〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.169 2010/04/03 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その7) いよいよ今回から中世の話です。具体的なテキストも眺めていきたいと 思っていますが、まずは中世の動向全体を俯瞰する意味で、再び例の論集 『胚 - 形成と生命付与』に所収の論考から見ていきましょう。中世を扱っ たものとして、マイク・ファン・デル・ルフトの「中世思想における人間 の胚への魂付与」(pp.233-254)があります。これは有益なまとめに なっていると思いますので、今回と次回の二回にわけて、この論文に沿っ て中世の胚をめぐる考え方の概要を押さえておきたいと思います。 まずギリシア教父と同様、初期のラテン教父(テルトゥリアヌスやアウグ スティヌス)にも、魂は種子によって親から子へと伝えられるという考え 方は優勢だったといいます。これはつまり、受胎の段階で種子に魂が入っ ているというものです。この説は、原罪の伝播の説明が容易になるという メリットがある一方、個々人の死後の魂の不滅とか、そもそも親の魂から 子の魂がどう分離するのかなどの説明は難しくなってしまうデメリットも あります。そこでこれと並行して論じられていたのが、神は日々新たな魂 を創造しているという別の考え方でした。12世紀には、個別の魂はすべ て神が創造して胚に注ぎ入れるのだ、という考え方がほぼ定着したといい ます。原罪の伝播については、アダムの身体の一部(粒子)が受け継がれ る、あるいは受胎時の両親の欲望が影響するといった説で補足されていた ようです。 ですが、そうすると今度は、魂は一体いつ胚に注ぎ入れられるのだろう か、という問題が出てきます。12世紀までにはすでに、胚の形成につい て、部分的観察にもとづく所見も出ていて、たとえばサレルノの医学に影 響を与えたとされるコンスタンティヌス・アフリカヌス(11世紀)は、 胚の形成を詳述して、4ヶ月目から運動が見られるといった記述を残して います。12世紀のコンシュのギヨームなどは、胚の器官形成が出そろっ た段階で魂が付与されると考えています。身体の完成と魂の付与が同時期 であるというのは、キリスト学(その中のキリストの身体形成論ですね) などの絡みもあって、12世紀当時には広く流布していた考え方のようで す。 とはいうものの、その後優勢になっていくのはストア派以来とされる考え 方、つまり魂は出生時に付与されるというものです。そもそもローマ法自 体が、原則として出生をもって子どもに人格を認めるとしていたのでし た。13世紀ごろの教会法や神学も、基本的にはそれに準じる立場を取っ ています(胎児には洗礼はできないなど)。ローマ法は中世の法学者の間 で広く知られていたわけですが、これはストア哲学の影響を受けているの ですね。 この転換を迫ったのは、やはり13世紀のアリストテレスの受容のようで す。アリストテレスは魂の三態(植物的・感覚的・知性的)を唱え、胚に おいてはそれらが漸進的に現勢化していくと考えていました。また、最後 の知性的魂だけは神的なもので、外部からもたらされるとも述べていま す。これを受けてスコラ学者たちは、胚の形成をある種の機械的なプロセ スと見るようになり、胎内の胚は生き物ではあるけれども、まだ人間とし て存在してはいないと考えるのが普通になりました。知性的魂は胎内から 出たときに、ようやく与えられるというわけですね。これはまさに、先の 『ガウロス宛て書簡』にも見られた所見です。 一方でこのアリストテレス的な見解は、三態の発現と個体の(人格的)一 体性はどう相容れるのかとか、そもそも三態とは三つの魂があるというこ となのかとか、いろいろとはっきりしない部分もあり、そのために細かな 議論を呼ぶことにもなります。魂は形相であると見なされていたため、形 相は本来複数なのか単一なのかといった、1260年頃の熾烈な論争がこれ に絡んできます。こうして胚の問題もまた、主にドミニコ会系とフランシ スコ会系の論者の間での論争になっていくのでした……。そのあたりはま た次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その10) 各種異論に対するスコトゥスによる反論の続きです。今回はちょっと短め です。さっそく見ていきましょう。 # # # Hoc modo dico quod nihil additur formae quin variet speciem : vel "simpliciter", hoc est de una specie faciat aliam speciem (contrariam vel disparatam), - vel "secundum quid", hoc est de non-tali specie faciat aliam speciem (puta, si addatur differentia "pertinens ad esse quiditativum" generi, facit speciem specialissimam, et non praefuit talis species specialissima, sed tantum praefuit species intermedia). Et hoc modo dico quod quidquid est circa naturam in inferioribus, nihil addit formae. Sive sit proprietas individualis, sive sit magis vel minus (vel quodcumque aliud quod non respicit naturam ut est in suo esse quiditativo), non aufert nec addit aliquid substantiae hoc modo. Exemplum huius esset : si unitas in quantum est pars ternarii, esset pars praecisa in quatum differentia numeralis individualis, et tamen ipsa posset in se intendi et remitti, - ista differentia esset eius per se, et per accidens in quantum est pars ternarii; ideo non esset alius ternarius unitate intensa et remissa. Quando ergo dicis quod "quaecumque distinctio formarum est sicut distinctio numeri", falsum est, nisi sit eorum secundum illud esse formale quod pertinet ad quiditatem per se; et talis non est hic. (形相を)この意味に取るのであれば、次のように述べる。