〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.170 2010/04/17 *お知らせ いつもご購読いただきありがとうございます。本メルマガは原則として隔 週の発行ですが、次号は連休のため、一週間遅れの5月8日とさせていた だきたいと思います。よろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その8) 前回に引き続き、ファン・デル・ルフトの論考を眺めていきたいと思いま す。アリストテレスの受容により優勢になった「出生時の魂の付与」とい う考え方ですが、その場合の魂の付与というのは理性的な魂の付与という ことでした。ではその前段階としての植物的魂、動物的魂とはどう繋がっ てくるのでしょうか。そもそもこうした三態の魂はそれぞれ別ものなので しょうか、連続しているのでしょうか。この点をめぐって、中世の識者た ちは議論が分かれていくようです。 全体的動向としては、神によって魂が付与される以前の胚は、種子の中に ある「形成力」によって生きる、という見解が拡がっていくわけなのです が(13世紀前半)、一部の人々は、胚は最初は母親の魂の支配下にあっ て生かされる、つまり母親の魂の一部として生きる、という説を唱えてい ました。ランのアンセルムスが擁護していたこの考え方は、さらにクレモ ナのロラン(ドミニコ会初のパリ大学の教師)によって全面的に主張され ることになります。 ですがこれはアリストテレスのもともとの考え方(胚は自身の内的な原理 で動く)と相容れません。そのため別の説が唱えられるようになります。 オーベルニュのギヨームが代表格で、胎内の胚は生殖の際に伝えられた植 物的魂で生き、体が完成すると神によって理性的魂を付され、植物的魂は 消えてしまうと論じました。魂が段階別に入れ換えられるという感じです ね。アルベルトゥス・マグヌスなどもこうした「段階説」を支持している ようですが、魂の入れ換えというより、むしろ形相(魂)も漸進的に完成 に向かうのだという点を強調するといいます。種子内の形成力が質料から 引き出したものが魂の植物的・動物的機能であり、知性だけは最後の外部 から付与されるという見取り図です。トマス・アクィナスになると逆に、 植物的魂の機能はすべて次の動物的魂(感覚的魂)に受け継がれ、最後に 付与される理性的魂も前二者の機能をすべて備えているとして、段階別の 入れ換えがより細やかな話になっていきます。中世盛期に広く読まれたと いう重要文書『胎内での人体の形成について』を著したエギディウス・ロ マヌスも、基本的にはこうした考え方を踏襲しているようです。 これらは、魂(すなわち形相)はそれぞれの個体に一つしかあってはなら ないという「ユニシスト」の立場です。主にドミニコ会系が引き継いでい るこの考え方では、胚は植物的・動物的・理性的の三つの魂によって生か されるも、局面ごとに見れば個体には一つの魂しかないとしています。で すが、その三つがどう入れ替わるのか、あるいは変転するのかの説明にお いて、それぞれの論者の立場は異なっています。 これに対して、それら魂の三態は層もしくは部分としてあり、それらが組 み合わされて各個体の魂ができているという「プルラリスト」の立場もあ りました。バックフィールドのアダム、ロバート・キルウォードビー、 ジョン・ペッカムなどがその代表格とされています。三態の重なりは潜在 態・現実態の関係でもあるとされ、感覚的原理は植物的原理の現実態だな どと言われ、さらにそこに神により知性的原理が注入される、というので す。また、魂と別の身体の形相もあるとし、そちらも複数の段階から成る として、結果的に胚が相当数の形相の組み合わせから成るという議論も あったようです。アクアスパルタのマティウスなどがそうした考え方を標 榜していて、かなりの数の形相を設定しています。そうした諸形相の積み 重ねを批判するのがペトルス・ヨハネス・オリヴィです。オリヴィは、質 料自体を身体的質料と精神的質料に分け、前者は物質性・混成・組織化な どの形相を、後者は植物的・動物的・理性的形相を受け入れるとしていま すが、そこで言う各形相は完全な形相ではなく、形相的「部分」にすぎな いとして、むしろ魂の一体性を擁護する方向に向かうといいます。 独自色が強いものに、ガンのヘンリクスの思想もあります、やはり人間は 知的な形相と身体的な形相の二つによって作られるとしているのですが、 ほかと違うのは、その知的な形相に植物的・動物的な完成の過程も含まれ るとし、それらは形成力が質料から引き出すのではなく、神によって理性 的魂とともに一挙に付与されるのだとしている点です。とはいえ、プルラ リストは総じてフランシスコ会系の思想圏で、このファン・デル・ルフト の論考によれば、なかなか見事にドミニコ会系、フランシスコ会系に分け られている感じです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その11) 今回もちょっと短めです(悪しからず)。ではさっそく見ていきましょ う。 # # # Ad illud de X Metaphysicae dico quod est fallacia consequentis, inferendo ex textu "omnes formas differre specie". Vere enim Philosophus vult ibi quod "differentia non formalis non est specifica", sed ex hoc non sequitur quod "differentia non specifica est non formalis" (quod ipsi volunt habere), - sicut non sequitur in affirmativis, aequipollentibus istis, quia universitats affirmativa non convertitur terminis eodem modo se habentibus. A Philosopho ergo accipi potest quod "differentia formalis sola est specifica"; non quod omnis differentia in forma sit