〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.174 2010/06/19 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その12) 前回までは『サレルノ問答集』を見てみましたが、今回からは別のテキス トです。胚の問題を論じたものとしてつとに有名な、エギディウス・ロマ ヌス(1243 - 1316)の『子宮内での人体形成について』という文書を 取り上げましょう。エギディウスはトマス・アクィナスの弟子とも言われ ていた人物ですが、最近はむしろ講義を聴いていたにすぎないという説も あるようです。1270年頃から活発な著作活動を始め、タンピエによる異 端弾圧で一度はパリ大学を追われるものの、その後復帰し、さらに後には アウグスティヌス会の総長を務め、ブルージュの大司教にもなった人物で す。 『人体形成について』の執筆時期については詳しいことはわかっていない ようですが、一応一三世紀末ごろと考えられているようです。同書はア ヴェロエスの『医学総覧』(Colliget)を西洋で始めて活用した著作とも 言われているようなのですが、知られているColligetの最古のラテン語訳 は、パドヴァで1285年に出たものとされています。ですから、執筆時期 はそれ以降だろうと推測されるのですね。ほかにもそのあたりの年代を特 定する根拠がいくつかあるようですが、ここでは割愛しておきます。 いずれにせよ、重要なことはこの書が一三世紀末以降、西欧で広範に読ま れたという事実です。胚の問題についての、いわばスタンダードな文献に なっていた可能性があるのですね。ここで底本とするのは『エギディウ ス・ロマヌス全集』("Aegidii Romani Opera Omnia)のII.13(Sismel - Edizioni del Galluzzo, 2008)ですが、これなども20ほどの異本を中 心に、各種の断片をつき合わせて校注を施したもののようです。ちなみに 校注を担当しているのはロマーナ・マルトレッリ・ヴィーコ、上の成立時 期の話などもその序文(解説)に記されています。 この文書は全体で二五の章から成っています。最初の八章までは人体形成 そのものではなく、男性・女性が放出する種子がどのような役割を果たす のかといった問題が長く論じられています。ここで「あれ?」と思うかも しれませんね。アリストテレスの理論では、形相に担い手となる種子をも たらすのは男性側のみで、女性はあくまで経血などを通じて質料をもたら すにすぎないとされていました。ですがこの書では、男女ともに種子を放 出するという話が基本線になっています。これは本来、アリストテレスよ りも以前の考え方なのですが、どうやらガレノスがこれを再び取り上げ、 アリストテレス的な再解釈を加えたために生き残ったという次第のようで す。 先の『サレルノ問答集』には両論併記的に記されていたこの「二つの種 子」論ですが、こちらの『人体形成について』ではまさに中心的な考え方 に「格上げ」されています。この違いはどこから来るのでしょうか。一つ には、『人体形成について』がアヴィセンナの医学理論に準拠したことが 挙げられそうです。 そもそも中世におけるガレノス理論の受容はもっぱらアヴィセンナ経由 だったとされています。上のヴィーコの解説によれば、ガレノスの胚胎論 が直接流入するのは14世紀初頭以降で、それ以前はアヴィセンナの『医 学典範』第三巻や『霊魂論』第九巻を通じて知られるのみだったといいま す。『医学典範』はアリストテレスの理論の解釈が中心ということです が、それを伝統的な思惟との絡みで論じていて、そこにこの「二つの種 子」論が見出されるというわけですね。アヴィセンナはガレノスの理論を も取り込んで、アリストテレスとのいわば折衷案を提示している、という ことのようです。 エギディウスはそのあたりをベースに、この「二つの種子」論を擁護する 立場を示しています。というわけで、まずはそのあたりから具体的にテキ ストを見ていくことにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その1) 今回からはスコトゥスの自由意志論ということで、新しいテキストに移り ます。読んでいくのは、『第一原理論』(Tractatus de Primo Principio)という、神の存在証明にスコトゥスが挑んだ書の一部分で す。底本はこれまた羅仏対訳本("Traite du premier principe", dir. Ruedi Imbach, Vrin, 2001)です。同書では節ごとに番号が振ってある のですが、ここで読んでいく箇所はそのうちの55節から66節とする予定 です。それではさっそく、55節目から見ていきましょう。 # # # [55] Infinitati et ceteris de simplicitate ponendis praemitto de intellectu et voluntate, quia inferius supponentur. Prima conclusio talis est : Quarta Conclusio : Primum efficiens est intelligens et volens. Ista probatur : Primum est par se agens, quia omni causa per accidens prior est aliqua per se - 2 Physicorum; agens per se omne agit propter finem. Ex hoc arguitur dupliciter. Primo sic : Omne naturale agens, praecise consideratum, ex necessitate et aeque ageret, si ad nullum finem ageret, si esset independenter agens; ergo si non agit nisi propter finem, hoc est quia dependet ab agente amante finem; quare, etc. Secundo arguitur sic : Si primum agit propter finem, aut ergo finis ille movet primum efficiens ut amatus actu voluntatis, et patet