〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.171 2010/05/08 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その9) 前々回から見ているファン・デル・ルフト論文ですが、最後のほうにもう 一つ、ドミニコ会とフランシスコ会の対立要因を論じています。それは 「形成力」(virtus formativa)の扱いです。形成力というのは、種子に あらかじめ宿っているとされる力で、魂とは別物であるとされます。アル ベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスは、これを「職人の精神に宿 り、その手を導くがゆえに、道具にも作用する観念(イデア)」に比して いるといいます。それは星辰の影響のもとで、物質から植物的魂を、次い で感覚的魂を引き出すのだというのですね。魂は三態ながらも一つだとす るユニシストの考え方を取るドミニコ会にとって、これは整合性のある考 え方だと言えそうです。 これとは別に、形成力はそこから魂が生じる一種の「胚芽」なのだとする 考え方もありました。これはアウグスティヌスのいう「種子的理性 (rationes seminales)」が着想源になっているといい、それをアリス トテレスの発生学と融合・和解させたもののようです。質料はアリストテ レスの言うように受動的なだけではなく、生物の諸器官の発達を決定づけ る能動的な原理を含んでいる、というのが基本的立場です。これはロバー ト・グロステスト、ボナヴェントゥラなどが踏襲した立場だといいます が、時に「形成力」と「種子的理性」を別物のように扱っている箇所もあ るのだそうで、どこか曖昧さも残るようです。いずれにしてもこれは、フ ランシスコ会系のプルラリストが準拠する立場となります。 ロバート・キルウォードビーはこの後者の陣営に連なる人物ですが、一方 でドミニコ会系の魂のユニシズムを受け入れているといいます。また、前 者のアルベルトゥス・マグヌスは、ユニシズムを擁護しつつも、「形相の 萌芽」という考え方(種子的理性に連なるもののように読めますね)を示 していたりもします。このようにそれぞれの陣営には輪郭が重なる部分、 もしくはぼやけている部分もあり、なにやら複雑な様相を呈していたりも します。このあたり、魂は質料的なものではないという共通理解と、その 上に展開する独自見解(原理の説明)という感じで、重層的・立体的に捉 えることもできそうです。 # # # さて、こんなところで、胚をめぐる中世の議論の一応の見取り図は得られ たように思われます。それらを参考に、今度は具体的なテキストをいくつ か見ていきたいと思います。まずはアリストテレス思想の本格流入前のも のに当たってみたいところです。となると、注目されるのはサレルノで開 花した医学思想です。サレルノの医学思想は西欧世界に広まっていたと言 われますが、ここではそれに関連する英国の文献を少しだけ見ておきま しょう。 取り上げるのは『サレルノ散文問答集』というものです。これは1200年 頃に英国の逸名著者によってまとめられた科学・医学に関する一種の百科 事典のようなもので、質問と回答という形式を取り、様々な医学関連問題 がまとめられています。サレルノと英国はわりと密接な関係にあったよう で、実際、バースのアデラードなど、サレルノで学んだ後に英国に戻った 訳者・神学者もいたりします。英国は意外に潤沢にサレルノの伝統を引き 継いでいるのかもしれませんね。というわけで、ここではブライアン・ ローン編纂のもの("The Prose Salernitan Questions", ed. Brian Lawn, The British Academy, 1979)を底本として、実際のテキストに 当たっていくことにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その12) 今回の箇所は、問七冒頭の議論のうち「質料から分離した形相は種全体の 完成を宿す。ゆえに二つ形相があればどちらも種全体の完成を宿す」とい う部分(本マガジンNo.161)へのスコトゥスの反論です。「habere totam perfectionem speciei」という部分を、以前は「種の全体的な完 成を宿す」と訳出していたのですが、今回は文意に即して(?)「種全体 の完成を体現する」と訳出してみました。どちらがよいかは微妙なところ かもしれませんが……。ではさっそく見ていきましょう。 # # # Ad aliud dico quod si aliquod individuum - ex hoc solo quod est sine materia - haberet in se totam perfectionem speciei, quae ex se nata est esse in infinitis (quantum est ex se), igitur videretur habere perfectionem infinitam ex sola carentia materiae; quidquid autem potest habere perfectionem infinitam, habet eam, - et ita in qualibet specie esset perfectio infinita, et per consequens perfectio speciei non esset limitata nec determinata per determinationem vel specificationem vel limitationem differentiae ultimae (quae addita generi, constituit ultimate speciem), quod est falsum et contra omnes philosophos. Falsa est igitur illa propositio assumpta, quod "illud individuum quod potest esse sine materia, ex hac sola causa privativa - quia est sine materia - habet totam perfectionem speciei", quia si cum hoc ponatur quod nihil positive fiat circa ipsum (sed sola separatio), nihil ponitur quod non praefuit. Si autem intelligatur prout habet aliquam probabilitatem, quod videlicet "forma, si esset seprata a materia, ipsa haberet totam perfectionem speciei quia non est participabilis a materia", - ista est falsa et petit principium, nisi intelligatur prout materia dicit illam entitatem