〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.165 2010/02/06 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その3) 前回、アリストテレスによれば種子には体のパーツが全部入っているので はなく、種子はあくまでその可能態を秘めているにすぎず、それが母胎内 で現勢化していく(これは漸進説と称されています)とされていたことを 見ました。実はこのあたりの話の重要なソースになっている文献がありま す。それが「ガウロス宛(書簡) - 胚がいかに魂を付与されるかについ て」(通称「ガウロス宛書簡」"Ad Gaurum")と題された文書です。 これは長いことガレノス(2世紀)の作ではないかとされてきた文書らし いのですが(現存するテキストはパリの国立図書館にあるのみとのこ と)、今ではポルピュリオス(3世紀)の作、もしくはそれを主なソース にした作ということで落ち着いているようです(つまりは新プラトン主義 界隈の文書ということ)。ギリシア語テキストはまだ見ていませんが、す でに出回っているものとして仏訳、独訳などが各種あり、英訳も近々刊行 されるようです。 この文書はここで取り上げている論集全体のいわば中心をなす重要文献で す。タイトルにあるように、魂の付与という点が強調されていますが、ド クソグラフィー的な面などもあり、同論集では各論考がそれぞれに興味深 い視点で取り上げています。上の漸進説がらみでは、アン・エリス・ハン ソンという人が同文書での言及を中心に、ヒポクラテス(前4世紀)派と ガレノスの見解の違いを対比させています。 ヒポクラテス(とその弟子筋)とガレノスとの間には実に500年以上の隔 たりがあるわけですが、いずれも上の漸進説を採用しています。医学思想 としては実に息の長い説なのですね。ですが当然というべきか、やはり違 いもあり、ヒポクラテス派では母親の側からも種子がもたらされるとされ ていたようです。母親似を説明するためだったようで、父母両方の種子が 混合されるという、デモクリトスの考え方を引き継いでいる感じです。さ らにヒポクラテス派では、これに男性優位の考え方を加え、オスの胚のほ うが成長が早く壮健でもある、といった説を唱えます。ギリシアの都市国 家などの男性優位思想の影響、と著者のハンソンは述べています。 女性の役割は総じて低く見られ、ヒポクラテス派では母胎すら単なる容器 としか見なされず、出産も胚の側がみずからの力で動くことによって促進 されるのだと考えられていたといいます。オスの胚(胎児)のほうがメス の胚よりも出産時に早く動くといった見解も、ヒポクラテス派のものとし て「ガウロス宛書簡」が伝えています。一方、ガレノスや、「ガウロス宛 書簡」の著者は、胚の動きや出産の促進は胚そのものが原因ではないとい うことを承知していました。それらは母胎の側による作用だとしていたの ですね。 「ガウロス宛書簡」では、ヒポクラテスは胚を植物的なものと見なしてい たといいます。当時は中絶や死産の場合など、胎児の後期段階は観察でき ても、胚の初期段階は観察できず、結局それは外部の植物などの観察を通 じて類推的に「語り」を作っていたようです。ガレノスの時代になっても それはさほど変わらなかったようで、さらに後代の「ガウロス宛書簡」で も、出産にいたるまでの母胎内での胚は植物的な存在(とはいえ妊娠期間 の最後のほうでは動物的なものになるとされます)と見なされています。 そして出産時に魂が付与されるというわけです。ここには前々回に見たス トア派の影響も感じられますね。 「ガウロス宛書簡」のほかにも胚の問題を論じた偽ガレノス文書があるよ うで、それらからすると、胚は種子(男親からもたらされる)の受胎段階 から生物と見なされ、発達については漸進説が採用され、最終的に魂(理 性的魂)の付与は出産時に外部からなされるというのが、アリストテレス 思想をも取り込んだ新プラトン主義のほぼ標準的(?)な考え方だったこ とが窺えます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その6) 今回もスコトゥス本人の主張の続きです。「天使は同一種内に複数の個体 がある」ということを様々な点から論証しようとしています。ではさっそ く見ていきましょう。 # # # Confrimatur etiam hoc per aliquos, quibus est inconveniens quod aliqua species simul tota sit damnata naturae intellectualis simpliciter; multae autem species angelorum essent, in quibus nulla esset salvata, posita illa positione; igitur positio non est vera. Et persuadetur prima propositio, per hoc quod dicit Augustinus in Enchiridion cap.29: "Placuit universali dominatori, ut, quoniam non tota multitudo agelorum Deum deserendo perierat, - illa quae perierat, in perpetua damnatione remaneret, - quae autem cum Deo illa deserente perstiterat, de sia certissime cognita semper futura felicitate gauderet; at vero natura rationalis quae in hominibus erat, quoniam peccatis atque suppliciis tota perierat, ex parte reparari meruit, - unde agelorum societati curtatae iungeretur quod ruina illa minuerat". Ista totalis et partialitas in angelis, non videtur esse rationalis nisi ponatur quod nulla species angelica quantum ad omnia individua totaliter perierat, et ita aliqui de