〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.183 2010/11/20 ------文献探索シリーズ------------------------ 胚をめぐる冒険(その21) 前回見た三七章は、後半の論点が「器官の修復」へとずれていきますの で、とりあえず胚の形成プロセスに関わる部分だけで振り返っておくと、 そのハイライトはやはりガレノス派の諸論への論駁にあると思われます。 たとえば、男女それぞれが放出する種子が混合して胚ができるという議論 に対してピエトロは、「酢蜜」のように両者が混ざるなんてありえないと してこれを一蹴します。胚を形成する原理は一方の側からのみ与えられる のでなくてはならない、とピエトロは考えているのですね。一方で、女性 の側の種子は原理を受け入れる受容体(質料)をなすわけでもありませ ん。その受容体は経血によってもたらされるからです。 では、女性の側の種子は一体何を担うのでしょうか。ピエトロによるとそ れは、母胎が男性の種子を受け入れやすくするよう、刺激を与えるという 役割です。いわば誘発剤のようなもの、あるいは地ならしのようなもので しょうか。詳しい説明はありませんが、おそらくはそういうことだと思わ れます。これに続いてピエトロは、女性の種子が男性の種子を誘引すると か、動きを補佐するといった説(ガレノス派の流れを汲む説)をも否定し ています。前に見たエギディウスの『人体形成について』がややそちら寄 りだったのに対して、こちらはアリストテレス色を強めた立場といいます か、女性側の役割をかなり限定的に見る立場です。 エギディウスがかなり詳しく、ある意味執拗に自説を力説していたのに比 べると、ピエトロの反論はどこか簡素で、余裕すら感じさせます。著者た ちの性格的な違いによるものなのでしょうか。あるいはここに、主流・反 主流的な対立構図、もしくはアリストテレス思想の受容・許容の濃淡の違 いが見て取れるのでしょうか。どちらかというと、この後者を取りたい気 になります。やや図式的に捉えるならば、エギディウスの激しさはどこか 反主流が主流に挑んでいる感じです。逆にピエトロは、それを軽くいなし ているようにも見えます。反論の矛先にも微妙に違いが見えています。 たとえば一つ前の三六章(相違三六)を見てみましょう。これはピエトロ が支持する胚の形成プロセスについて述べている章です。ピエトロはそこ で、種子のもたらすのが質料的なものではなく、むしろヒポクラテス=ガ レノスが言う精妙なるもの(つまり精気)や、人為的な技巧にも比される 形成力(形相付与の力)なのだということを強調します。それは潜在的な 力であり、知性の力でもあるとされています。ピエトロはそこで、種子の 中にあるそうした潜在力を一部の論者たちが性急に「種子がもたらすのは 活力だ」と曲解しているとして、これを批判しています。 この場合、ある意味で自分の陣営(アリストテレス支持派)内部の相手に 苦言を呈しているわけです。暗にみずからを、アリストテレス学徒の主流 派として自負している感じですね。エギディウスに多少見られたような、 アリストテレスへの準拠という枠組み自体が批判されることも、ピエトロ には見あたらないように思えます(全体を精査したわけではないので、留 保つきですが)。エギディウスとピエトロはほぼ同時代を生き、しかも 13世紀ごろ末まではともにパリで暮らしています。その点をも考慮に入 れると、両者の二書は、なにやら会派的な対立線を描き出しているように も見えてきます。もちろん現段階では、こうしたすべては憶測の域を出な いのですが……。 題材は違いますが、ピエトロの『調停の書』における知覚のプロセスにつ いての論考が、クヌッティラ編『中世・初期近代哲学における知覚理論』 (Springer, 2008)という論集に収録されています。著者はヘンリク・ ラーガールントで、同氏によると『調停の書』の本来の意図は、アリスト テレス哲学を当時の医学において権威のあったガレノスとアヴィセンナの 著作に合致するものとして取り上げることにあったといいます。つまり、 アリストテレス哲学のプロモーションが目的だったというわけです。です が上のような読み方をすると、アリストテレス哲学のプロモーションとい うよりはその主流の解釈を示すこと、といった風に、同書の意図も少し 違ったニュアンスで見えてきます。面白いですね。ラーガールントによれ ば、哲学と医学の摺り合わせを行おうとする著作は、中世を通じて見ても きわめて数が少ないといいますし、またピエトロに関してもまだまだ多く のことが明らかになっていないようなので、その意味でもピエトロのこの 書は興味深い研究対象の一つであり続けているようです……。 # # # さて、こんなわけで、いささか駆け足で三つの実例をめぐってみました。 一世紀程度の短期間のうちに、主軸となる学説の移り変わりや、観察を主 体とする見識の普及など、いろいろな動きがあったように思われますが、 時代的な変化の一端は少なくとも眼にできたような気がします。