〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.173 2010/06/05 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その11) 『サレルノ問答集』は見るからに問答・知見の寄せ集めという感じです。 たとえば前回、胚の成長において女性の役割を小さく見積もっているよう な記述と、女性の影響はもっと強いとする記述とがあることを紹介しまし た。それらはいずれも、女性はあくまで質料の部分に関わるという考え方 に立つ見識でした。ところがそれとは別に、もう一つの伝統的な見方、つ まり女性も種を放出するという考え方が示されている箇所もあります。た とえば問四六「不貞で生まれた子はなぜ母親よりも父親に似るのか」で す。これ、なにやら性愛に関する当時の社会的な見方をも示唆している感 じの問いですが(笑)、答えとしては、そのような場合、男女それぞれの 魂がもたらす快楽と合意が均質でなく(dissimilis)、それぞれが放出す る種子の精気も均質にならず、質料(女性側がもたらす)に不調和が生じ て、結果的に父親側の種子が多く反映されるのだ、と説明されています。 医学占星術的な話が絡んでいる箇所も散見されます。たとえば問一一八 「なぜ七ヶ月目で生まれる子は健康なのに、八ヶ月目では死するのか」 (当時は特に男児の場合、七ヶ月目で生まれると勘定されていたのでし た)。これの答えは、まずその七ヶ月目で身体器官がとりあえず完成し、 自然に生まれる時期にいたっていることが挙げられていますが、その次に 別の見方として、より高度な自然学としての占星術の見解が示されていま す。それによると、胚は一ヶ月目には土星の影響を、二ヶ月目には木星、 三ヶ月目には火星、四ヶ月目には太陽、五ヶ月目には金星、六ヶ月目には 水星、七ヶ月目には月の影響を受けるとされます。月は寒・湿の性質をも たらし、形成された肉体に潤滑さを与え、体液・栄養の循環を促し、全体 を完成させるのだというのです。ところが八ヶ月目に入ると、再び土星の 影響(寒・乾)を受けるため、体液の循環などが滞り、悪影響を及ぼすと されるのですね。 問一七七「なぜ私たちは心(心臓)で味わい(corde sapiamus)、肝臓 で愛し(iecore amamus)、脾臓で笑い(splene ridemus)、胆汁で怒 るのか(felle irascimur)」でも、異教的なコスモロジーを背景にした考 え方が展開します。人間の身体はミクロコスモスとして天空のマクロコス モスに照応していて、天空が九つの部分から出来ているように、身体も九 つの部分から成る(魂、身体、四つの体液と三つの精気)とされるのです ね。心臓は熱の源泉であるとされ、その動きから熱から生じ、心臓内の自 然の精気が暖められて純化し頭に上がると、頭の細胞内により繊細な動物 精気が生成され、こうして魂は感覚器官を利用しつつ外部世界の繊細な部 分までも理解できるようになる、といいます。これが心で味わうことの説 明です。このあたりはガレノス的な説明になっており、同じような説明が それぞれの器官について記されています。 このように同文書では、観察にもとづく記述も含めて、各種の伝統的な思 惟がいわば混成的に併存・並記されている印象です。では魂の付与に関し てはどうでしょうか。残念ながら、この文書には魂の付与に関する記述は ないようです。ただ、魂をめぐる間接的な議論は多少見られます。問二七 〇「なぜ私たちは死を怖れるのか」では、答えとして、それは魂が死を想 う、つまり肉体との分離を考えるためだとしています。友人と離れるとき のように、思いが断ち切られることを恐れるのだ、と説明されます。魂は 身体と不可分であるということが強調されるような書き方です。 魂の付与や分離のプロセスに触れていないのは、魂そのものについての考 察は人間の知性が及びえない、という認識があるためのようです。問三が すでにしてそのことをよく表しています。「身体よりも魂のほうが尊厳が あるというのに、自然学ではなぜ魂よりも身体について考察するのか」と いう問いに、「魂よりも身体のはたらき、その栄養摂取、管理についての ほうが、あらゆる感覚に連なるがゆえに、より多くの知識があるからだ」 と答えているのですが、それに続けて「魂については、その創造や注入は 神の能力にのみ相応しいのであり、理論や哲学が及ぶことはほとんどな い。なぜなら、人間にもとからある理性がそれを体験することは適わず、 ただ相応しい信をもつことができるだけだからだ」と明言しているので す。 『サレルノ問答集』はこのように、扱うテーマを明確に切り出すことで、 自然学のいわば百科事典のようなものを目指しているように思われます。 棚上げとなった魂についての本格的考察は、もう少し後の時代になってよ うやく登場してくるようです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの天使論を読む(その14) 「天使論」ということで読んできたこの文章は今回で読了です。ただ、後 述するように、スコトゥスの文章そのものとはもう少しつき合うことにし たいと思います。ではさっそく今回の箇所を見ていきましょう。 # # # Ad ultimum dico quod licet Philosophus dicat quod generatio est perpetua "ad salvandum esse divinum", et hoc in corruptibilibus, in quibus non potest species semper permanere in uno individuo, - non tamen dicit ipse quod multitudo est praecise propter salvationem speciei, in individuis corruptibilibus; unde illa est una causa multitudinis individuorum in eadem specie sed non praecisa causa, sed illa quae praedicta est. Et quod adducitur de corporibus caelestibus, quod "in una specie est tantum unum singulare et unum individuum