〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.185 2010/12/18 *お知らせ 本メルマガは原則として隔週の発行ですが、年末年始はお休みといたしま すので、次回は年明けの1月8日となります。よろしくお願いいたしま す。 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その1) 少し短いシリーズとして、「預言者と偽預言者」というテーマを追ってみ たいと思います。ここでの預言者とは、神学的な意味での預言者で、神の メッセージを伝える存在ということに一応限定しておきたいと思います。 なぜこのテーマを取り上げるのかというと、この「預言者と偽預言者の区 別はどう付けるのか」、あるいは「預言とはそもそもどのようなものであ るか」といった問題は、認識論や知性論などの重要な哲学的・神学的問題 が展開するフィールドの一つであるらしいからです。 このことを示す好例が、たとえばアラブ世界のほうにも見出されます。 ネットで閲覧できる資料として、フランク・グリフェル「ガザーリーの預 言者概念:アシュアリー神学へのアヴィセンナ霊魂論の導入」という ちょっと面白い論考があるのですが(http://www.medievalists.net/ 2010/10/16/al-gazalis-concept-of-prophecy-the-introduction-of- avicennan-psychology-into-asarite-theology/)、その冒頭部分(序 章)を読むと、イスラム世界での預言者と偽預言者の区別に、神学的な議 論がいかに絡んでくるかが大まかながら理解できます。 それによると、イスラム世界の場合、預言者の真贋を見分ける基準には伝 統的に二つの考え方があったといいます。その預言者がなした奇跡の評価 をベースにする考え方と、その預言者の徳性を信頼度とする考え方です。 ところがこの後者の場合、あらかじめ徳の基準がわかっていなければその 人物が徳を有するかどうか判断できないことになります。ですが、後世に おける評価ならともかく、同時代の人がリアルタイムでその徳目を判断す るというのは容易ではありません。いきおい、預言者を自称する人物が真 に預言者なのかどうか、厳密にはわからないということになってしまいま す。 アシュアリー派というイスラム教の一派は、この「徳性」による区別を否 定する立場を取っていました。ですがその際の背景になっているのは神学 的な考え方でした。人間と神との知識には根本的な違いがあるとされ、預 言というのは人間の外部からもたらされるものだということが前提になっ ていました。行いの徳性をもとに預言者を判断することは、預言者がもた らす啓示の内容以前にその人物の善悪を判断することになります。する と、神のメッセージかどうかを人間の基準に照らして判断することになっ てしまいます。神学的な原則からして、これは受け入れられないというわ けなのですね。 こうしてアシュアリー派では、前者の「奇跡」による判断を重視すること になります。ところがこちらもまた、区別の方法論としては問題が多いと いうことになります。今度は、その奇跡の真贋をどう捉えるかが問題に なってしまうからでしょう。かくして時代が下ると、同じアシュアリー派 内部からも異論が出てくるようになります。西欧中世との関係で結構重要 なガザーリーも、まさにそういう異論を唱える一人だったのですね。彼は 「預言の確かさは信者の中に生まれる確信(真理の概念?)に照らす以外 には検証できない」という立場を取るようです。ですが、この文言はきわ めて曖昧です。預言のメッセージを、受け取る側が心に抱く真理の概念に 照らして判断するのだとしたら、その真理の概念が預言のメッセージに先 行して別のソースからもたらされなくてはならないことになります。では それはどこから来ることになるのでしょうか。これはアポリアです。 同論考は、そんなガザーリーの考え方を、イブン・シーナーの霊魂論との 絡みで説き明かそうとする試みのようですが、いずれにしてもこのよう に、預言者を偽物と区別するというある意味些細に見える(私たちからす れば、ですが)議論でさえ、そこには神学的思想の基盤と、それらの原理 のせめぎ合いが見られることがわかると思います。しかもそれはアラブ世 界に限ったことではなく、西欧でも類似の状況があったであろうことは容 易に予測できます。このような観点から、西欧中世の若干のテキストを眺 めていこうというのが、このシリーズの企図になります。 というわけで、次回以降、西欧中世の概観と、具体的なテキストのチェッ クに取りかかりたいと思いますが、上のガザーリーについての論考も ちょっと気になりますので、まずはその論旨をまとめたておきたいと思い ます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その1) さて、今回からオリヴィを見ていきたいと思っていたのですが、ちょっと 事情により具体的なテキストを見ることができませんでした。