次回は一 応の全体的な締めくくりとして、胚をめぐる議論全般についての総括・展 望を記しておきたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ドゥンス・スコトゥスの自由意志論を読む(その10) スコトゥスのこのテキストも、読む予定の部分としては大詰めです。では さっそく見ていきましょう。 # # # Item : Idem intelligere potest esse plurium obiectorum ordinatorum; igitur quanto perfectior, tanto plurium; ergo perfectissimum, quo impossibile est esse perfectius intelligere, erit idem omnium intelligibilium. Intelligere primi est sic perfectissumum - ex secunda huius; igitur idem est omnium itelligibilium; et illud quod est sui, est idem sibi - ex proxima praecedente; ergo, etc. Eadem conclusionem intellige de velle. [65] Item sic arguitur : Ille intellectus est nisi quoddam intelligere; intellectus est idem omnium, ita quod non potest esse alius alterius obiecti; igitur nec intelligere aliud, vel igitur idem intelligere est omnium. - Respondeo : Fallacia est accidentis ex identitate aliquorum inter se absolute concludere identitatem respectu tertii, respectu cuius extraneantur. Exemplum : Intelligere illud est velle; igitur si ipsum est intelligere aliquius, ipsum est velle eiusdem. Non sequitur; sed est velle, quod quidem velle est aliquid eiusdem, quia intelligere eiusdem, ita quod divisim potest inferri, non coniunctim, propter accidens. さらに、同一の知解は、秩序だった複数の対象物の知解でもありうる。し たがってそれは、より完全であるほどに、いっそう多くを取り込んでいけ る。すると、それ以上完全な知解がありえないような最も完全な知解は、 あらゆる知解対象にとって同一となるだろう。本章の第二の結論から、第 一者の知解はとはそのように最も完全なものとされる。したがってそれは すべての知解対象にとって同一となり、また、すぐ前の結論から、みずか らの知解もその知解と同一になる。したがって(以下略)。 意志についても同じ結論となると理解せよ。 [65] また、以下のようにも議論される。かかる知性はまさしく何かの知 解である。知性はあらゆるものにおいて等しく、対象が異なるからといっ て異なることはありえない。したがって知解も異なることはない。あるい は、知解はすべてにおいて同一である。私はこう答えよう。たがいにまっ たく同一であるものの同一性から、それぞれが外部をなすような第三者に 対する同一性を導くのは、偶有による誤謬である。例を挙げよう。「知解 とは望むことである。したがって、何かの知解であるなら、それはその同 じものの意志でもある」。だが、そこから(今論じている)結論は導かれ ない。ただ、意志が存在し、しかもそれはその同じ何かの意志であると導 かれるにすぎない。なぜならそれは同じものの知解だからである。それは 別個には推論しうるが、偶有であるがゆえに一体として推論することはで きない。 Item sic arguitur : Intellectus primi habet unum actum adequatum sibi et coaeternum, quia intelligere sui est idem sibi; igitur non potest habere alium. - Consequentia non valet : Instantia de beato simul vidente Deum et tamen aliud; etiam si videat deum secundum ultimum capacitatis suae, ut ponitur de anima Christi, adhuc potest videre aliud. Item arguitur : Intellectus ille habet in se per identitatem perfectionem maximam intelligendi; igitur et omnem aliam. - Respondeo : Non sequitur; quia alia, quae minor est , potest esse causabilis et ideo differe ab incausabili; maxima non potest. また次のようにも議論される。