〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.175 2010/07/03 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その13) 前回も触れたように、エギディウス・ロマヌスの『子宮内における人体形 成について』の一章から八章までは、男女双方が放出する種子についての 話が展開します。とくに問題とされるのが女性が放出される種子(のよう なもの)についてです。というのも、女性は一方で質料となる経血をもも たらすとされるので、それとは別の役割を種子は担っているはずとされる からです。この文書では、いわゆる冗長性は排除され、二つのものが存在 するならば、それぞれが担う役割は同一ではないはずだ、と考えていま す。 たとえば二章(表題「女性の種子には胚の産出のための能動的な力はない こと」)では、アヴェロエスをもとに、もし女性の種子に能動的な力(形 相をもたらす力)があるとしたら、男性の種子なしで生殖ができてしま う、ということが記されています。よって女性の種子にある力は、むしろ 男性の種子に対して相補的な、「受動的な力」だろうと言われます。この 相補性はまた、経血との違いにも拡張されます。 三章(表題「女性の種子は作用元としても質料としても生成に適しないこ と」)では、女性の種子は胚の質料をもたらすものではないとし、むしろ 経血のほうが胚の諸器官となる素材(質料)をなすと見ています。異説と して、身体の柔らかい部分は経血が、また硬い部分(骨など)は種子がも たらすのではないか、という議論もあったようですが、質料が二種あるの はそもそもおかしいとされていて、これは斥けられています。経血が様々 に変化することで諸器官は得られるのだし、それを導くのは形成力をもっ た男性の種子があればそれでよい、というわけです。自然には無駄という ものはないというのが基本的な考え方なのですね。 四章と五章では、この女性の種子について、能動的な力でも質料でもない ということを、改めて全体的な布置から捉え直しています。それによれ ば、形相を与える役割は基本的に男性の種子にのみ認められ、人体形成の 質料である血液は経血の形で女性から与えられます。では、女性の種子が 担う役割とは何なのでしょうか。自然には無駄がないと考える以上、そこ には個別・固有の役割がなくてはなりません。で、どうやらそれは、男子 の種子による形相付与を「補佐」することにあるようなのです。 六章(表題「種子を放出せずとも女性は懐妊しうること」)によれば、種 子の放出は快をともなうものとされ、一方で女性の場合にはそれはあくま で付随的な快であり、結果的にそうした種子の放出(つまりは快感を覚え ること)がなくても懐妊はありうるとされています。ここから、まずは女 性の放出する種子の役割が副次的なものと考えられていることが、改めて わかります。 そして七章(表題)において、その補助としての役割がまとめられていま す。まずは、男性の熱く粘っこい種子を、女性の冷たくさらさらした種子 が中和するのだと言われます。つまり、男性の種子を誘引し混合させて、 着床しやすくするというのですね。次に、女性の種子には母胎内を湿った 状態に保つ働きがあるとも言われます。男性の種子を受け取る環境を整備 するというわけです。さらにもう一つ、受胎に快を与えるという働きも指 摘されています。基本的にこれらはアヴィセンナに準拠した説明のようで す。 このように、アリストテレス的には認められていなかった女性の種子とい う考え方は、ここで一応の復権を遂げているように見えます。『人体形成 について』では、この問題に多くのページが割かれていますが、もしかす ると当時の思想状況では、まだ完全に復権とはいたっておらず、そのため 議論を尽くさなくてはならないとエギディウスは考えていたのかもしれま せん。全体として、各章の説明は実に細かく、アヴィセンナやアヴェロエ スの学説が随所に引用されていたりして、そういう面でも興味深い文書で はあるのですが、ここではそれらを逐一吟味するわけにはいきません。さ しあたりは駆け足で一気に概要だけ掴むことにしたいと思います。この種 子の問題に続き、同文書はいよいよ「魂」についての話に進んでいきま す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その2) 『第一原理論』第四章から、今回は56節を途中まで読みます。ではさっ そく見ていきましょう。 # # # [56] Item tertio sic : Aliquid causatur contingenter; igitur prima causa contingenter causat: igitur volens causat. Probatio primae consequentiae : Quaelibet causa secunda causat inquantum movetur a primo; ergo si prima necessario movet, quaelibet necessario movetur et quidlibet necessario causatur. Probatio secundae consequentiae : Nullum est principium contingenter operandi nisi voluntas vel concomitans voluntatem, quia quaelibet alia agit ex necessitate naturae, et ita non contingenter. Obicitur contra primam consequentiam : quia nostrum velle posset adhuc contingenter aliquid causare. Item : Philophus concessit antecedens et negavit consequens intelligendo de velle Dei, ponendo contingentiam in inferioribus ex motu, qui necessario causatur inquantum uniformis, sed difformitas sequitur ex partibus eius, et ita contingentia. - Contra secundum : Aliqua mota possunt impediri et ita oppositum contingenter evenire. Ad primum : Si est primum efficiens respectu voluntatis nostrae, idem sequitur de ipsa quod et de aliis; quia, sive immediate necessario moveat eam, sive aliud immediate, et illud necessario motum necessario moveat, quia movet ex hoc quod movetur, tandem proximum necessario movebit voluntatem; et ita necessario volet et erit volens necessario. Sequitur ulterius impossibile, quod necessario causat quod volendo causat. [56] 三つめの議論も以下のようになされる。なんらかの事象は偶発的に 生じる。ということは第一の原因は偶発的に生じせしめる。したがってそ れは望むことによって生じせしめているのである。(このうち)第一の帰 結は次のように論証される。二次的な原因はどれも、第一の原因によって 動かされる限りで生じせしめる。そのため、もし第一原因が必然的に動か すのであれば、あらゆるものは必然的に動かされ、すべては必然的に生じ ることになる。第二の帰結は次のように論証される。意志もしくは意志に 随伴するもの以外、偶発的に作用するものの原理ではない。なぜなら、ほ かのすべては本性的な必然から作用するのであって、偶有的に存在するの ではないからだ。 この第一の帰結には次のような反論がなされよう。私たちの意志が、何か をなおも偶発的に生じせしめることがありうる、と。同様に、哲学者も先 の議論に譲歩し、神の意志についての理解という帰結を否定して、運動に よって生じる下位の存在に偶有性があると考えている。その運動とは、均 一である限りにおいては必然的に生じるものだが、部分からはひずみが生 じ、よって偶有がもたらされる。第二の帰結には次のように反論されよ う。動かされるものには阻害される場合もあるし、対立物が偶発的に生じ ることもある。 この第一の反論にはこう述べよう。もし私たちの意志に対して第一の作用 者があるのだとすれば、その作用者みずからについて導かれるのと同じこ とが、ほかについても導かれる。なぜなら、その作用者は直接それ(私た ちの意志)を必然的に動かすか、あるいは直接には別のものを動かし、そ の「必然的に動かされるもの」が必然的に動かすことになるからである。 というのも、それは動かされるものによって動かすからである。最終的に は隣接するものが必然的に意志を動かすことになる。つまりそれは必然的 に望むことになり、必然的に望む者となるのである。すると、なんともあ りえないことが導かれる。つまり、意志によって生じるとされるものが、 必然によって生じることになるのである。 # # # 早くも意志の問題に入ってきました。必然に対立するものとしての自由意 志という議論です。第一原因が必然ですべてを動かすのであれば、あらゆ る事象は必然で、偶有が生じる場所はないことになります。ですが実際に は偶有が生じているわけで、つまり第一原因は偶発的に事物をもたらして いるのではないかということになります。偶発的に事物をもたらすもの、 それはつまり自由意志にほかなりません。かくしてスコトゥスはここで、 第一原因は実は自由意志で物事を動かしている(もたらしている)のだと 論じているわけですね。これはかなり画期的な議論です。というのも従来 は、第一原因から導かれるのはあくまで必然的な事象で、偶有はそれに付 随するものでしかないとされていたからです。 ですが、この議論も実はそれなりに系譜があるようです。ケンブリッジ大 出版局から今年出た2巻本の『ケンブリッジ中世哲学史』の2巻目で、ブ ライアン・レフトーという人が「神の存在についての議論」という一章を 担当していますが、同章の説明によると、偶有が最終的に「創造されたの ではないもの」(すなわち神)に帰着するという議論を展開する嚆矢 は、10世紀初頭のアル・ファラービーだとされています。「偶有的存在 はすべてなんらかの原因によって存在する」「その原因は偶有であるか、 そうではないかのいずれかである」「原因は無限には遡れないし、循環す ることもできない」「よって最終的には他の原因によらない原因がなくて はならないが、他の原因によらない原因は偶有ではない」というのがその 議論の骨子になります。 で、それを継ぐ形でアヴィセンナが詳細な議論を展開するのですね(これ はちょっと長いので割愛)。そしてその議論は、アラブ世界ではアヴェロ エス、西欧世界ではスコトゥスや16世紀のスアレスへと受け継がれてい くといいます。偶有を下位の存在における一種の「ぶれ」(質料が絡んで くるせいだと言われます)に帰するのではなく、上位、それも最上位の存 在に帰着させようとするところが、実に大胆な議論だと言えそうです。 アル・ファラービーやアヴィセンナの議論はあくまで原因をめぐる論理学 的なものですが、スコトゥスはこれに意志の議論を絡めています。これも レフトーが示唆していることですが、どうやらそれは、運動論に関係して 出てきた立場のようです。「動かす」原因を辿っていくことで、「他に よって動かされない」原因に至るというのがアリストテレス的な運動論の 骨子ですが、フランシスコ会の論者たち(ボナヴェントゥラ、スコトゥ ス、オッカム)は運動論に意志の問題を含め、意志もまた事物を「動か す」と考えています。そうすると必然としての原因と意志とがパラレルな 関係になりますが、一方で意志は必然に対立する概念とされていて、偶有 を考えるときにはそのどちらかを選択しなくてはなりません。スコトゥス は偶有は意志によってもたらされると考え、迷わずそちらを選択している のですね。今回の三段落めなどはまさにそのことをよく表していると思わ れます 次回は56節の残りを読んでいきます。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月17日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------