〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.158 2009/10/24 *今号は10月10日に発行するはずだったものです。諸般の事情にて遅れ ましたこと、お詫び申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ インペトゥス理論再訪(その12) 前回のビュリダンの理論は、その後に継承者を得て長らえていくようです が、とはいえ一方でこれを批判する立場もあったようです。批判者はア ヴェロエス派だったり、マルキアのフランシスクスの追従者だったりする ようで、なかなか一筋縄ではいきません。そのあたりの反論も詳しく見て いけば面白いのでしょうけれど、煩雑になってしまうのではここでは割愛 します。とりあえずビュリダン以後の本流(?)のみ一通り見ておくこと にしましょう。 マイヤー本によると、ビュリダン以後のインペトゥス理論的「本流」には 3人の名が連なります。ザクセンのアルベルト、ニコラ・オレーム、そし てインゲンのマウシリウスです。同書に従い、今回はそれらのうちニコ ラ・オレームに登場願いましょう。年代的にはオレームよりもザクセンの アルベルトのほうが若干先行するようなのですが、マイヤーはアルベルト のほうがオレームから影響を受けていると見ています。 オレームがインペトゥス理論を論じる著書には、フランス語版、ラテン語 版の『天空論注解』があります。実はもう一つ、フランス語での『自然学 注解』もあったようなのですが、これは残念なことに失われているといい ます。『天空論注解』はラテン語版がフランス語版に先立つようで、後者 が1377年ごろなのに対し前者は1348〜62年ごろとされています。ラテ ン語版『天空論注解』で扱われる問題は自由落下で、自然運動は最後に最 初より速くなるか、運動の変化や増大はいかにしてもらされるかと問われ ます。 オレームはまず、自然の運動は最後に最も速くなり、人為的な激しい運動 は最初が最も速いとして両者を区別します。さらに中間が最も速くなる運 動として、投擲のような運動も挙げられます。これはもともとアリストテ レスの『天空論』2巻にある記述にもとづいているのですが、激しい運動 と投擲のような運動との区別がいまひとつ曖昧で、後世の注解者たちの議 論の的にもなってきました。スコラ学においては、最初が最も速いとされ る激しい運動を特に注意せず、投擲において動因から離れた直後の運動を 「中間」と解釈していたといいます。これに対してオレームは、中間を時 間的に解釈し直しているのですね。 インペトゥスの話はこの関連で出てきます。ビュリダンと同様に、動因と の接触を離れた後の物体はインペトゥスによって動き、それが環境の抵抗 を受けて漸減する、といった内容が記されています。このことからも、投 擲の運動(激しい運動)では最初が最も速いと結論づけられています。オ レームの議論は次に自由落下の問題に移り、落下の原因となる重さ (gravitas)には、本質的なものと付帯的なものとの二種類があるという 話になります。で、この後者においてインペトゥスが再び取り上げられま す。「付帯的な重さ」をもたらすものとして、場所、距離、形状などが列 挙され、その次に、インペトゥスを得るもととされる激しい運動が挙げら れています。物体に速い運動が加わると、その運動がもたらすインペトゥ スによって物体の落下速度は増す、と考えられているわけです。 ですがそう言ってしまうと、落下物はどれも運動するわけですから、その 過程でインペトゥスを得て加速されるという風になってしまい、区別され ていた本質的な重さは初速にしか関係しないことになってしまいます。あ れ?これって汎インペトゥスという感じになっていくのでしょうか。実 際、オレーム自身も後にはインペトゥスと付帯的重さとを同義語のように 扱うようになるらしいのですが、このあたりの話はまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ トマス・アクィナスの場所論を読む(その8) 異論への反論部分、今回はちょっと短いですが(三)から(五)を見てい きます。異論はそれぞれ次のようなものでした。(三)光は物体だとアウ グスティヌスは言い、光は空気と同一の場所を占める。(四)火のスペキ エスはすべて物体であり、光は火のスペキエスなのでやはり物体である。 (五)熱された鉄には火と鉄が同時に存在する。では、これらに対するト マスの反論を見ていきましょう。 # # # 3. Ad tertium dicendum, quod lux non est corpus set qualitas quedam, ut Damascenus dicit, et etiam Auicenna. Agustinus autem lucem nominat ipsum ignem, quod patet ex hoc quod condiuidit lumen contra aerem, aquam et terram. 