〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.191 2011/04/02 *先の震災を受けて、本メルマガは一回お休みさせていただきました。震 災に遭われた方々には、心よりお見舞い申し上げます。私個人も郷里が被 災地となり、遠くにいて見守ることしかできないもどかしさ・焦燥を感じ つつ過ごしていました。今はただ、少しでも早く復興がなされることを祈 るのみです。さしあたって先に進むことが、私たちにできる唯一のことだ と思っています。このメルマガもまた、新たな思いで再開させていただこ うと思います。またどうぞよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その7) 少し間が空いてしまいましたが、アルベルトゥスの文書の末尾を取り上げ ていませんでしたので、まずはそこから再開したいと思います。アルベル トゥスが最後に論じるのは、預言という事象そのものについてです。議論 されているのは、預言の成就になんらかの条件が付されるものなのかどう か、という問題です。確かに預言には「〜すれば〜になる」といった条件 節のような形式のものもあります。 これについてアルベルトゥスは、預言の内容そのものには条件はつかない と断じています。預言の内容は二種類に分かれます。つまり、端的に運命 を示す預言の場合と、約束ないし脅威を告げる預言の場合です。前者は原 因もなしにおのずと成就するものであり、明らかにこれは無条件です。後 者はなんらかの原因があって初めて結果的に成就するものですが、その場 合でも原因の結果としての預言の成就自体は無条件です。前提条件となる 原因の有無は成就自体とは直接関係しません。原因の有無にはなんらかの 条件が付いても、原因から結果にいたる成就は無条件だ、というわけで す。預言が示すのは恒久的な「像」であり、それは一つの真理だという考 え方がここに反映されているのでしょう。 以上で一通り、大まかですがアルベルトゥスの『預言についての問い』を 見てみました。まとめておくと、アルベルトゥスにとって預言とは、神の 介入により恩寵として与えられ、受け手である預言者の中でなんらかの像 (「永遠の鏡」)として受容されるものでした。預言者はその受け取った 像を知的に理解し、いわば人間のもつ不完全な知性の補完として示すこと になります。したがってその真偽も、受け手(預言者および一般の人々) の知的理解のプロセス(そこにもまた神が介入するのでした)において判 断されることになります。神が支援することで、預言が正しいことはおの ずと理解されるようになる、おのずとプロパゲートされる、という考え方 です。信仰に根ざすオプティミストな立場ですね。一方、そうではない偽 の預言とは、たとえば占星術(それ自体は自然の傾向についてなら予見こ とができるとされています)を自由意志の領域にまで拡大解釈するような こととされているようです。 この最後の点については、たとえばその次の世代にあたるトマス・アクィ ナスなどもそのまま継承し、より詳しく述べています。たとえばトマスに よるごく短いテキストに、『星辰の判断について』(De judiciis astrorum)という書簡があります。これはまず、上のアルベルトゥスが 占星術について触れた箇所で引用していたのと同じ、アウグスティヌスの 『神の国』第五巻の一節を引いています。「星辰がなんらかの仕方で物体 に様々な影響を与えると述べることは、不条理ではない(……)」という 箇所です。 トマスはこの引用の後、気象現象や体調などの予見に星辰についての判断 を用いる者がいても、それは罪ではないと述べています。農家や水夫、医 者などは、太陽や月の動きを見てしかるべき時期を決めているではない か、と(医学も含まれているのが興味深いところですが、この点はまたそ のうち改めて取り上げたいと思っています)。その上で、しかしながら人 間の自由意志が、星々の必然に従属していないことは明らかだとし、エレ ミア記から「天の徴を怖れるな。それを怖れるのは異教徒なのだから」と いう一節(一〇章二)を引いています。キリスト教徒は、自由意志が星辰 に支配されていると考えてはならないというのですね。 そして、そうした濫用的な占星術は悪魔の所業であるとして、アウグス ティヌスの『創世記逐語解』を引用しています。「自由意志に関して占星 術が『正しい』予見をしたときには、知らぬうちに人間の精神が神秘的な 影響を受けていることがあり、それが人間をたぶらかそうとするのであれ ば、それは不純で誘惑的な霊の仕業である。それらの霊は地上世界の出来 事を部分的に知ることができるのである」という部分です。また『キリス ト教の教義について』から、「星をそのように観察することは、悪魔との 契約に行き着いてしまう」という一文を引き、それは避けなければならな い、自由意志について占星術に頼るのは重大な罪である、と締めくくって います。 このように、トマスは自由意志にまで踏み込んだ占星術を悪しきものとし て斥けているわけですが、では預言一般についてはどのような見解をもっ ているのでしょうか。アルベルトゥスとは何か顕著な違いがあるでしょう か。というわけで、続いて今度はトマスの議論を少しばかり追いかけてみ ることにしましょう。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その7) 前回までの自説部分に続き、ここからは最初に挙げられていた異論に対す る反駁が示されていきます。今回は第一の異論に対する反論を途中までで す(ちょっと細切れになりますが、ご了承ください)。第一の異論という のは、「質料には可能性が複数あるので、その可能性が質料の本質と完全 に一致することはない」という議論でした。ではさっそくオリヴィの反論 を見ていきましょう。 # # # Solutio Obiectorum Ad primum igitur in contrarium dicendum quod materia non habet plures potentias passivas essentialiter inter se differentes, sed in essentia sua includuntur rationes plurium potentiarum absque omni diversitate reali; alias sequeretur quod potentiae actu infinitae essent in ea, quoniam tot essent in ea potentiae actu ad quot formas et figuras est possibilis; est autem possibilis ad infinitas formas et figuras tam secundum speciem quam secundum numerum. Et posset ex hoc trahi bona ratio ad principalem responsionem. Quamvis autem tot modis dicatur unum correlativorum quot modis et reliquum, non tamen propter hoc oportet quod secundum quod diversificatur unum, diversificetur reliquum. / 異論の解決 第一の異論に対しては、よって反対に次のように言わなくてはならない。 