〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.182 2010/11/06 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その20) アーバノのピエトロのテキストを眺めていますが、すでにしてその批判精 神に満ちた、観察眼を主とするスタンスのようなものがほの見えていま す。このあたり、ピエトロのテキストをより精査しながら敷衍なり吟味な りをしていきたいところでもありますが、さしあたりここでは、種子に関 するもう一つの議論についても見ておきたいと思います。先の二書でも取 り上げられていた、例の「女性が放出する種子」の存在と役割についてで す。 この議論はそもそも、おもにガレノスの流れを汲む人々(サレルノ学派) が重視していたものでした。とはいえ、エギディウス・ロマヌスもこれを 受け止め、一種の折衷案のような形で取り込んでいました。ではピエトロ はどうでしょうか。『調停の書』から三七章(相違三七)「女性のものと 言われる種子、もしくは白みがかった湿気ないしは雫は、胚の成立に関与 するか否か」を見ていきましょう。まず最初に、肯定する論がガレノスの 説として紹介されます。 余談ですが、ここでHaly.と略される人名が出てきます。すでに読んだ他 の箇所などでも散見される名前なのですが、実はこれ、ラテン名をハリ・ アッバスという一〇世紀のペルシアの自然学者だということがようやくわ かりました(笑)。この人が記したガレノス医学の総覧を、コンスタン ティヌス・アフリカヌスがラテン語訳したのが「パンテグニ(完全なる 技)」で、これがサレルノの医学に大きな貢献を果たしたとされていま す。 で、話を戻すと、最初に紹介される肯定論では、女性も男性と同じように 種子を放出することが、性行為や性的器官の形状などから類推されていま す。これに対し、続く異論ではアリストテレス説が取り上げられます。お もにアヴィセンナの『医学典範』にもとづき、種子は能動的なものなのだ から、ガレノス説が正しければ単性受胎が可能だということになってしま う、といった議論を紹介しています。アリストテレス=アヴィセンナ説で は、質料形相論にもとづき、あくまで女性は経血の形で質料をもたらすの であって、種子らしいものを放出することは認めたとしても、それ自体が 胚の形成に関わるものではない、との立場を取ります。 この後で、いよいよピエトロの立場が示されます。前回のテキストから も、アリストテレス寄りの立場だろうということが推測されますね。で、 実際にそうらしく、まずピエトロは、種子という同じ名前で呼ばれていて も、両性のものには性質上の違いがあるとしています。たとえば女性の側 の「種子」には凝結力がなく、そうした力は男性の側からもたらされると いうのですね。ほかにも暖・寒、濃・淡、秩序・無秩序などの差異があ り、両者はとうてい類比できるものではない、とされています。 続いてピエトロは、ガレノス派側の主張として取り上げられた、女性の種 子が男性の種子を補完・補佐するという説についてかなり詳細な反論を展 開していきます。煩雑になりそうなので詳しい内容は割愛しますが、その 基本姿勢は、医者たちは枝葉ばかりを見て、大元の根っこ、つまり原理の ほうを見ないという批判です。枝葉というのが女性の種子の働きだとする と、大元の根っこというのは、胚の形成が基本的に男性側の種子に内在す る形成力に依存するのだという考え方です。ピエトロがアリストテレスに 多く依存していることは、このあたりからも明らかですね。 この三七章はかなり長めの一章です。次回も引き続きこれを見ていくこと にします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その9) 今回は63節と64節の途中までを見ていきます。またも切り方が悪くてす みません。ではさっそく見ていきましょう。 # # # [63] Septima Conclusio : Nullum intelligere potest esse accidens primae naturae. Probatur : quia illa natura prima ostensa est in se esse primum effectivum; igitur ex se habet unde potest quodcumque causabile causare - circumscripto alio quocumque - saltem ut prima causa illius causabilis. Sed circumscripta cognitione eius non habet unde possit illud causare; igitur cognitio cuiuscumque non est aliud a sua natura. - Assumptum ultimum probatur : quia nihil potest causare nisi ex amore finis, volendo illud, quia non potest esse aliter per se agens, quia nec propter finem. Ipsi autem velle alicuius propter finem praeintelligitur intelligere ipsum; igitur ante primum signum quo intelligitur causans sive volens necessario praeintelligitur intelligens A, et ita sine hoc non potest per se efficere A, et ita de aliis. [63] 第七の結論:いかなる知解も、第一本性における偶有ではありえな い。 これは次のように論証される。