加えて、アウグスティヌスは『創世記逐語注解』で、光が物体におい て第一の場所を占めると述べている。しかるに光は、空気と同時に同じ場 所に存在する。したがって、二つの物体は同時に同じ場所に存在しうる。 四.加えて、火のどの種も物体である。しかるに『トピカ』第五巻で哲学 者が言うように、光は火のある種である。ゆえに光は物体である。以下、 上述のものと同様。 # # # トマスが示すこの異論の数々は後に論駁するためのものですが、それらの 異論はときおり、中世において権威をもつとされる人々からの引用で補強 されています。そういった権威に対してもごく自然に論駁を加えてしまう という点は、現代の私たちから見るとちょっと奇異な感じもしなくありま せん。実際、たとえばハンナ・アーレントなども、そうした点に「当惑さ せられる(鮮烈である)」と述べていたりします(『精神の生活』)。今 回の箇所でも、目につくところだけでアウグスティヌスが二度、アリスト テレスが一度(「哲学者」)引用されています。そのほか、明示的ではな い言及として、聖書からの引用もあります(「弟子たちの閉じた戸」はヨ ハネによる福音書の二〇章一九および二六)。 トマスは自説の擁護にも、反駁対象の場合と同様、様々な権威を引用しま す。ときには反駁と同じ著者の引用をもってきたりもします。そのあたり から考えるに、権威を引用している議論に反駁しても、反駁の対象はあく までその議論自体であって、引用は一種の悪しき流用にすぎず、したがっ て反駁によって引用もとの権威そのものにキズがつくことはない、という ことが暗黙の了解になっている感じがします。ちょうど、被造物について いかに批判しようが神を冒涜することにはならない、というのと同様の姿 勢です。議論そのものと、引用される権威との間には、大きな隔たりがあ るのですね。中世における権威とは、やはり私たちが考えるものとは意味 合いが大きく異なっているのでしょう。これは些細ながら重要なポイント かもしれません。 さて、本題に移りましょう。先の第二項に続き、この第三項も、ボエティ ウス『三位一体論』の第一章の一節をめぐる注解となります。第二項で検 討されたのは、「数の上での相違(個の相違)は付帯性における多様性が もたらす。三人の人がいた場合、彼らは類でも種でもなく付帯性によって 異なるのだ」という一節でした。それに続く箇所は、「仮に頭の中で、彼 らからすべての付帯性を取り除いたとしても、それぞれの占める場所は異 なり、一つの場所と思い描くことはまったくできない。なぜなら二つの物 体が一つの場所を占めることはないからだ。場所とは付帯性なのである」 となっています。この「二つの物体が一つの場所を占めることはない」と いう一節について、トマスはこの第三項で説明することになるわけです。 長倉久子『神秘と学知』も引き続き参照していきますが、その解説部分に よると、二つの物体が同一の場所を占めないことの説明というのは、キリ ストの復活体との関連で当時多くの議論がなされていたとあります。なる ほど、すでに上の本文の二のところで、栄光へと高められた身体(復活 体)が言及され、そうした身体からは同じ場所に存在しえないという条 件、つまり空間的厚みという条件が取り除かれるという議論が提示されて います。「多くの人によって言われている」というのは、長倉注および伊 語訳の注によると、具体的にはアルベルトゥス・マグヌスやボナヴェン トゥラの『命題集注解』からの一節を指しているのですね。伊語訳の注で は、空間的厚みと訳出したcorpulentiaという用語も、アルベルトゥスの 『自然学』(四巻第二論の八)からのものとされています。 そんなわけで、復活体の問題など中世の神学論での場所論の扱いにも目を 配りながら、ぼちぼちと読み進めていくことにしたいと思います。またし ばらくのおつきあいをお願いいたします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------