〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.172 2010/05/22 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その10) 『サレルノ散文問答集』は、実に三〇〇を越える問答から構成されていま す。その記述内容は問一「なぜに神は人間を造ったか」、問二「人間とは 何か」という宗教的・哲学的考察から始まり、「なぜ自然学は魂よりも身 体を扱おうとするのか」などを経て、「精子とは何か」「盲人からも目が 見える子が生まれるのはなぜか」といった医学的問題を扱っていきます。 胚に関する問いはもう少し後に出てきます。 全体的な議論の前提となる重要な論点として、男性が強壮であるのに対し て女性が脆弱とされること、その原因として「女性のほうが湿気を多く含 み、冷たいからである」と説明されることが挙げられます。これは中世を 通じて広く流布していた考え方ですね。『サレルノ問答集』では問七で説 明され、その後は様々な箇所で言及されます。男性優位とも言われるこの 考え方は、アリストテレスに帰されることが多く、実際、出典が偽アリス トテレス文書である『問題集』に求められることもありますが、実はヒポ クラテスにまで遡れるもののようです。 この考え方は胚の問題にも大きく影響してきます。たとえば問二四では、 胚の性差の問題が扱われていますが(「母胎のどの部分なら男児になり、 どの部分なら女児になるか」)、そこではこの寒暖と母胎内の場所とをリ ンクした説明になっています。種子が母胎内部の右側位置に着床する場 合、そこは胎内でもより暑い部分とされ(より熱を持った血液が流れてい るというのですね)、そのため胚は男性になると説明されます。一方の左 側はより冷たいので、そこに着床した種は女性になります。面白いのは、 この考え方はさらに相対的にも用いられ、右側でも若干左よりの位置に着 床した場合には女性的な男性になり、逆に左側のやや右よりに着床すると 男性的な女性になる、とも記されていることです。 問二四ではさらに、胚を取り巻く「袋」がいつごろできるか、胚が人間の 形を持ち始めるのはいつごろかといった話が続きます。このあたりはある 程度観察にもとづく記述であることを思わせます。一方で、骨格や臓器な どの形成も、やはり寒暖・乾湿でもって説明されます。妊娠七週目ごろか ら「形成力(virtus formativa)」が働き、まずは質料に人間の形状が与 えられ、次に「同化力(virtus assimilativa)」によって各部が形成され ていくといい、このときに各部の違いが寒暖・乾湿の組み合わせで決まっ てくるというのですね。たとえば骨は冷・乾、肺は冷・湿、心臓は熱・ 乾、肝臓は熱・湿などと分類されています。次いで今度は「たわみ力 (virtus concativa)」によって、たとえば指が分かれたり、鼻孔ができ たりするとされます。ここでは「形成力」は三つの力の一つとされている のですね。それが具体的にどのようなもので、どこに宿っているのかと いった話はここには出ていません。その意味では少し曖昧です。三つの力 は血管を通じて各所に分散され、それらによって運動や生命の力が伝えら れるのだといいます。 続く問二五(「母胎内ではどのように栄養が与えられるのか」)では、胚 と母胎とが臍の緒でつながっているのが、ちょうど果実と木のようである と述べています。臍の緒のなかにはなんらかの神経(nervi)が通ってい るとし、それを通じて血液が流れこみ、胚の栄養摂取も行われるとしてい ます。『サレルノ問答集』では、胚は漸進説的に捉えられているようで、 胎内での胚はまだ人間になっていないと考えていることが窺えます。 なかなか興味深いのが問三五です。「妊娠した女性が四ヶ月目よりも前 に、過度の欲望を抱き、顔その他の部位に手で触れた場合、生まれた子供 の同様の部位にも同じような跡がつくのはなぜか」となっています。その 答えはこうです。母親が何かを激しく欲求すると、空想的細胞 (fantastica cellula)内の精気(spiritus)が揺さぶられ、想像力 (imaginatio)を通じて似た形状が表されて、精気はその形状を受け取 る。母親が体の特定部位を手で圧迫すると、精気がその部位にとどまり、 その部位の体液(humor)を変成してしまう(immutare)。そうした精 気と変成した体液は、栄養補給を通じて胚へと流れ込み、胚についても、 手で圧迫したのと同じような部位を変えてしまう。こうして作用が伝わ り、似たような跡が似たような箇所にできるのである……。 この箇所は、当時(13世紀)のある種の想像的感性を伺わせるような記 述ですね。赤子にできるアザの説明なのでしょうけれど、アリストテレス 的な割り切り方(母親の影響はない、もしくはその役割は限りなく小さい とする立場です)とは違う系譜を浮かび上がらせている感じがします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その13) 「天使論」ということで読んできた『オルディナティオ』二巻第三区分第 一部の問七もいよいよ大詰めです。