〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.189 2011/02/19 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その5) 前回の最後のところで、アルベルトゥスが預言を神的な介入による超自然 的なものと見なしていることを挙げておきました。その立場からすると、 より世俗的な予言もしくは占いの類が未来を予見するというのはほぼあり えないことになりそうです。実際、第二部の第二節では占星術について、 そうした見解が示されています。占星術(アルベルトゥスは 「astronomia」と言っていますね)は自由意志による不確定な未来を予 見する原理を示してはいないとし、アウグスティヌス(『神の国』)を引 用して、魂への星辰の影響はあくまで「傾向」をなすにすぎないと断じて います。余談ながら、占星術に「傾向」のみを見るという立場はアヴィセ ンナにも見られるもので、それゆえか中世盛期の論者には広く流布してい る考え方のように思われます。 アルベルトゥスはまた、星辰が知性によって動かされているということか らも、そのことが言えるとしています。知性は自由意志(liberum arbitrum)を統制できないので、自由意志の結果を知性のうちに刻印す ることができないというのです。知性には未来に関する認識は備わってお らず、それは天体(を動かす知性)であっても同様だというのですね。総 じて、自由意志に従属する偶有性には、自然の枠組みではいかなる予兆・ 徴(しるし)も現れないというのが、アルベルトゥスの基本的立場のよう です。神的な介入のみが、そうした徴をもたらすのだとされています。 先に進みましょう。第二部第三節では、預言というものが神からの恩寵と して与えられることが議論されています。この箇所は第二節を受けての議 論のように思われるので、とりあえず割愛しておきます。続く第四節にな ると、今度は預言の種類別の「認識論」が展開します。預言者はどのよう なプロセス、メカニズムで預言の内容を受け取るのか、という問題です。 アルベルトゥスは預言者が受け取る「ヴィジョン」を三種類に分けていま す。(一)「通常の視覚」によるもの、(二)「幻視」によるもの、 (三)「知性」にもたらされるものです。このそれぞれに詳細な検討が加 えられます。ちなみにこの三区分は、前に見たように、アヴィセンナやガ ザーリーが設けていた区分をそのまま踏襲していますね。 まず(一)の通常の視覚に与えられる預言的ヴィジョンですが、これは要 するに、覚醒時に不可思議なものが啓示として見えるという現象を指して います。ここで問題として掲げられているのは、(1)視覚に働きかける もの(つまり視覚の対象物)は物体か非物体か、(2)見える像は目の内 部に生じるのか外部から受け取るのか、という二つです。なぜそれらが問 題になるかといえば、当時の視覚理論(光学理論)においては、目という 物体に外部の物体が働きかけ、その外部の物体の形相を目が受け取ること で目が変化し、視覚が成立すると考えられていたからです(物体同士なの で、目は対象物の働きかけで変化する)。ところが預言者個人が目にする ヴィジョンは、他の人には見えないものだったりします。そのため、預言 者の視覚においては何か特殊なことが起きている、ということになるわけ ですね。アルベルトゥスはこれらの問題に次のように答えます。 (1)についは、視覚に働きかけるのは物体ではあるものの、それは霊的 な物体だとされています。通常の視覚理論を踏まえつつ、一方で他の人に は見えない点を説明するには、預言者の視覚に働きかけるのは物体でなく てはならないけれども、その物体を成立させているのは自然なものではな い(超自然である)と考えるのが妥当だ、というわけです。ではその超自 然とは何かといえば、ほかならぬ神の光であるとされます。(2)につい ては、超自然の働きかけによって、預言者の目は他の人々の視覚とは別様 に変化するとされ、「潜在性が拡張される」というふうに表現されていま す。とはいえ根底にあるのは自然的な視覚ですから、当時の視覚理論に 倣って像は外部から受け取るのだと議論されています。 (二)の幻視についてはどうでしょうか。ここで問われる問題も二点で す。(1)幻視の像はどこから来るのか、(2)なぜそれが霊的(精神 的)視覚と言われるのか。(1)については、「神的な光が視覚に像を送 り込むのは不都合かつ不要なのでは」という反論が挙げられ、これを受け てアルベルトゥスは、より蓋然性が高い考え方として、神の光に照射され る形で、魂がその幻視の像を構成し秩序立てるのだろうと述べています。 (2)についてはアウグスティヌスを引いて、物質を伴わない視覚を霊的 な視覚と呼ぶことは妥当であると主張しています。また、物質が存在しな いにもかかわらず物質的な像を保持できる能力は、知性に通じるものであ るとされ、その意味でも「精神的」と呼びうる、とも述べています。 