4. Ad quartum dicendum, quod tres species ignis a Philosopho assignate sic sunt intelligende ut per lucem intelligatur ignis in propria materia existens; dato enim, ut quidam dicunt, quod ignis in propria spera non lucet: lucis enim non est lucere set quod ex eius participatione alia luceant, et similiter ignis etsi in propria materia non luceat, tamen eius participatione alia lucentia fiant. Per flammam autem intelligitur ignis existens in materia aerea, per carbonem in materia terra; in materia autem aquea non potest ignis conualescere in tantum quod ignis nomen habeat, quia aqua habet omnes qualitates oppositas igni. 5. Ad quintum dicendum, quod in ferro ignito non sunt duo corpora, set unum corpus habens quidem speciem ferri set aliquas proprietates ignis. 三.第三点に対しては次のように言わなくてはならない。ダマスケヌスや アヴィセンナが言うように、光は物体ではなく何らかの性質である。一方 でアウグスティヌスは、光は火そのものであると考えた。アウグスティヌ スが光を空気、水、土から区別したことから、それは明白である。 四.第四点に対しては次のように言わなくてはならない。哲学者により規 定された火の三つのスペキエスは次のように理解されなくてはならない。 光によるならば、火はその固有の質料において存在していると理解され る。ある人々が言うように、たとえ火はそれ固有の領域においては光を放 たないにせよ、である。というのも、光ることは光の属性ではなく、光へ の参与によって他のものを光らすことがその属性だからだ。同様に火も、 その固有の質料においては光らないにせよ、参与することで他のものを光 らせるのである。一方、炎によるならば、火は空気の質料において存在し ていると理解されるし、炭によるならば、土の質料に存在していると理解 される。ただし水の質料においては、火はその名をもつものとしての力を ふるうことができない。なぜなら、水は火に対立するあらゆる性質を有す るからである。 五.第五点に対しては次のように言わなくてはならない。熱した鉄には二 つの物体があるのではなく、鉄のスペキエスを持ちながら他方では火の属 性を持った一つの物体がある。 # # # 今回は火のスペキエス、とくに光が問題になっていて、ドクソグラフィと いう観点からも興味深い箇所ですね。長倉訳の注では、ダマスケヌス(ダ マスクスのヨアンネス)とアヴィセンナの参照部分はそれぞれ『正統なる 信仰について』第一巻八章と『霊魂論』第三部第一章とされていますが、 これらは残念ながら確認が間に合いませんでした。 同じく長倉訳の注では、アウグスティヌスの言及箇所は典拠不明となって います。一応、『自由意志論』が挙げられていますが、そこでは「光は第 一の場所を占める」とあるだけのようです。伊語注のほうは『創世記逐語 注解』(第一書九章一七節)を参照せよとなっていますが、そちらもま た、光は創造において第一の場を占める、ということが記されているのみ です。光は火そのものである、とは述べられていません。どうもこの、参 照箇所の微妙な齟齬はとても気になります。なにかアウグスティヌスの偽 書とかあったのでしょうか?謎です。 余談ですが、主にフランシスコ会が唱える「アウグスティヌス主義」で は、光にはとても重要な意味が付されているのでした。それは認識をもた らす根拠をなしています。坂口ふみ『天使とボナヴェントゥラ』(岩波書 店、2009)によると、ボナヴェントゥラ(アウグスティヌス主義の第一 人者ですね)は「自然の光」を、人間の認識を育む神の光と同形のもので ありながら、神の光が共働しなければ十分とはいえないものと捉えていま す(p.38)。光は神的な力の一種のメタファーとなっているようにも思 えますが、あるいはこれ、私たちが考えるメタファー以上の意味合いが あったのかもしれません。 対照的に分析的アプローチを重んじるトマスにあっては、光はメタファー 的ではなく、現象に根ざしたものです。基本的に光は物体ではなく性質で あるという立場ですね。光は火とは別物と考えられ、あくまで火の現象面 (スペキエス)の一つにすぎないのですね。火の三つのスペキエスという 話はアリストテレスに準拠していることがわかりますが、厳密には『トピ カ』(五巻五章、134b28-30)で取り上げられています。そこでは火の エイドス(スペキエス)として、炭、炎、光が挙げられています。 それに続く本文の「ある人々」というのは、マイモニデスなどを言うよう です。火が本来は光を放たないというのは、『迷える者への手引きの書』 第二部三〇章(創世記の冒頭を注解した部分)に、元素として「土、水、 息吹または空気、闇」が挙げられ、この闇が元素的な火を表すと記されて いるからです。元素的な火は光るものではなく、ただ単に透明なのだとさ れています。さもないと、夜でも地上世界は光で満ちてしまうではない か、と論じられます。 うーん、闇と火が同一視されているのはちょっと興味深いですね。ついつ い偽ディオニュシオス・アレオパギテスあたりの否定神学などを思い起こ してしまいますが、それはともかく、このあたりの話の出所はさらに文献 的に遡れそうな気もします。ちょっとこれも、今後の課題ということで 取っておきたいと思います。 次回は異論部分の残りをやっつけてしまうことにします。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月07日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------