corps", - respondeo : ratio sua fuit quod tale "corps singulare" fuit ex tota materia speciei (et hoc non tantum actuali sed etiam potentiali, secundum eum), quia secundum eum nulla erat materia possibilis in aliqua specie tali, quae non erat totaliter in uno singulari in tali specie; nihil enim posuit posse produci novum in immobilibus sive in sempiternis secundum quod talia sunt, scilicet immobilia et sempiterna. Et quia non concordant cum eo theologi in hac propositione "omne corpus sempiternum est ex tota materia illius speciei, actuali et potentiali", ideo non est cum eo concordandum in conclusione. 最後の議論に対してはこう述べよう。哲学者は確かに、生成が永続的であ るのは「神的な存在を救うため」であると述べている。それは可滅的なも のにおいてということだ。それらにおいては、種は単一の個においていつ までも存続することはできないからである。しかしながら哲学者は、可滅 的な個において複数性が厳密に種の救済のためにあると述べているわけで はない。したがって、それ(種の救済)は同一の種における個の複数性の 一つの原因ではあるが、その厳密な原因ではないのである。厳密な原因は すでに述べた通りである。 また天体について導かれる「一つの種には、一つの単体、一つの個別体が あるのみである」ということについては、次のように答えよう。確かに哲 学者の推論では、かかる「単一の物体」は種の質料の全体から成る(哲学 者によれば、それは現実態ばかりでなく可能態も含まれる)とされてい た。哲学者にすれば、一つの単体の中に全体的に含まれないような任意の 種には、可能態の質料は含まれていないからである。つまり、不動のも の、永続するものにあっては、そのままでは、つまり不動かつ永続するも のとしてでは、新しいものは何一つ産出されないことになるのである。と ころで、「現実態と可能態の、種の質料の全体から成るような個体はすべ て永続する」という命題において、神学者たちは哲学者と見解が一致しな い。それゆえ、結論においても見解の一致を見ないのである。 # # # 今回の箇所は、問七冒頭の異論部分の最後「哲学者は『霊魂論』第二巻 で、個物の複数性は種の救済のためにあると述べており、不滅の存在に あっては一つの個体で十分に種は救済される」という議論(本メルマガ No.161)への反論です。スコトゥスはこれに対して、種の救済は個体の 複数性についての一つ理由にすぎず、個体の複数性には他にも理由がある のだと反論します。仏訳の注によれば、他の理由というのは、前回出てき た「秩序には均一性と不均一とがともになくてはならず、個物はその均一 を担うものとして、神から本来的に意図されている」ということのようで す。 次の段落は少しわかりにくいですね。一つの種に一つの個体しかないとさ れる天体について、アリストテレスはその一つの個体は可能態としての質 料も含む質料全体を表していると考えていたとされます。それは一個体で 完結し、異なる個体、新しいものが成立する余地はないというわけです ね。これはいいとして、では「現実態・可能態としての質料をすべて併せ 持つ個は永続する」という命題はどうでしょう。それは真だと言えるで しょうか。アリストテレスはこれを肯定しますが、スコトゥスの神学的な 立場からすると必ずしもそうとは言えないというのです。これはどう考え ればよいでしょうか。 一つの道筋は、前回も少し触れたように、可能態というのは本性(何性) に相当するというスコトゥスの解釈にあるかもしれません。本性(何性) は可能態としてありながら現実的なものとしてもある、というのがスコ トゥスの立場でした。可能態(つまり本性・何性)が現実的でもあるとい うからには、それが質料に支えられていなくてはならないわけで、仮に可 能態の質料というのを、ありうべき質料的変異の全体、何性を支える可能 性をもった質料の全体と捉えると、結果的に、任意の個にはすでにして、 可能態と現実態の質料のすべてが含まれているということになってしまう ように思えます。もし上の命題を真とすると、任意の種の任意の個がすで にして永続することになってしまい、矛盾をきたすのだと……。 こういう解釈でいいのかどうかちょっと心許ないのですが(ほかのテキス トにあたるなどして検証したいところです)、いずれにしてもこの現実 態・可能態の議論と永続性の問題は、スコトゥスが神の存在証明に挑む際 にも関係する重要な論点です。スコトゥスの神の存在証明は二段式に行わ れます。まず最初の部分では、「可能態としての本性」から「現実態とし ての個物」がもたらされるためには、外的な帰結性(結果をもたらす可能 性)がなくてはならないとされ、その帰結性の連鎖を遡っていくならば、 そして無限後退を避けるには、第一原因がなくてはならないという結論に 達するとされます。続いてその第一原因が自己以外の外的な帰結性をもた ず、ゆえに本来的に実在するのでなくてはならないと論証され、かくして それは第一の存在(実在)であると規定されます。こうして、ここから二 つめの部分、後半部分に入っていきます。それは、その第一の存在が無限 である(永続する)という論証です……。 この二段式証明の後半部分についても、今回ここで一気にまとめてしまお うと思っていたのですが、実はこれ、スコトゥスの「自由意志論」なども 絡んできてなかなか興味深いもののようなので、少し予定を変更し、次回 からその議論の一部(全体は相当に長いので)を読んでみることにしたい と思います。というわけで、スコトゥスのテキストに絡んだ考察はまだし ばらく続けたいと思います。さらにしばしのお付き合いのほど、お願いい たします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------