第一者の知性は、みずからに適しともに恒 久的であるような一個の現実態を有している。というのも、その知解は知 性と同一だからである。したがってそれ以外のものを持ちえない。しかし ながらこの結論は有効ではない。祝福された者は神を見、同じ刹那にその 他のものをも見る。ここで仮にその者が、キリストの魂について考えられ ているように、自分の究極の能力において神を見るのだとしても、その者 はそれでもなお別のものを見ることもできるのである。 また、以下のようにも議論される。その知性は同一性ゆえに、みずからの うちに最大の知解対象を有している。ということはつまり、他のすべてに ついても(最大の知解対象を)有しているのである。私はこう答えよう。 そうはならない。なぜなら、他のものはより小さなものであって、原因に より導かれうるのであり、よって原因によらないものとは違いがありうる からである。最大のものなら、違いがあることなどありえない。 # # # 「第二の結論」というのは、「最上位の本性に内在するものはすべて、最 上のものとして内在する」という命題です。「すぐ前の結論」は、60節 に出てきた第六の結論「第一本性にとって、みずからを愛することは、そ の第一本性と同義である」です。今読んでいるのは第七の結論「いかなる 知解も、第一の本性の偶有ではありえない」をめぐる論証ですが、後ろの ほうでは例によって、一部の論証方法にスコトゥスが批判を加えていま す。65節の最初の段落には「偶有による誤謬」とありますが、ここで は、知解の本質としての同一性を論証しようとしているときに、意志(偶 有)の話を持ち出してくるのは妥当ではないということでしょう。 さて、知性・知解の話が続いていますが、意志論の話なのにここではなぜ 知性の話になっているのか、と思われる向きもあるかもしれません。実は 当時の、とくにフランシスコ会派系の主意主義においては、それぞれの立 場が分かれるのは知性の扱いをめぐってだったようなのです。 少し脱線になりますが、つい先日Webで見かけたばかりの、マリー・ベ ス・インガム(Mary Beth Ingham)の論文「スコトゥス自身に語らせ る(Letting Scotus Speak for Himself)」("Medieval Philosophy and Theology" 10-2, 2001所収)を取り上げておきましょう。同論文 によると、中世の主意主義の立場は五つに集約されるといいます。(一) 意志は知性に勝る。(二)人間的完成(至福)は知性ではなく意志によ る。(三)自由は合理性からではなく意志から派生する。(四)意志は知 性に反する働きかけができる。(五)身体や魂の諸能力を司るのは、知性 ではなく意志である。このうちのいくつを標榜するかで、各論者の主意主 義が特徴づけられるというわけなのですが、スコトゥスの場合、どうやら (四)だけを認めないという立場に立つようです。 オリヴィなどはその(四)も認めるというラディカルな立場に立つらしい のですが、スコトゥスはそこまではいきません。何かを求める・志向する という場合、そこには意志と、知解対象とがともに原因となってその作用 が成立する、ということをスコトゥスは述べているといいます (「Lectura II 25」)。インガムによれば、知性が対象を意志に対して 提示してはじめて、意志はその受諾・否認を判断できるのだとスコトゥス は考えています。ガン(ゲント)のヘンリクスなどは知性が単独で志向の 絶対的な必要条件をなすと考えていますが、スコトゥスは「それでは意志 が前面に出てこれない」としてこの立場を受け入れません。スコトゥスは 意志そのものに合理性があるとして、自由の根拠という面ももっていると します。結局、スコトゥスにとって、知解は意志するという行為(志向) を成立させる作用因の一部にすぎず、あくまで意志の下で、意志において 存在し作用するものなのですね。 インガムによれば、意志が合理性をもつ、意志が合理性に立脚していると いう議論が、スコトゥスをオリヴィやヘンリクスなどから隔てているとい います。この後者の二人は、合理性は知性にあると見なしているからで す。ちょっとそのあたりは確認を取りたいところです。インガムの論文は さらに、これに続いて人間の理性的完成をめぐる議論を追いながらスコ トゥスの意志論を再確認していくのですが、その辺の話は次回にまとめを 兼ねて取り上げることにしましょう。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月04日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------