なるほど、こうして見ると、神的な光は人間の視覚や魂に働きかけ、それ らは超自然的なものの影響を受けながら像を構成するというわけで、覚醒 的な視覚の場合と幻視の場合とにそれほどの違いはないということになり そうです。では(三)の知的なヴィジョンについてはどうでしょうか。そ れはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その5) 今回も自説部分の続きです。さっそく見ていきましょう。 # # # Praeterea, si potentia est aliud ab essentia materiae : aut est aliquid ab ea resultans, sicut calor dicitur resultare a forma ignis, aut est aliquid in ea concreatum aut est aliquid per formas in ea genitum. Primum esse non potest, quia materia non potest esse per se causa efficiens alicuius; omne autem quod resultat ab altero efficitur ab illo. Et posito quod posset esse causa efficiens eius, ad minus secundum aliud esset eius efficiens seu originans et secundum aliud esset eius subiectum recipiens; sed materia non posset secundum aliud et aliud originare suam potentiam et ei subici. / 加えて、仮に可能性が質料の本質とは別ものであるとすると、(一)たと えば熱が火の形相から生じると言われるように、質料から帰結する別もの であるか、あるいは(二)質料の中に同時に創造された別ものであるか、 あるいは(三)形相によってその中に生じた別ものであるかのいずれかと いうことになる。一つめはありえない。なぜなら、質料はそれ自体として 何かの作用因にはなりえないからだ。他のものから帰結するものはすべ て、その「他のもの」によって成立する。たとえ質料が作用因でありえた としても、それは少なくとも何か別のものに依拠して作用したり成立させ たりし、何か別のものに依拠して受容する主体となるだろう。しかしなが ら質料が、別のものに依拠してみずからの可能性を生じさせ、同時に別の ものに依拠してそれに従属することはありえない。/ -- Secundum etiam esse non potest. Naturaliter enim primo oportet quod materia habeat esse substantiale quam accidentale, et maxime cum accidens seu esse accidentale fundetur in ipso esse substantiali; sed materia habet esse substantiale per solam formam substantialem; ergo ordine naturali aliqua forma substantialis praecedit necessario omnia accidentalia ipsius materiae; sed si potentia diceret aliquid concreatum ipsi mateirae diversum ab ipsa, illud esset aut forma substantialis aut accidentalis. Nemo autem unquam posuit quod esset forma substantialis; si autem est accidentalis, praecessit forma substantiali, et ita praecessit potentia ad formam substantialem. Et hoc ipsum sequitur, posito quod illud concreatum esset forma substantialis. Ergo ad positionem dicentium eam concreatam esse materiae semper sequitur potentiam praecessisse potentiam et etiam quod forma substantialis prius sit in materia quam ipsa potentia materiae, quod nullus sanae mentis dicet. / 二つめもありえない。質料は自然にならい、偶有的存在よりも前に実体的 存在をもっていなくてはならないし、偶有ないし偶有的存在が実体的存在 そのもののうちに基礎づけられる場合にはいっそうそうでなくてはならな い。