specifica, quia exclusiva licet inferat affirmativam de terminis transpositis, non tamen eodem modo de terminis non transpositis, - sed est fallacia consequentis, sicut convertendo indefinitam in universalem affirmativam. Immo ex loco illo magis videtur posse accipi oppositum huius propositionis "omnis differentia formarum est specifica" : differentia enim hominis albi et equi nigri est differentia formarum, et aliquo modo per formas , - non tamen est differentia specifica (secundum eum ibi), quia illae formae respectu naturarum in quibus sunt, sunt "formales", hoc est consequentes individua, non autem per se consequentes vel per se terminantes esse quiditativum. その『形而上学』第十巻からの議論については、その文章から導かれるべ き結論が「すべての形相は種において異なる」であるなら、それは誤りで あると述べよう。確かに哲学者がここで言おうとしているのは「形相的な ものでない違いは種における違いにはならない」ということではある。し かしながら、そこから「種における違いでないものは形相的な違いではな い」(それがその立場の人々が望む結論だが)は導かれない。それはちょ うど、意味を変えないままこれが肯定文にはならないのと同様である。と いうのも、普遍的な肯定文は、項同士の関係を同じにしたまま換位しえな いからである。 したがって哲学者からは、「形相的な違いのみが種差をなす」を引き出す ことはできても、「形相における違いはすべて種差をなす」とはならな い。なぜなら排他的命題は、項の入れ換えにおいて肯定文を導けるので あって、項を入れ換えずに意味を保つことはできないからである。その場 合、不定の項を普遍的な肯定に変換するときと同様に、誤った結論とな る。その箇所からはむしろ「あらゆる形相的な違いは種差をなす」という 命題の逆こそが引き出せるように思われる。たとえば白い人と黒い馬との 違いは形相の違いであり、ある意味で形相による違いである。しかしなが らそれは種の違いではない(そこでの哲学者によれば)。なぜなら、それ らが拠り所とする本性に対して、それらの形相は「形式的」だからであ る。つまり個別の結果なのであって、それ自体から何性の存在が生じるの ではないし、あるいはそれ自体で何性を規定するのでもない。 # # # 「形相的な違いは種的な違いである」というテーゼへの反論が続いていま す。今回批判されているのは、『形而上学』10巻末尾ごろの「男女は種 で異なるのではない。なぜなら男女は人間の形相の質料的な違いでしかな い(形相そのものの違いではない)からだ」という一文をもとに、形相の 違いはかならずや種を分けると結論づける議論です(本メルマガのNo. 160)。スコトゥスはこれに論理学的な反駁を加えます。 まず最初の節ですが、上のアリストテレスの一文を、「種で異なる」を b、「形相が異なる」をaとして整理すれば、「not bなぜならnot a」の 形になります。これは「not aならばnot b」とは言い換えられますが、 スコトゥスも言うように、明らかに「not bならばnot a」にはなりませ ん。それはちょうど、「bならばa」が成り立つからといって「aならば b」が成り立つとは限らないのと同じだというのですね。項の位置を入れ 換えると、項の関係は変わってしまいます。「bならばa」では、bがaの 下位集合になるわけですが、「aならばb」ではそれが逆になります。 次の節ですが、ここで言われているのは要するに、排他的命題「aのみが b」は項を入れ換えて全称命題「bはすべてa」を導けるけれど、「aはす べてb」とは言えない、ということですね。「不定の項を云々」というく だりは、「not aならばnot b」であれば「bはすべてa」が成立するけれ ど(bはaの下位集合ということになるので)、「aはすべてb」にはなら ないということでしょう。 個人的に少しひっかかったのは、この節の最初の「したがって哲学者から は、云々」の部分です。この部分、「not aならばnot b」から「aのみが b」が導かれると言っているように読めます。でもそれはどういう推論な のでしょうか。確かに「not aならばnot b」からは「bはすべてa」が導 かれるし、「aのみがb」からも「bはすべてa」が導かれますが、ここか ら「not aならばnot b」から「aのみがb」が導けるのでしょうか。でも この論理形式は、「ロバは動物である」「人間は動物である」「よってロ バは人間である」という、誤った推論(ペトルス・ヒスパヌスの『論理学 大全』にある例です)になってしまいます。 また、「not aならばnot b」から「aのみがb」を導くには、「aかつnot b」が存在しないことが前提になります。つまり上のテキストの場合なら 「形相的な違いであり、かつ種的違いではないもの」ですね。ところがス コトゥスが相手を批判するために言及しているのは、まさにそういう違い です。というか、「aかつnot b」を否定すると、「aはすべてb」も成立 してしまいます。これはスコトゥスにとってのジレンマではないでしょう か。 ……なんて、スコトゥスの論敵が言いそうなことを考えてみたのですが (苦笑)、そう反論されたらスコトゥスは何と答えるでしょうか。ありう べき(?)スコトゥスの再反論を皆さんも想像してみてください。私個人 の想像(の続き)は次回に(笑)。 *本マガジンは隔週の発行ですが、連休のため次号は05月08日の予定で す。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------