〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.194 2011/05/14 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その10) トマスによる「運命」についての議論は、『自由討論第一二巻』Q3A2と いう短いテキストにあります。「あらゆるものは運命に支配されている か」という副題がついています。当時、自由討論は大学で年に二回行われ ていたといい、学生が自由なテーマで教師に議論を求めるというものでし た。このテキストは、トマスがパリ大学を去る直前(1272年)の復活祭 ごろに行われた自由討論のための、いわば準備草稿、ノートのようなもの だったのではないかとされています。学生が取ったノート (reportatio)かとも考えられていたようですが、現在ではそうではな いとされているのだとか(以上は仏訳本の序文解説から)。 内容ですが、トマスはこの書で運命をめぐるを諸論を分類していきます。 まず運命というものなどない、という立場としてキケロが挙げられていま す。一方、偶有的に生じる事象をなんらかの原因に結びつけようとする思 考は昔から存在するとして、これを三つに分類します。一つめは、そこに なんらかの一連の原因があるとする立場で、ストア派の立場だとされてい ます。夜外出した人が殺害された、その人が外出したのは喉が渇いたから だ、なぜ喉が渇いたかというと、塩辛いものを食べたからだ……この場 合、塩辛いものを食べたからその人は絶命した、というふうにストア派は 考える、と(笑)。これに対してアリストテレスの説が反論としてあげら れています。原因があるのは、おのずと生じた事象だけであり、このよう な塩辛いものと絶命との間には偶然があるだけだ、というわけです。 二つめは出来事の原因を天体にあるとする立場ですが、これは二重に間違 いだとされています。すでに占星術批判として述べられていたことの繰り 返しになりますが、物体が精神活動に影響するのはおかしいこと、自然の 事象の多くは偶然によるものであることが指摘されています。三つめはす べてを神の恩寵に帰するという立場です。恩寵とはすなわち、存在する事 物の秩序を司る理だということで、ボエティウスが挙げられています。さ らにホセア書第二章の「彼女は今後『わたしのバアル』ではなく『わたし の夫』と呼ぶであろう」という一節を引いて、これを受けたアウグスティ ヌスの「その観念はとどめ、言葉を改めよ」という忠告を紹介していま す。運命とはいわずに、神の恩寵と呼べ、というのですね。 もっと続きがありそうな文章ですが、ここでこの議論は唐突に終わってい ます。確かにメモを書き出したような印象ですね。三つめの、運命を神の 恩寵とみるという立場をトマスも踏襲するものと考えられますが、恩寵論 とは別に、運命についての別筋の議論として、必然と自由意志との関係と いう問題もあります。このあたりの話を少しばかり補足しておきたいと思 います。アウグスティヌスは基本的に、神があらかじめ知り得たことは必 然として生じるという立場を取っていたようです。とはいえ、人間などの 行為の主体の自由や責任を認めないというのでありませんでした。どうい うことかというと、アウグスティヌスは神の予見と原因の秩序とを切り離 して考えているため、予見を通じて必然とされる行為も、その行為の主体 に依存することは変わりなく、その主体は依然として自由や責任をもつと いうことなのですね。神の予見における必然と、原因における必然とは違 うというわけです。 こう解説しているのは、オッカムの『運命論』(羅仏対訳本、ヴラン社、 2007)の解説序文です。著者はシリル・ミションという研究者です。こ の序文はさらに、ボエティウスやトマスについても触れています。そちら も見ておくと、まずボエティウスもまた、神の予見と人間の自由意志の関 係について取り上げているのですが、行為が必然とされながらも主体には その自由と責任がある、というのは論理的にありえないとの立場を取り取 ります。ボエティウスはそれでもなお主体の自由と責任を認め、むしろ、 必然でないもの、つまり未来の偶発事について、神の予見はいかに成立す るのかを考えます。こうして、神は未来を現在であるかのように知るた め、不確定なものも確定的なこととして知る、というテーゼが掲げられま す。そこには、認識対象の本性と認識主体の本性とは別物で、認識を司る のはあくまで主体側の本性ある、という哲学的な議論が絡んできて、結果 的に、神が確定的に未来を知ることは必然でも、その認識の内容そのもの が必然であることを意味しないとされます。ボエティウスでは、神学と論 理学が入り交じった議論になっているようです。 これをさらに先に進めるのがトマスで、そこでははっきりと、上のような 「神は必然として未来を知る」から「未来は必然である」を導く謬論を批 判しているといいます。トマスの場合は論理学的な議論にいっそう重きが 置かれるのですね。条件節が必然であれば主節も必然であるという、「必 然の転位」といわれる論法を運命論者は用いるわけですが、トマスは上の ボエティウスの議論に準拠した、認識の様態論でもってこれに反論しま す。結果を導く先行命題(条件節など)が認識に属する事象である場合、 結果側の事象(主節で表されるもの)は、事象そのものの様態ではなく認 識の様態でもって理解されなくてはならない、というのです。 アウグスティヌス、ボエティウス、トマスは、こうして並べてみるとなに やら三段ロケットのようです(笑)。ミションのこの解説はジョン・マレ ンボンの研究を下敷きにしているようです。さらにドゥンス・スコトゥス や、恩寵論についてのまとめもあって、なかなか興味深いものになってい ますので、引き続き次回も内容を見ていきたいと思います。その後で、本 文にあたるオッカムの『運命論』そのものも見ていくことにしたいと思い ます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その10) 今回は少し長めですが、この問一七の末尾部分ですので一気に眺めてしま いましょう。 # # # Hoc tamen dico, quando forma seu dispositio habilitans est accidentalis, sicut est durities vel mollities et quando est ad actum accidentalem. sicut est divisio partium cerae vel coniuncto vel sicut est infirmari vel sanari et consimilia. Quando autem forma habilitans est substantialis, sicut est organizatio, tunc talis potentia et quantum ad id quod dicit materiale et quantum ad id quod dicit formale est in genere substantiae, et maxime quando forma ad quam habilitatur est substantialis, sicut est anima ad quam materia corporalis per formam organizationis ordinatur. / Sic autem sumendo potentiam, ut scilicet non solum significet ipsam essentiam potentiae passivae, sed etiam ipsum ordinem seu dispositionem formalem, verum est quod plurificantur potentiae propinquae et quod species entium generantur ex potentia propria et non ex qualibet; sic etiam aliquando potentiae contrariorum sunt contrariae; quae quidem sunt vera non ratione essentiae materialis quam potentia dicit, sed solum ratione illius formalis per quod potentia potest fieri propinqua et propria et disposita et per quam potest contrarie dispositioni esse contraria. しかしながら私がそう述べるのは、形相もしくは適性を与える配置が、た とえば硬さとか柔らかさがそうであるように偶有性に属している場合、ま た、たとえば蝋の部分的な分割や結合、罹患や回復、あるいはその他類似 の事例のように、偶有的な現実態に対して秩序づけられる場合である。一 方、適性を与える形相が、たとえば組織体のように実体に属している場 合、質料的・形相的のいずれの面においても、そのような可能性は実体の 類に属しているのである。身体的な質料が組織の形相でもって秩序づけら れるときの拠り所となる魂の場合のように、適性が与えられるときの拠り 所となる形相が、実体に属している場合はとくにそうである。/ 可能性をこのように理解するなら−−つまりそれが質料の受動的な可能性 の本質だけでなく、その形相的な秩序もしくは配置をも意味すると理解す るなら、近接する可能性が多様となること、また存在するものの種がおの れの可能性に由来し、任意の可能性から由来するのではないことは正し い。また、ときとして相反するものの可能性は相反するが、このことが正 しいのは、可能性が意味するところの質料の本質が理由なのではなく、た だその形相的な面のみが理由なのである。形相的な面によって可能性は近 接し、固有のものとなり、配置されるのであり、また相反する配置に対し て相反しうるのである。 Et per hoc patet ad quartum. Si autem ultra hoc aliquis obiciat quod adveniente forma ad quam prius materia erat in potentia destruitur ipsa potentia, essentia materiae remanente, quia modo non est in potentia ad formam, sed potius habet eam actu, quod fieri non posset, si potentia esset penitus eadem cum essentia materiae: dicendum quod essentia potentiae quam ante adventum formae habebat tota remanet post adventum formae, sed solum ordo et habitudo eius variatur, quia prius ordinabatur ad formam ut ad absentem, modo vero ut ad praesentem, unde et materia habet adhuc in se potentiam in qua ipsa forma est recepta et fundata. / Quando vero dicimus quod materia est potentia ad talem formam, intendimus significare ordinem distantiae quo se habet ad formam ut absentem. Qui ordo si dicit tale quid quod