今回の箇所は、「数的な複数性(多様 性)は本性において意図されない、なぜなら複数性は無限に至りうるが、 無限自体が意図されることはないからだ」という異論部分(本メルマガ No.161)に対するものです。さっそく見ていきましょう。 # # # Ad aliud dico quod in forma arguendi est fallacia consequentis "infinitas non intenditur, igitur nec pluralitas"; non enim pluralitas numeralis est de se infinita, sed tantum potest stare infinitas, ipsa non repugnante. Licet igitur nullus per se intendat inifinitatem, tamen aliquis potest intendere pluralitatem numeralem, quae non est de se infinita, - quae, sicut compatitur secum infinitatem, ita et finitatem. Et sic potest intelligi illud communiter dictum eorum, et secundum veritatem : In toto universo, licet principaliter ordo attendatur secundum distinctionem specierum, in quibus est imparitas, pertinens ad ordinem, - tamen, quia secudum Augustinum, De civitate libro XIX cap 13, "ordo est parium impariumque, uniquique sua loca tribuens, congrua dispositio", - ab illo agente qui principaliter intendit ordinem universi (sicut principale bonum, intrinsecum sibi), non tantum intenditur ista imparitas, quae est "unum requisitum" ad ordinem (scilicet specierum), sed etiam paritas individuorum (scilicet in eadem specie), quae est "aliud concurrents" ad ordinem. Et simpliciter individua intenduntur ab ipso Primo prout ipsum intendit aliquid "aliud a se" non ut finem, sed ut aliquid ad finem; unde propter bonitatem suam communicandam, ut propter suam beatudinem, plura in eadem specie produxit. In principalissimis autem entibus est a Deo principaliter intentum individuum. Et cum hoc modo sumitur "differentia numeralis non intenditur", falsum est; et cum probatur hoc modo "potest esse infinita", non sequitur. "Potest esse infinita, et illa infinitas non intenditur, igitur illa differentia non intenditur", non sequitur; potest enim esse aliqua differentia numeralis finita, et est, - et illa potest intendi, et intenditur. また別の議論については、こう述べよう。「無限は(本性によって)意図 されないし、したがって複数性も意図されない」という形の議論には、 誤った推論が見られる。数の複数性はその自体で無限ではないが、ただ無 限に至る可能性はある。複数性は(無限と)相反するものではないから だ。したがっていかなるものも、もとより無限を意図するわけではない。 なにがしかのものが数の上での複数性を意図することはありうるが、だか らといってそれがもとより無限なのではない。複数性は無限と両立しうる ように、有限とも両立しうるからだ。 また、彼ら(異論を唱える者)が一様に述べること、それが真理にもとづ いていることも、次のように理解することはできる。 世界の全体において、秩序はおもに種の区分に存するが、異なる種の間に は不均一性があり、それが秩序に役立っている。