〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.163 2010/01/09 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その1) 新たに趣向を変えて、医学思想の周辺をめぐってみたいと思います。今回 からしばらく取り上げるのは「胚」の問題です。母胎内にある胎児のこと ですが、これは古代から中世にかけての思想的伝統の大きな問題に関係し てきます。つまり、どこからが人間なのか、魂はいつどうやって吹き込ま れるのか、身体と魂はどう結合しているのかといった存在論的な問題で す。そんなわけで、古代や中世の医学思想の側から、人間の誕生の問題が どう扱われ、どのように解釈されていたかをめぐってみたいと思います。 題して「胚をめぐる冒険」(笑)。 なぜいきなり胚の問題なのかといえば、それはひとえに、昨年に刊行され た一冊の論集に触発されたからです(笑)。その一冊とは、リュック・ブ リソンほか編『胚 - その形成と生命活動』("L'Embryon - Formation et animation", Vrin, 2009)というもので、14編ほどの論文が収録されて います。全体としてはガレノス/ポルピュリオスのとある文書に見られた 胚の考え方を中心に、それと対照をなす考え方(ヒポクラテス、アリスト テレス、ストア派、さらには創世記の人間誕生の考え方など)なども含 め、様々な思想的伝統を浮かび上がらせようとしています。後世への影響 など様々な論点が取り上げられています。というわけで、ここではその収 録論文のいくつかを案内役に見立てて、できれば参照されている原典も眺 めつつ、古代から中世にかけての人間形成の伝統的考え方について概観し てみたいと思います。 さっそく今回は古代の話から見ていきたいと思います。胚は果たして人間 なのかどうか、という根本問題は、すでに古代ギリシアにおいて発せられ ていたようなのですね。ヴェロニク・ブドン=ミロという人の論文の導入 部では、偽プルタルコスの『哲学所見(De placitis)』(長らくプルタ ルコスの書とされていた同偽書は、最近では帝政時代に編纂されたものと いう話になっているそうです)の記述をもとに、大まかな見取り図を示し ています。 それによるとまずプラトンは、胚が動くことを理由にそれが生きていると 考えたようです。ところが、そうではないとする考え方もいろいろあり、 たとえばストア派は、それはあくまで母親の腹部の一部であり、生きてい るものではないと考えたといいます。植物的比喩を使い、果実が木の一部 であるように胚は母胎の一部であるとしています。エンペドクレスは、胚 は呼吸していないのだから生きてはいないとし、ディオゲネス(セレウキ アの)は、胚には魂がないので生きてはいないと考えます。ヘロフィロス (紀元前4世紀ごろのアレクサンドリアの医学者)は、胚にはピュシス的 な動きは見られるものの、呼吸は見られず、ゆえに出生後に空気を吸って 初めて人間になるのだと考えたのでした。「胚は人にあらず」という見識 は、意外に広く共有されていることがわかります。 別の論文(ジャン=バティスト・グーリナ)は、そうした「胚は人にあら ず」の考え方はストア派を中心として展開していたことを指摘し、その内 容を詳しく論じています。それによると、プラトンとストア派の見解の基 本的対立点は、主に運動の有無と栄養摂取にあるといいます。ストア派の 発生学では、上にも記したように胚は胎内で植物の実と同じように栄養摂 取するとされ、もとより胚は魂とは見なされず、ピュシス(自然)の一部 としてある息吹のことだとされています。そして出生時に冷たい外気に触 れることにより、その息吹が魂へと一気に転じるとされます。「熱した鉄 が冷水に浸かると凝固するように」と、これまた比喩的に語られていま す。魂の成立過程を凝固作用のように捉えているのが面白いですね。 この考え方は偽書ではない真正のプルタルコスの書が伝えているストア派 の考え方だとのことですが、一方でストア派の伝統的な考え方では、呼吸 で取り込まれる外部の熱でもって体液が蒸散したものが魂である、という 伝統的な立場もあるといいます。両者はあきらかに対立していますが、プ ルタルコスの次の世代にあたるガレノスなどの文書では、その矛盾を解消 すべく、魂の成立は凝固作用だけれども、その後は吸気を通じて外部の熱 が取り込まれ、それによる血液からの蒸散によって魂が保持されるのだと の説明が導入されているようです。 このように、すでにしてギリシア世界において胚の考え方はいろいろで す。それが後世においてどう継承されていくのかが、さしあたりの焦点に なりそうです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その4) 『個体化の原理について』の問七「同じ種に複数の天使がありうるか」を 読んでいます。前回からスコトゥスの自説に入っています。では、続く今 回の箇所もさっそく見ていきましょう。 # # # Praeterea, quaelibet quiditas creaturae potest intelligi sub ratione universalis, absque contradictione; si autem ipsa de se esset "haec", contradictio esset eam intelligere sub ratione universalis (sicut est contradictio intelligere essentiam divinam sub ratione universalis), quia ratio intelligendi repugnat suo obiecto intellecto, - quod est, intellectum esse falsum; igitur etc. Praeterea, si Deus potest hunc angelum in hac specie annihilare, isto annihilato potest istam speciem de novo producere in aliquo alio individuo, quia per annihilationem huius singlaris non repugnat speciei esse; aliter enim esset tantum ens ficticium, sicut chimaera. Potest ergo iterum producere ipsam speciem in aliquo individuo, alias