質料は、互いに基本的に異なる複数の受動的な可能性をもたない。けれど もその本質には、現実的な違いをなんら伴わない複数の可能性の理が含ま れている。さもなくば、質料における可能性は現実的に無限ということに なってしまうだろう。なぜかというと、形相と形状に対して可能であるだ け、質料には可能性があることになるからである。確かに種においても数 においても、質料は無限の形相や形状に対して可能である。ここから、主 たる異論に対して答える良き理路がもたらされうる。すなわち、相関する ものの一方については、もう一方と同じだけ様々な言い方ができるが、だ からといって、一方が複数化するに伴って、もう一方も複数化しなければ ならないわけではないのである。 Alias quot possunt esse mihi similia realiter in se diversa, tot habeo in me relationes similitudinum realiter diversas; et cum infinita possent mihi assimilari, tunc habeo infinitas. Secundum etiam numerum filiorum eiusdem hominis plurificabuntur et patres et secundum numerum linearum eiusdem circuli plurificabuntur centra; quod est manifeste falsum et impossibile. Et tamen verum est quod secundum plurificationem linearum plurificantur rationes respectuum ipsius circuli, absque omni tamen diversitate reali; alias haberet intra se infinita actu diversa. / さもなくば、私に類似した実際には異なるものがありるうだけ、私には実 際に異なる類似性の関係があることになり、それら私に類似するものは無 限にありうる以上、私は無限の関係を有することになってしまう。とする と、同じ人の子の数だけ、父も複数いることになり、同じ円の直線(直 径)の数だけ、円の中心もあることになる。これは明らかに偽であり、あ りえない。しかしながら、円の直線があるだけ、その円の関係の理があり え、一方で実際の違いを伴わないことは真である。さもなくばその円に は、現実に無限の違いがあることになってしまう。 # # # 繰り返しになりますが、オリヴィの立場は「質料の本質とはその可能性で ある」というものでした。ここでは多と一の関係性が改めて取り上げられ ています。現実態となる複合体(形相と質料が結合したもの)の数だけ質 料に可能性があったのではなく、質料には複数化しうる理としての可能性 が含まれているのだ、というのがオリヴィの立場なのですね。複合体が体 現する複数性と、その前提をなす可能性との間は、一対一対応である必要 はないというわけです。さもないと、子の数だけ父がいるとか、円の直径 の数だけ中心があるとか、いろいろな論理矛盾に至ってしまう、と。先走 りになりますが、これに続く部分では、もとの異論で援用されていたア ヴェロエスの議論についてのコメントが語られていきます。このあたりは 次回にまとめてコメントしましょう。 さて、このところ数回にわたり、非物体的存在にも質料と形相の複合を認 める立場について、フランシスコ会派での系譜を大まかに振り返ってきま した。前回も少し触れましたが、ボナヴェントゥラは「神以外のすべては 質料と形相から成る」と考えています(『命題集注解』)。ところがその ほぼ同世代で、いわば兄弟子のラ・ロシェルのジャンは、非物体的存在に 質料は認められないという立場を取っています。こうなってくると、両者 の師にあたるヘイルズのアレクサンダー(1185頃〜1245)が気になり ます。 アレクサンダーについては、フランシスコ会で初めてパリ大学の教授と なった人物であるとともに、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を初 めてテキストとして使用し、まとまった注解書を記した人物としても知ら れています。余談ですが、今道友信『中世の哲学』(岩波書店、2010) では、アレクサンダーには独特な考え方があるとして、特に「神の遍在」 についての議論を紹介し(ここでは割愛しますが)、高い評価を与えてい ます。 非物体的存在に質料があるという考え方の取り込みも、一説にはアレクサ ンダーが嚆矢であると言われています。とはいえ、(大変ふがいないので すが)個人的にはまだこの点についての確認が取れていません。たとえば あるサイト(http://www.philosophos.com/ philosophical_connections/profile_043.html#alexsconn2a)の記述 によると、アレクサンダーの主著『神学大全』(Summa theologica) に、「人間の魂が霊的質料と霊的形相から成る」との記述があるらしいの ですが、一方で『命題集注解』(Glossa super sententia)の第二巻に は、そうした「構成的」な見解に矛盾する記述もあるのだそうで、それが アレクサンダー自身の見解だったかどうかは不確定だとされています。実 際、上の今道本にもありますが、アレクサンダーの『神学大全』は未完成 で、現存するものはむしろ後から編纂された書というのが定説になってい て、ボナヴェントゥラその他の学説が混入している可能性があるのだと か。 このあたり、なんとも悩ましい限りです。この「構成説」はもともと、 11世紀のユダヤ系の神学者イブン・ガビロール(アヴィチェブロン)の 『生命の泉』に由来するといいます(ジルソンなども指摘しています)。 この書はヨハネス・ヒスパヌスとグンディサリヌスによって12世紀にラ テン語訳が作られ、現存するのはその版のみとなっています。12世紀か ら13世紀にかけてかなり広く読まれた著作なのだそうですから、アレク サンダーやボナヴェントゥラも当然読んでいただろうと思われます。とは いえ、具体的に誰がそれをいち早く自説に取り込み、後の伝統の礎を作っ たのかは、アレクサンダーのあたりで薄闇の中に紛れていくような印象で す……。というわけで、このあたりはまだ探索の余地が多々ありそうで す。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月16日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------