その第一の本性については、みずからが第 一の成果物であることは示した。したがって、ほかのものは除くが、もた らしうる任意のものであれば、それをもたらす性質は自ずと備わってい る。少なくとも、そのもたらしうるものの第一原因としてである。けれど も(知性が)それ以外の認識であるとするなら、それ(もたらしうる任意 のもの)をもたらすことができない。したがって、どの認識もその本性と 別物ではないということになる。結論の最後の部分は次のように論証され る。どんなものも、目的への愛ゆえに望むのでなければ(何かを)生じせ しめることは適わない。それ以外に、おのずと働きかける存在である仕方 はないからでである。別の仕方であるならば、目的を伴わなうことすらな いからだ。しかるに、おのれを理解することは、目的のために何かを望む ことよりも先に把握される。したがって、生じせしめるもの、望むものと して理解する最初の徴候以前に、知解するものAとして(みずからを)必 然的に把握するのであり、そうでなければみずからAを生じさせられない ことになる。ほかの(知性の)場合も同様である。 [64] Item : Omnes intellectiones eiusdem intellectus habent similem habitudinem ad intellectum, secundum identitatem essentialem vel accidentalem: patet de quocumque intellectu creato. Quod ostenditur: quia videntur perfectiones eiusdem generis : igitur si aliquae habent receptivum, et omnes habent idem et ita si aliqua est accidens, et quaelibet. Aliqua non potest esse accidens in primo - ex praecedente : igitur nulla. Item : Intelligere, si quod potest esse accidens, recipientur in intellectu ut in subiecto; igitur et intelligere, quod est idem sibi et ita perfectius intelligere, erit potentia receptiva respectu imperfectioris. [64] 同様に、その同じ知性による知解はすべて、その知性に対して、本 質的ないし偶有的な同一性にもとづく類似の関係をもつ。そのことは、創 造されたどの知性についても明らかである。それは次のように示される。 もとよりそれは同じ類における完成であると思われる。よって、いずれか が受容的なものであるのなら、すべてが同様に受容的であり、またいずれ かが偶有であるならば、どれもが偶有ということになる。上記にしたがた い、いずれかが最初に偶有であることはありえない。よってどれも偶有で はない。 同様に、知解が偶有でありうるとするならば、それは知性において、主体 におけるのと同様に受容されることになる。とするならば、知性と同一か つより完全な知解を意味するその知解は、より不完全な知性に対しては受 容の可能態でしかなくなってしまう。 # # # 知解という行為そのものは偶有ではない、というテーゼが取り上げられて います。前にも触れたように、スコトゥスは必然を最上流にまで押し上げ て、そこから先は意志を中心とする偶有が織りなす世界を考えているよう です。とするとやはり最上流に位置するとされる知性そのものの働きは、 必然でなくてはなりません。ここでのスコトゥスは、まさにそのことを論 じているのですね。 とはいえ、スコトゥスの場合、知性というのはやはり意志により司られて 事物を成立させるもののようです。「どんなものも、目的への愛ゆえに望 むのでなければ(何かを)生じせしめることは適わない」からです。「知 解」と訳出しているintelligereは、知性の働き、つまり知性において認識 対象が成立すること(現実態として)、といった意味でしょう。ですがこ のテキストではその次に、知性の自己認識があらゆる他の認識に先立って いることも示されています。「しかるに、おのれを理解することは、目的 のために何かを望むことよりも先に把握される」というのですが、ではこ れはどう理解すればよいでしょうか。 ここで、『ケンブリッジ中世哲学史』(前にも一度取り上げました)か ら、第一巻所収のトビアス・ホフマンによる主知主義・主意主義について の論考を見てみましょう。そのスコトゥスについての記述によると、まず そもそも意志と知性を分かつのは、自己決定(自己認識)の有無にあると されます。意志はもとから自己決定できるのに対し、知性は自己認識する かどうかをみずから決定するのではない、というわけです。 これを上のテキストに当てはめてみるならば、どうやら知性が事物の把握 に先立って自己を把握するというのは、やはり意志が介在しているためだ と考えられます。知性が働きをなすその根本には意志があり、それが知性 の自己認識をもたらし、さらには目的因に沿って事物を認識するという図 式ですね。 ホフマンが言うには、スコトゥスはこれをさらに押し進め、意志こそが合 理的な力であって、知性がそうなのではない、という立場にまで至るよう です。この場合の「合理的な力」とは、逆の効果を容認できる力のことを 言い、「非合理的な力」とは特定の効果に固定された力を言うのだとこの 論者は語っています。なかなか興味深い指摘ですが、このあたり、ホフマ ンの議論のもとになっているスコトゥスのテキストもちょっと確認したい ところですね。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------