non posset eundem ordinem facere universi quem fecit a principio; sed non in isto, secundum illos qui sunt istius opinionis "quod homo non posset resurgere idem numero nisi anima intellectiva maneret eadem numero". Praeterea, animae intellectiva distinguuntur numero in eadem specie, et tamen sunt formae purae licet perfectivae materiae; non igitur est impossibilitas a parte formarum quod distinguantur numero in eadem specie: quidquid enim concluderet istam impossibilitatem ratione formae, in angelis, concluderet et in animabus. 加えて、いかなる被造物の何性も普遍にかかわる理性のもとで矛盾なく知 解されうる。仮にそれがおのずと「このもの」であるならば、普遍にかか わる理性のもとでそれが同一であると知解されることは矛盾をきたす(神 の本質を普遍にかかわる理性のもとで理解することが矛盾であるのと同様 である)。なぜなら、知解する側の理性が知解対象と一致せず、つまりそ の場合の知解は誤りということになるからだ。したがって……以下略。 加えて、仮に神が「この種」の「この天使」を消滅させることができると すれば、神はその消滅をもって、その種を別の個体として再び生み出すこ ともできる。なぜなら、その個体の消滅は種の存在と矛盾するわけではな いからである。さもなくば、種はキマイラのような架空の存在ということ になってしまう。したがって神は同じ種を別の個体として生み出すことが できる。そうでなければ、最初に創った世界に秩序を与え直すことはでき ないことになってしまう。しかしながら、「人間は、知的霊魂が同一であ り続けるのでなければ、同じ個体として蘇ることはできない」と考える 人々によれば、そうではない(神は同じ種を別の個体で創ることはできな い)ことになる。 加えて、知的霊魂は同じ種のうちで区別される。一方でそれらは純粋な形 相であり、質料の完成をもたらす。したがって、形相をもって同じ種の個 体を区分することは不可能ではない。形相の考え方から天使においてこの ことは不可能だと結論づける者は皆、魂についても不可能と結論づけるこ とになってしまう。 # # # 「同じ種に複数の天使がありうる」という肯定のため、前回の箇所では 「何性は数的な区別があるからこそ共約可能なのだ」とし、種の存在の認 識が個を前提にしていることが指摘されていました。今回の箇所ではまず 知的理解において普遍と個別の相が区分されることが、知性が知解するの はあくまで普遍であるという前提(つまり感覚的与件に関わる「このも の」には関わらないということ)から指摘されています。これも認識論的 な話ですね。次いで今度は存在論的な観点から、個の消滅が種の存続と矛 盾しないこと、純粋な形相的存在もまた個の区別と矛盾しないことが示さ れています。このあたりはあるいは核心的な部分かもしれません。 さて今回もまた全体の見取り図の続きをさらっておきましょう。問1から 問5で、個体化の原理の候補に挙がった様々なもの(質料的実体、否定 性、本質の現実的な存在、量、未分化の質料)を次々に斥けていったスコ トゥスは、いよいよ問6において「では個体化の原理は何なのか」を考え るにいたるのですが、そこにいたってついに候補そのものがなくなってし まいます。ここでスコトゥスはなんとも搦め手のような回答を出してきま す。つまり(仏訳の解説者ジェラール・ソンダグの言い方に従えば)モノ はすべからく共通的な側面と個体的な側面による二重の規定を受けてい る、というのです。 「共通するものの一性がその実在性(entitas)の結果であるように、個 別の一性も、その実在性の結果である」とスコトゥスは言います(ちなみ にこの「実在性」というのはここでの便宜的な訳語です)。このことか ら、「一性が端的に(……)実在性のもとにあるなら、それはおのずとな にがしかの実在の結果としてある」といい、そして実在性とは「本質の存 在そのものとは別の存在」、「本質を規定し、おのずと一つであるような モノを本質とともだって成立させるもの」とされます。モノが実在するこ とのうちに、共通するもの(本質)と一性(個別)とがすでにして織り込 まれているのだ、という感じでしょうか。 アリストテレスの論理学によると、類を種にわけるのは差異(種差)です が、そこには二つの場合があります。一つは形相の付与が関係する場合 (「理性」の付与によって動物から人間が切り出されるような場合)、も う一つは形相そのものが有する「形相性(formalitas)」の発現が関係す る場合(潜勢態としてある存在が現勢態になるような場合)です。では、 種を個にわける差異はどんなものかといえば、そこではもはや形相付与は 関係せず、後者の形相性の発現のみが問題になります。実在とは形相が最 終的に現勢化したものにほかならず、ゆえに個体化の原理は実在性そのも のに内在していることになるわけですね。 スコトゥスはさらに、形相がモノの構成要素の一つであるとともに、何 性、つまり形式論理でいう述語であるのと同様に、もう一方の質料も、モ ノの構成要素であるとともに、命題における主語でもある(述語である形 相によって限定されるもの、ということです)点に着目します。とする と、実在の個体は質料が形相(何性)によって限定され現勢化したものと いうことになるので、個体差は質料の限定具合によって生じると考えるこ とができます。形相は共通のものなので、限定の違いは質料の側に求めら れそうですが、とはいえ質料が個体化の原理というわけでもなく、ただ問 題なのは限定の微細なズレにある……ということになります。なにやら微 妙な位置づけですね。こうしてスコトゥスにおいて、個体の違いは「質料 的な違い」ということになります(「質料による違い」ではありませ ん)。ただしこれは、質料そのものと、すでにして限定された質料とを分 けて考えていたトマスの議論とは異なっています。 と、ここまでくると、では非物質的な存在の場合はどうなるのでしょう か。それはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------