そのため、 具体的なテキストに取りかかるのは次回からとさせていただきます。今回 は周辺情報のまとめということでご了承ください。とりあえず今回読んで いこうと思っているのは、このところのトマスやスコトゥスのテキストに も関連する「質料論」の一部です。オリヴィの質料論はすでに何度か触れ ていますが、概観について再度まとめておきたいと思います。 取り上げるのは、オリヴィの主著『命題集第二巻についての諸問題』か ら、問題一七と一八です。底本は、同書の問題一六から二一をまとめた羅 仏対訳本("La matiere", Vrin 2009)です。この問題一六から二一とい うのはいずれも質料についての論考です。ここではとりあえず各問題を一 通り見ておくことにしましょう。問題一六は「天使などの知的実体は質料 と形相から成っているか」という問題で、前にも触れたと思いますが、オ リヴィは、質料から分離しているとされる知的実体についても、それらを 単に形相だけとは見なさずに、「形相」と「質料」とから成っていると論 じています。つまり、質料には物質的質料もあれば、精神的質料もあると いうのですね。詳しい議論は追々触れていきたいと思いますが、オリヴィ は種が実体化する際には(天使の場合も含めて)必ず複合的な構成が必要 になると考えているようです。中世の質料形相論の流れにおいて、これは とても画期的なことのように思えます。 この問題一六はそれだけで実に長大で、そこにはオリヴィの質料について の考え方がほぼ網羅されているといっても過言ではありません。ただ、あ まりに長大なので、残念ながらここでは全体を訳出できません。ですの で、ほかの箇所を読みながら、折に触れて立ち返るという形にしたいと思 います。続く問題一七は「質料の潜在性は実際に異なる何かを本質に加え るか」、その次の問題一八は「質料はそれ自体で何かの作用原理でありえ るか」です。本シリーズでは、このあたりを少し丁寧に見ていきたいと 思っています。 先走ってその後の部分を眺めておくと、問題一九は「なんら形相を伴わな い質料を神は創りうるか」です。オリヴィは、できるという議論とできな いという議論とを両論併記しています。このあたりはドクソグラフィ的に 面白いかもしれませんが、オリヴィ自身の考えとしては、「矛盾をきたさ ない限りにおいて、神にはそれが可能であろう」と妙にあっけらかんとし ています。ただ、形相を伴わない物資的な質料をオリヴィが認めていない のは確かです。 問題二〇は「形相に見られるように、質料にも物質的な差異があるか」で す。オリヴィは、これは斥けています。「物質的な質料には確かに多数の 部分がありうる」としつつも、そうした差異が存在しうるのは「あくまで 形相のもとにおいて、形相によってである」と言明しています。とはい え、問題二一「質料は本質的に、少なくとも物質的事物においては数的に 一であるか」で説明されるように、オリヴィは質料が数的に(数の上で) 一だとは考えていません。一見、問題二〇と矛盾するかのようにも思えま すが、ポイントは、物質的質料が個別の事物においてしかありえないとい うことです。で、そうした個別の事物にあっては、質料は数的に異なって しかり、というわけです。質料が体現する一性は、あくまで事物となった 場合の一性なのですね。もちろん、事物の本質が現実態になる(つまり質 料をともなった複合体になる)のも、存在としての一性を獲得するのも、 形相があればこそなのですが、オリヴィが独特なのは、質料はそうした一 性をただ単に受け入れるのではないと考えている点です。 個々の事物における一性は、単なる形相とそれが現実態としての存在する こととを分かつものである以上、それが成立する契機は形相の側には求め られず、むしろ質料の側に求められます。質料は形相なしには存在できな いので、本来は無限定のものとされながらも、現実態をなすために限定を 受ける以外にはありません。質料にはもとより、そうした「限定可能性」 が備わっていることになります。で、その限定可能性こそが質料の「本 質」、つまり「現実態となって数的に異なる」という質料本来のあり方に ほかならないのだ、とオリヴィは論じます。その意味で、やや乱暴に言え ば、質料はあらかじめ「分化している・分化を余儀なくされている」と捉 えることもできそうです。というか、そんなことをオリヴィは考えている フシがあります。このあたりも、テキストを読みながらまた考えてみたい ところです。 なんだか今回は、上の文献探索シリーズともども予告編という感じになっ てしまいましたが(苦笑)、年が明けましたら改めて取り組みたいと思い ます。年内はこれで終了となります。皆さん、よいお年をお迎えくださ い。 *本マガジンは隔週の発行ですで、年末年始を挟むため、次号は変則的に 01月08日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------