形相に加わる ものはすべからく種を変えさせる。まずは「端的に」変えさせる場合があ る。それは一つの種から別種(対立する種あるいはまったく異なる種)に なる場合である。または「何かに対して」変えさせる場合がある。それは 漠然たる種から特殊な種になる場合である(「何性の存在に関わる」よう な差異が類に加えられると、きわめて特殊な種がもたらされる。付加前に はそのような特殊な種は存在せず、中間的な種があったにすぎない)。 (「加える」を)この意味に取るのであれば、次のように述べる。低次の ものにおける本性とともにあるものは、なんら形相への付加をもたらすこ とはない。この意味では、個々の属性であろうと、大小であろうと(ある いは、もとより何性の存在のうちにあるがゆえに、本性には関わらない他 のいっさいのもの)、なんら実体から取り除いたり、実体に付加したりす ることはない。例として次のことが挙げられる。量の大きさが三次元の (?)一部分であるとすると、量におけるその一部分はまさしく数の上で の個々の違いをなすだろう。だが、それがおのずと増減しうるものだった としても、大きさの違いはもたらすだろうが、あくまで三次元の一部分と して偶有的な違いをもたらすにすぎない。したがってそれは、増減しよう が三次元の大きさであることに変わりはない。 よって「形相による区別は、数の上での区別のごときである」と言う場 合、それ自体で何性に関わる形相的なものにおける区別でないならば、そ れは誤りとなる。そして目下の場合はそのような区別にはあたらない。 # # # 引き続き「形相は数のようなもので、数の加減のように形相も変化する」 という議論への反論です。前回の箇所でスコトゥスは、事物の「何性」 (=本性)の定義と形相とが異なることを指摘しました。それ以前のスコ ラ学では、両者はほぼ同じものとして扱われる場合がほとんどだったと思 います。ですからこれは一大転換と言ってもよいかもしれません。スコ トゥスの場合は、実在する個物をこそ重視するため、その個物を<本質的 に>規定している何性と、<現実的に>規定している形相とは、厳密に同 じものではありえない、ということなのでしょう。位相が違う、と言って もよいかもしれません。 形相は個物を現実的に規定しているので、形相になんらかの変化が生じれ ば(つまり何かが加われば)、形相が規定する種にも変化が生じます。端 的に別種となることもあれば、ある特殊性が際立った下位分類的な種(亜 種のような)が出来上がることもあるでしょう。ところが、スコトゥスの 考えでは、形相に変化をもたらすのは高次の本性をもつものであって(神 ということでしょうか)、物質界にあるような低次のものは、形相への付 加をもたらすことはできないのですね。量がどれだけ違っても、それが量 であることは変わりません。形相(この場合には「量」)への変化ではな いのです。 ここに見られるのは、スコトゥスというよりも、フランシスコ会全般の形 相の付加に関する考え方かもしれません。以前にも触れたことがあります が(本誌No.143)、事物の増大・強化について、トマスの弟子筋など は、形相内部に不確定要素が存在する場合があり、そこに増大の余地があ ると考えているのに対して、フランシスコ会の論者たちは、そうした増 大・強化はあくまで形相への付加によってもたらされると考えていたらし いのです。 これは形相・質料の考え方が異なるために出てくる不一致です。フランシ スコ会派の場合、形相と質料の区別はどこか漠然としたところがあるよう で、前にもちょっと出てきましたが、形相と質料の複合体が新たな質料の 役割を果たす、などということを認めているようなのです。形相は質料と 結合して限定的な存在になるわけですが、それがさらに高次の形相と再結 合することで高次の複合体になりうる、というのですね。最近出たばかり の『ケンブリッジ中世哲学史』によると、この考え方はさしあたり、イブ ン・ガビロール(アヴィチェブロン)にまで遡ることができるといいます (同書p.636)。 対するドミニコ会系の論者たちでは、基本的に質料はあくまで可能態であ り、現実態をもたらす原理はすべて厳密に形相の側に置かれるのですね。 これはある意味、アヴェロエスとアヴィセンナの考え方の違いになぞられ ることもできそうです。同じく『中世哲学史』からですが(p.640)、た とえばモノが空間を占めるときの「拡がり」についても、それを形相に位 置づけるアヴィセンナに対して、アヴェロエスは、形相ですべて規定され てしまう前の不確定状態と位置づけているようです。ちょっと乱暴に言い 放ってしまうと(苦笑)、アヴェロエス的な議論と、フランシスコ会派の 所見はどこか重なるところがあるのかもしれません。ちなみに、形相・質 料が階層をなすという考え方は、スコトゥスに影響しているとされるオリ ヴィにも見られます。 少し脱線になってしまうかもしれませんが、上の「何性」(本質)と形相 との対立という論点もオリヴィにあります。オリヴィは「必然的に本質は 形相全体に、可能態と現実態のように対立しなくてはならない」(『命題 集第二巻問題集』問一六 - 317)としています。本質と形相の関係は、可 能態と現実態の関係に類比的だというのですね。このあたり、オリヴィと スコトゥスのラインを強く感じさせます。でも、こうなってくると、オリ ヴィにさらに先行する思想的系譜も見てみたい気になります。いずれにし ても、フランシスコ会の思想的な動向・特殊性という広いスパンを取って みる必要もあるかもしれません。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月17日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------