quacumque specie corruerunt et aliqui perstituerunt; quare etc. Praeterea, si concedatur quod quiditas angeli ex se est pluribus communicabilis, et per consequens - quantum est, de se - infinitis (quia non est ratio impossibilitas ex parte multitudinis numeralis), si per hoc quod ipsa "natura" producta est in isto individuo auferatur possibilitas eius essendi in pluribus, igitur est in hoc individuo secundum totam communicabilitatem suam, - et per consequens infinite, quia est infinite communicabilis secundum quiditatem suam; igitur ille unus angelus esset formaliter infinitus. Consequens inconveniens, ergo et aliquod antecedens. このことは次のことによっても論証される。すなわち、ある人々は、任意 の種の天使が咎を受けることが、即、その知的本性の全体が咎を受けるこ とになるのは不都合だとする。しかしながら天使の種が仮に複数あったと しても、彼らの立場では(知的本性は)まったく救済されないことになっ てしまう。よってその立場は真ではない。 またその大前提は、アウグスティヌスが「エンキリディオン」第二九章で 述べたことからも承服される。「そのことは万物の主を喜ばせた。神のも とを去らなければならなくなった多くの天使すべてが滅んだわけではな く、滅んだ者たちは永劫の罰を受けることになり、神を見捨てた者もある 一方で、神のもとにとどまった者たちはこの上なく確かな喜ばしき未来を 永遠に享受するからである。一方、人間のもとにある理性的本性は、罪と 罰によってすべて滅んでいたがゆえに、部分的な修復に値するとされ、か くして、堕落により減じ縮小していた天使の集団に加えられたのであ る」。天使のこの「全体」「部分」を理性的に捉えるならば、天使のいか なる種もすべての個とともに全体として滅ぶことはなく、任意の種のある 者は滅んでも別の者は存続すると考える以外にない。なぜなら……以下 略。 加えて、天使の何性がもとより複数の間で共通可能であると譲歩するので あれば、結果的にそれは天使の数だけ無限であることになる(なぜなら数 の上での複数性からすれば、無限であることは不可能な道理ではないから だ)。ところで、特定の個体においてかかる「本性」が生じた事実から、 それが複数存在する可能性がなくなるのだとするなら、その個体には共通 可能性のすべてが存することになり、結果的に無限にそうであるというこ とになる。なぜなら何性である限りにおいて、共通可能性は無限だからで ある。すると、一体の天使は形相としては無限ということになってしま う。この結論は整合性がなく、かくして先立つ小前提も同様である。 # # # 前回の本文では、ハビトゥス(多義的な語ですが、ここでは「素地」「性 向」くらいの意味でしょう)は形相に属するのではなく、関係性に属する のであるから、個体を成立させる原理にはならないという議論がなされて いました。続く今回の箇所では、具体的に天使のあり方に即しつつ、とは いえ論理学的に論を進めています。 最初の段落でいう「ある人々」というのは、天使のそれぞれの種には個体 が一つしかないと考える人たち(トマスなど)のうちのある人々というこ とのようです。天使のそれぞれの種に個体が一つ、ということは、その知 的本性の共有は種のレベルでなされていることになり、いくら種が複数あ ると言ったところで、どれか一つの種が咎を受ければ、即、全体のレベル に波及してしまうではないか、という意味でしょう。 二つめの段落も同じ前提(「任意の種の天使が咎を受けることが、即、そ の知的本性の全体が咎を受けることになるのは不都合である」)で話が進 んでいます。面白いのは、「天使が罪を犯したためにある程度の数で罰せ られ、それを補うために人間が創られた」という話ですね。スコトゥスは アウグスティヌスの『エンキリディオン』の29章を挙げています。もと のアウグスティヌスの文面はだいたい上記の通りですが、若干言葉遣いな どの違いも見受けられます(スコトゥスの引用は少し端折っています ね)。スコトゥスが準拠している写本がどのようなものかは不明ですが、 ここでは取り上げないものの、このあたりの異同とかも面白い問題かもし れませんね。 なんともタイムリーなことに、この天使補完論については、これまでも何 度か言及している大橋氏のブログ『ヘルモゲネスを探して』(http:// blog.livedoor.jp/yoohashi4/)で、ブルーノ・ナルディの研究書を取り 上げたエントリで言及されています(2010年2月1日前後のエントリを参 照のこと)。それによると、この話はペトルス・ロンバルドゥスの『命題 集』(12世紀)によって中世に定着したものなのだとか。ですがそれは 大グレゴリウス(6世紀)なども取り上げているといい、さらにはオリゲ ネスやグノーシス派にまで遡れるのだそうです。これは実際に辿ってみた ら面白そうですねえ。いつかちょっと探索してみたい気がします(笑)。 本文に戻ると、三段落目も同じ議論を別の形で論証しようとしています。 無限に共通可能なはずの「何性」(大前提)ですが、「天使が種別に一個 体」であるとすると、その一個体にのみ何性が集約してしまい(小前 提)、かくして天使の個体は形相として無限を湛えていることになる(結 論)というわけです。個体というのはそもそも一形相の発現なのですか ら、この結論は矛盾をきたすとされ、結局その前の小前提が間違っている ことになり(大前提は問題ありません)、よって「天使が種別に一個体」 だという仮説が否定されるのですね。 今回の箇所もまた、基本的には敵対する説の論理学的矛盾を挙げて論駁す るという形ですね。このあたりはまさしくスコトゥスの真骨頂というか、 (俗っぽい言い方ですが)お家芸のような雰囲気すら感じられます (笑)。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------