individualem, contrahentem formam. Hoc modo intelligendo aequivocationem istius propositionis assumptae, omnis forma habet totam perfectionem specieim et est de se "haec"; et tunc est minor - sumpta sub, ab angelo - simpliciter falsa, quia licet illa essentia non sit participabilis a materia quae est altera pars compositi, est tamen participabilis a pluribus materialibus, id est a pluribus individuis habentibus entitates materiales, quae dicuntur "materiales" - sicut saepe dictum est - respectu quiditatis contractae prout quiditas dicitur "forma". もう一つの議論に対してはこう言おう。もしなんらかの個物が、質料を伴 わないというだけの理由でみずからのうちに種全体の完成を体現するのだ とすれば、そうした種の完成はもとより無限の存在に属するのであるから (本来そうである限りにおいて)、その個物は、質料が欠如しているとい うただそれだけの理由で、無限の完成を体現することになると思われる。 しかしながら、無限の完成を体現しうるものはすべて実際にそれを体現す るのであり、それはどの種においても無限の完成となるのであるから、結 果的に種の完成は、最終的な違いの決定、特定、限定(それらは類に加わ り、最終的に種を成立させるものである)によって限定されたり決定され たりしないことになってしまう。これは偽であり、あらゆる哲学者に反し てしまう。したがって、「質料を伴わないこともありうる個物は、質料を 伴わないというその欠如のみによって種全体の完成を体現する」というそ の命題は誤りとなる。なぜなら、その個物に関してまったく実定的なもの がない(ただ分離だけがある)とすると、まったく何も定立されないこと になるからだ。 「形相は、もし質料から離れたとすれば、それ自身で種全体の完成を体現 する。なぜなら質料が与る可能性はないからである」という命題に、なん らかの立証可能性があると考える場合、それが誤りとならず、論点先取り ともならないようにするには、その場合の質料とは形相を狭める個々の実 体のことを言う、と考える以外にない。命題の曖昧さをこのように理解す るならば、すべての形相は種全体の完成を体現することになり、おのずと 「このもの」になるということにもなる。ただしその場合、それに続く天 使に関する小前提は端的に誤りとなる。なぜかというと、その本質には、 複合物の一方の部分である質料が与る可能性はないものの、複数の質料的 なもの、つまり質料的な実体を有する複数の個物が与る可能性はあるから である。すでに何度か述べているように、何性が「形相」と称される場合 の、狭められた何性に対して、それらが「質料的なもの」と言われるので ある。 # # # 前回のコメント部分では、スコトゥスに対する「ありうる」反論を思い描 いてみました。長々と書いてみましたが(こういう反論の理屈は、スコラ 学のある種の妙という感じもします)、これ、スコトゥス側からの再反論 があるとすれば、一点突破が可能だと思われます。つまり、「bはすべて a(bを満たすものはすべてaを満たす)」の全称命題は、項を入れ換えれ ば排他的命題「aのみがb(aを満たすもののみがbを満たす)」を導け る、ということであっさりと片付けることができてしまうのですね。実際 のところ、どちらの命題でもbがaの部分集合であるという関係は温存さ れています。なんだか拍子抜けのような感じで申し訳ありませんが (笑)、これが論証されれば前回の長々とした反論は一気に無効になりま す。もちろん、スコトゥスならいろいろと具体例などを駆使して説明を施 すでしょう。それがどこかわかりにくい・くどいという印象をもたらすの は致し方ありません。aとかbとか、抽象記号をいっさい使わないで説明 しようとすれば、現代語の場合でも大変ですからね。 今回の箇所も同様にわかりにくくなってはいますが、全体としては、すで に出てきた形相と質料の捉え方の復習のような感じです。最初の段落で は、異論で示された命題が批判されています。「質料から分離した形相は 種全体の完成を宿す。ゆえに二つ形相があればどちらも種全体の完成を宿 す」という命題を文字通りに取ると、種全体の完成とは個体差をすべて (無限に)包摂することを意味し、その場合、種的差異まで無限の中に解 消してしまうことになり、限定するもの、実定するものが何もなくなって しまう、というのですね。 そして次の段落では、その命題を理解する可能性の一案が示されます。そ こで言う「質料」を、形相に結びつく第一質料ではなく、個物をもたらす 実体的な諸限定と取ればよい、というわけです。それならば、形相と(第 一)質料が結びついたものとしての「種」は定立されたままにでき(つま り、完全に無規定なものではなくなります)、その上で現実的な様々な限 定要因(個体差)は捨象できることになります。天使を考えた場合でも、 個体差を捨象した形での天使の種を温存できることになります。このあた りはまさしく、形相や質料を重層的に考えるからこそ出てくる議論です。 前にも触れましたが、そうした形相や質料の重層性についての議論は、ペ トルス・ヨハネス・オリヴィにすでに見られるようです。その「質料論」 仏訳本の序文(ティツィアーナ・スアレス=ナニが記しています)による と、たとえば第一質料をめぐる考え方でもオリヴィは特異性が際立ってい るようです。ボナヴェントゥラあたりまでは、不定形ながら「数の上では 一つ」として存在するような第一質料があると考えていたようなのです が、オリヴィはその「数の上では一つ」という部分を批判し、質料には諸 形相を受け入れるための潜在性があり、形相の受容可能性において質料は 事実上分化していると考えるようなのです。こうして大まかには、物体の 形相を受け入れることのできる物体的質料と、霊的な形相を受け入れるこ とのできる霊的質料に分かれるとし、かくして天使にも質料がある(霊的 な質料)という話になっていくようなのです。 今回の箇所からは、スコトゥスもそうした考え方を継承しているらしいこ とが窺えます。天使も質料的なものによって限定されうる、というわけで すからね。もちろん解釈の違いはありそうですから(第一質料の扱いと か?)、オリヴィとスコトゥスのそのあたりの違い、思想的な深化・変化 がどういうものだったのかという点も、そのうちぜひ検討してみたいテー マではあります。とりあえず、今読んでいる問七もあと二回ほどで読了の 予定ですので、そろそろまとめに入らなければなりません。いましばらく お付き合いください。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月22日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------