しかるにアウグスティヌ スの『神の国』一九巻第一三章によれば、「秩序は均一なものと不均一な ものを調和的に配置したものであり、それぞれにしかるべき場を与える」 のであるから、世界の秩序を原理としてもたらす作用者(みずからに内在 する善の原理のような)によって意図されるのは、秩序(つまり種の秩 序)に「必要とされる」その不均一性ばかりではない。秩序に「競合する 別の要素」である個物(つまり同一種内の)の均一性もそうなのである。 個物は端的に第一原理そのものから、それが「みずからとは違う」何かを 欲する限りにおいて、目的としてではなく、目的に至る何かとして意図さ れる。ゆえに第一原因は、おのれの喜びを伝えるため、おのれの至福のた めに、同じ種に複数の個物を産出するのである。存在するものの最上位に は、神から主たるものとして意図された個物があるのである。 このような考え方で「数の上での違いは意図されない」と解するなら、そ れは誤りとなる。また、このような考え方で「無限でありうる」と考える なら、それも正しい推論ではない。「無限でありうるが、その無限は意図 されない、よってその違いは意図されない」というのも、正しい推論では ない。数の上でのなんらかの違いが有限であることはありうるし、現にそ うなっている。それは意図されうるし、現に意図されているのである。 # # # 「被造物においては無限は意図されていない、よって複数性はもとより意 図されていない」と主張することは、つまりは個物は神(第一原理)が本 来的に意図するところではなく(意図するのは種まで)、あくまで偶有的 な存在にすぎないという議論に帰着します。これはスコトゥスからすれば 当然受け入れられません。スコトゥスは、偶有性そのものが神から意図さ れているというスタンスを貫くからです。 スコトゥスの反論は、複数性イコール無限とはならないとし、「複数性か つ有限」もありうることを示しています。その上で、アウグスティヌスを 引き、秩序には不均一性(つまり種の違い)のほか均一性(個の違い)も 含まれることを示し、したがって秩序をもたらす第一原理(神)はその両 者をもとより意図しているのだ、と解釈してみせます。個物(個人)もま た神から意図されているというスタンスは、キリスト教の教義にストレー トに合致するように思われますね。 第一原理の話が出てきましたので、ちょっと余談になりますが、全体をま とめる意味でも有益かと思うので、あえて脱線しましょう。ドゥンス・ス コトゥスには『第一原理について』という別の著作もあり、そこでは神の 存在証明に挑んでいます。以下、これまた羅仏対訳本("Traite du premier principe", Vrin、2001)の解説部分(F.-X.ピュタラズ)からの まとめですが、基本的にこれは、アンセルムスの論理学的証明や、トマ ス・アクィナスの動因的証明(アリストテレス的・アヴェロエス的)とも 違う第三の道とされ、いわばアヴィセンナ的な「原因論的証明」であると 言われます。しかもこれはガン(ゲント)のヘンリクスに準拠ものだとも 言われています。このあたり、スコトゥスの議論のソースが意外に多様で あることも見て取れます。 この存在証明そのものについては次回に改めて取り上げたいと思うのです が、今回の箇所との関連(「ありうる」と「そうである」というあたり) でいうと、現実態・可能態に関するスコトゥスの独自見解があります。ス コトゥスの場合、アヴィセンナ的に「原因としての神に至るには、結果と しての被造物から遡及すべし」というスタンスを取ります。ところが、こ こでもし世界が偶有にすぎないとすれば、そこから原理へと学知的に遡及 することはほとんど不可能にさえ見えてしまいます。実在する事物とその 本性との間すら架橋するのは難しそうです。スコトゥスはこれを、現実態 と可能態に読み替えることによって乗り越えようとします。 実在するものが現実態だとすれば、本性は可能態ということになります。 ですが、本性は明らかに存在するとされるのですから(実在論の立場です ね)、その可能態は一方ではとても「現実的な」存在であるとも言えま す。ここがスコトゥスの考えの肝の部分です。つまりそれは、現実態をも たらす当のもの(可能態)でありながら、それ自体もまた現実的存在であ り、学知の対象になるようなものなのです。事物の本性というものは可能 態であるとともに現実的である、と二重性として規定するだけで、世界の 偶有性と、そこから遡及すべき抽象的な知的対象は一気に架橋してしまえ る、というわけです。この二重性こそが、神(第一原理)にまで遡及する 際の鍵にもなっていきます。 翻って今回の箇所を見直すと、事物の本性は可能態なのだから、「複数 性」がそこに属していても何の問題もなく、無限は確かに被造物の本性に はないとしても、「複数性」には無限にいたる可能性もある一方で有限で もある可能性もあり、無限にいたる可能性だけを取り上げて矛盾を指摘す るのはおかしい、という流れがよりはっきりと見えてくるように思えま す。なるほど、スコトゥスの文章を読むための最良の参考書は、ほかなら ぬスコトゥス自身のテキストなのかもしれません……(今さらながら、で すが)。 次回はいよいよこの問七の最後の部分です。合わせてスコトゥスの神の存 在証明にも触れて、全体のまとめとしたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------