しかるに質料は、実体的形相によってのみ実体的存在をもつ。した がって、自然の秩序により、実体的形相は必然的に質料を規定するあらゆ る偶有性に先行する。しかしながら、仮に可能性が、質料と同時に創造さ れながらも質料とは異なる何かを意味するとしたら、それは実体的形相も しくは偶有的形相のいずれかということになるだろう。だが、それが実体 的形相であるとした者はこれまで皆無である。もしそれが偶有的形相であ るなら、それは実体的形相に先行することになり、可能性も実体的形相に 対して先行することになってしまう。このことは、その「同時に創造され たもの」が実体的形相であると考える場合でもおのずと帰結してしまう。 したがって、可能性が質料と同時に創造されたものであると述べる人々の 立場では、常に可能性が可能性に先行することが帰結され、また質料の可 能性そのものよりも前に、実体的形相が質料の中にあることが帰結してし まう。正常な精神の持ち主なら誰もそうは主張しないだろう。/ # # # 「質料がもつ可能性は、もとより質料に内在する特性、すなわち質料にお ける本質である」というのが、オリヴィの擁護するテーゼなのでした。今 回の箇所では、その可能性が質料の本質とは別ものだとした場合の論理的 不備を列挙しています。三つの場合分けがなされていますが、今回はその 最初の二つまでのところです。 二つめの段落(ここでの段落分けは便宜的なもので、本文そのものは段落 に分かれていません)では、少し攻撃的な調子を強めて、「可能性が質料 と同時に創造された別ものであると述べる人々」を批判しています。オリ ヴィは彼らが、可能性とは偶有的形相であるかのような議論をしている、 と言うのですが、もしかするとこれは暗にトマス派の人々を指しているの かもしれません。 そう考えられる手がかりが、前回のマイケル・サリバンの論文に見られま す。前回少しばかり取り上げたペッカムと並び、霊的質料の考え方を擁護 する人物にアクアスパルタのマテューがいます。マテューはペッカムの後 を継いで法王庁の講師を務めたほか、後には枢機卿となってオリヴィの名 誉回復に貢献した人物です。思想的にもボナヴェントゥラからペッカムの 路線を引き継いでいます。そのマテューですが、サリバンの論文による と、とりわけ霊的質料に関する議論でトマス派に批判を浴びせているとい います。 トマス派は全体として、霊的な実体は本質と存在から成ると論じ、した がってそれが形相と質料から成る必要はないと考えています。マテューは そもそも、本質と存在が分離しているとは考えません。もしそれらが分離 しているとするなら、本質に対して存在は「偶有に準じるもの」というこ とになりますが、マテューの目には、それでは形相とも質料とも違う「第 三の原理」のようになってしまう、と映ります。形相もしくは(形相・質 料から成る)複合体に外から注ぎ込まれる別もののようだ、ということで す。マテュー自身は、本質(つまり形相)は必ず基体(質料)とともにな くてはならず、存在というのは質料と形相の結びつきの結果にすぎないと 捉えており、そのため霊的な実体であろうと形相と質料とが必要になると 考えているようです。 その「偶有に準じるもの=存在」が外部から与えられるとしたら、一般に 存在は形相に由来すると考えられていたわけですから、形相に存在を与え る別の形相を考えなくてはならず、無限後退に陥ってしまいます。そうな らないためには、質料の側に形相と同時に別のもの(存在)を受け取る原 理を立てなくてはならなくなりますが、その場合も次のような理由で苦し くなります。存在が与えられていないのが可能態、与えられた場合が現実 態だとすると、存在を外的なものと考える限り、形相が質料に存在を与え ると同時に、形相(または複合体)みずからも外的な存在を受け取ること になり、その場合の形相は可能態なのか現実態なのかわけがわからないこ とになってしまうからです(同じ事物が同時に可能態と現実態であること はできません)。そもそも形相が可能態の原理、存在が現実態の原理だと いう点も、マテューには認められません。 かくして、存在が外部から注ぎ込まれる別ものであるという前提は破綻し ます。サリバンの論文によれば、マテューは形相がそもそも存在と同一で あり、むしろ「質料への形相の刻印」こそが存在なのだと考えているとい います。トマス派が実際に、存在が外部から注ぎ込まれるということを 言っているのかどうかはともかく、少なくともマテューの読みでは、その 点が議論の要をなしているというのですね。仮に外部から注ぎ込まれる存 在を認めるとすると、本質とは別ものという意味でそれは偶有的なもの、 一種の偶有的形相のようなものとも言えます。そしてオリヴィが上で展開 している議論は、まさにそのあたりを問題にしていそうです。この意味で それは、マテューの議論をいわば補完するものと考えることもできそうで す。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------