propositum, aut ut naturaliter tantum amatus. Hoc falsum, quia non naturaliter amat finem alium a se, ut grave centrum et materia formam; tunc esset aliquo modo ad finem, quia inclinatus ad illum. Si tantum naturaliter amat finem, qui est ipse, hoc nihil est nisi ipsum esse ipsum; hoc non est salvare duplicem rationem causae in ipso. Item : Primum efficiens dirigit effectum suum ad finem; ergo vel naturaliter vel amando illum. Non primo modo, quia non cognoscens nihil dirigit nisi in virtute cognoscentis, sapientis enim est prima ordinatio; primum in nullius virtute dirigit, sicut nec causat. [55節] 無限についてと、その他単一性について議論する前に、知性と意 志について述べておこう。というのも、それらはより低次であると考えら れるからだ。一つめの結論は以下のようになる。 第四の結論:第一の作用因は、知性と意志をもつものである。 これは次のように論証される。第一者はおのずと働きかけるものである。 なぜなら偶有によるすべての原因に対して、おのずと原因をなす何かが先 行するからである。『自然学』第二巻によれば、おのずと働きかけるもの はすべて、目的のために働きかける。 そこから二つの議論がなされる。一つめはこうである。端的に考えた場 合、自然に働きかけるものはすべて、もしなんらの目的のために働きかけ るのでもなく、また独立して働きかけるのだとすれば、必然的かつ公正に 働きかけるはずである。したがって、目的のためにのみ働きかけるのであ れば、それは目的を求める作用因に依存していることになる。なぜな ら……以下略。 二つめはこうである。第一者が目的のために働きかけるのであるなら、そ の目的によって第一の作用者は動く。その場合、意志の働きによって目的 が求められるか、自然にその目的が求められるかのいずれかである。前者 なら、私たちの命題も歴然たるものとなる。しかるに後者ならば誤りであ る。なぜなら、重いものが中心を求め質料が形相を求めるように、自分以 外の目的を(第一者が)自然に求めることはないからである。したがって (もし目的を求めるのであれば)、そこには目的への屈性があるのだか ら、目的を求める何らかの様態があることになる。単に自然に目的を、す なわちおのれ自身を求めるのであらば、自身は自身であるということであ るにすぎない。これでは、おのれの中にある二つの原因の説明を救うこと にならない。 さらに、第一の作用因はみずからの成果を目的へと導く。したがって、自 然に導くか、あるいはその目的を求めて導くかのいずれかである。けれど も前者ではない。なぜなら、認識をもたないものは、認識をもつものの力 によってのみ導くのであるからだ。最初の導きは知る者に属するのであ る。第一者は、いかなる(他の)力によって導くのでもないし創造するの でもない。 # # # この55節は、文書全体でいえば第四章の一部をなしています。章ごとの 展開は、まず第一章(1から8節)が秩序の全体的な分類(分割)につい て論じ、第二章(9から23節)では前章で切り出された四種類の因果関係 について詳説し、第三章(24から48節)から神(第一原理、第一者)の 存在証明となります。前々回にも少し触れましたが、まずはアヴィセンナ 的な原因論をベースにした論証が展開します。帰結性を遡っていくと(無 限後退を排するならば)第一の作用因に到達せざるをえない、というので すね。これが第三章で、スコトゥスは次にこの第一の存在が無限であるこ とを論じていきます。これが第四章(49節から97節)になります。 「神が存在する」という場合に人が神について抱きうる概念とは、スコ トゥスによれば、まずは「始原的な一者であること」、そして次に「無限 であること」だというわけですね。それらは定理ではなく、論証されなく てはならない命題です。こうしてスコトゥスは二段階での証明へと進んで いくのですね。 羅仏対訳本の解説(フランソワ=グザヴィエ・ピュタラズ)によると、こ の二段式の証明は、アンセルムスの有名な神の存在証明(ア・プリオリな 証明:それ以上大きなものが考えられない存在を想起できることから、そ の最大のものの存在が証される)と、アリストテレス流の動因による証明 (ア・ポステリオリな証明:動因を辿っていくと始原の動因に行き着く) を、両方の強みを生かす形で抱き合わせたようなものになっているといい ます。確かに、前段は別様のア・ポステリオリな証明(運動という契機を 取り除いています)ですし、後段も(そのうち詳しく見ますが)アンセル ムス的な議論を別様に取り込んでいる感じになっています。学知的な論証 (前段)と経験的な与件(後段)とをうまく組み合わせている、というわ けですね。 これから読んでいく55節から66節は、その後段の証明のための前提部分 の議論にあたります。さしあたりは前提部分を見ていくにすぎませんが、 この後段の証明そのものも、できれば大まかにでも掌握したいと思いま す。 今回の箇所には「第四の結論」というのが出てきますが、これは章の始め から数えて四つめということです。ちなみに第一から第三の結論は「第一 の本性はそれ自体で単純である」「最も高貴な本性に内在するものは、す べてかように高貴である」「端的に完全であるような、最も高貴であるも のはすべて、必然的に最も高貴な本性に内在する」となっています。形式 的には、このような結論を最初に掲げて、それに対する注釈が続くという スタイルになっています。注釈部分には異論の掲示とそれへの反論なども 含まれ、ときには複数の節にまたがったりしています。というわけで、次 回から本腰を入れて取りかかります。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月03日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------