realiter tolli possit : constat quod est aliquid formale; si vero supra ordinem quem potentia materiae habet ad formam iam praesentem non dicit nisi solam negationem ipsius formae et praesentiae eius : tum per adventum formae huius potentiae sola negatio tollitur; et quidem praeter dispositiones contrarias quae ante adventum formae corrumpuntur reliquae dispositiones formales quae ad formae ipsius receptionem disponebant non videntur tolli per adventum formae, sed potius conservari et compleri. このことから、四つめの異論に対する反論も明らかである。だがこれにと どまらず、仮に誰かが次のように反論したとしよう。「質料が以前に可能 性をなしていたような形相が出来すると、質料の本質は残っても、その当 の可能性は失われる。なぜなら、もはや質料の本質はその形相に対する可 能性としてではなく、むしろ現実態として有することになるからだ。だが それは、それが質料の可能性が質料の本質とまったく同一である場合には ありえない」。これに対しては次のように言わなくはならない。形相が出 来する以前の質料にあった可能性の本質は、形相の出来後もそっくり維持 される。ただ、その秩序と態勢だけは変化する。なぜなら、質料は以前に は不在としての形相に対して秩序づけられていたが、今や存在する形相に 対して秩序づけられるからだ。よって質料はなおもみずからのうちに、そ の形相を受け入れて基礎づける可能性を持ち続けるのである。/ 質料がそのような形相に対する可能性であると私たちが言う場合、それは 不在としての形相に対して質料がもつ遠隔の秩序を意味することを意図し ている。そこでの秩序が、もし実際に削除できるもののことであるなら ば、それは明らかになにがしか形相的なものであることになる。もしそう でなく、すでに存在している形相に対して質料の可能性がもつ秩序を越え て、その形相、その(形相の)存在まで否定するという意味であるなら ば、形相の出来によってその可能性のうちから削除されるのは、否定だけ だということになる。その場合、形相が出来する以前から損なわれていた 相反する配置はともかくとして、その形相の受理を準備していた残りの形 相の配置は、その形相の出来によって削除されるのではなく、むしろさら に温存され、完成にいたると思われる。 # # # 少し切り方が悪かったようで、最初の部分は前回の末尾を受けての一節で す。可能性が新たに獲得されるというのは、可能性そのもの(本質)を得 るということではなくて、あらかじめ質料に内在する可能性の中に、新た な形相を受け取る秩序、態勢ができることだというオリヴィは言いいま す。その新たな形相が容認されるかどうかは、すでに質料に出来した形相 によって規定される、ということになるのですね。すでに出来した形相が (その複合体=実体の)本質をなしているとすると、新しい形相は偶有と して付加されるか、あるいは実体が別の実体と結合する形で追加されるか ということになります。 この、可能性自体と形相的態勢を分けるというのは独自の考え方なので しょうか。形相が出来すると、もとからある可能性がその形相による制限 を受けて態勢が変わるというわけなのですが、なにやらこれは、レイヤー の違い、深層と表層という区別のような感じもします。あるいはまた、前 にも言ったかもしれませんが、まだ書き込まれていないまっさらなハード ディスクを、まずはフォーマットしなければならない、フォーマットする とファイルシステムが固定されて、別のファイルシステムでは認識できな い、というのにどこか似ているかもしれません(笑)。形相がまだ不在で ある場合でも、形相に対する可能性と態勢があるというのは、質料がすで にして部分的に現勢化しているというオリヴィの基本的な立場とも合致す るように思えます。 これに関連して、前回も紹介した論集から、アントニーノ・ペタジーネ 「可能態としてのみある存在者としての質料:ブラバントのシゲルスの立 場と、ペトルス・ヨハネス・オリヴィの批判との間」という論考を取り上 げたてみたいと思います。これは基本的にブラバントのシゲルスの議論を オリヴィとの対比で浮かび上がらせようというものなのですが、その前提 のところで、アルベルトゥス・マグヌスとトマス・アクィナスを取り上げ て、ドミニコ会系の論者による議論の系譜を振り返っています。とくに 「形相の不在(欠如)」「形相の萌芽」をめぐる議論は、オリヴィの質料 観とも関係してくる印象です。まずは復習も兼ねて、同論考における両者 の論を(やや乱暴ですが)まとめておきましょう。 アルベルトゥスはアヴェロエスのアリストテレス解釈をもとに、質料には 実体をもたらす力がある(基体としての原理をなしている)と考えていま した。その力の源には「欠如(privatio)」があり、それが形相を求める 力となっているというわけです。この考え方はアリストテレスにおいて、 偶有的な生成の説明に用いられており、質料がすでにしてなんらかの実体 をなしていることが含意されているようにも読めるのですが、それでは困 るため、アルベルトゥスは、この欠如の考え方を「形相の萌芽 (inchoatio formae)」と結びつけます。つまり、質料にはすでに未完 成の(成りきっていない)形相があるというのです。 これに対してトマスは、質料はあくまで可能態としてなければいけないと 考えます。欠如と形相の萌芽を同一視するのは、受動的な可能性と能動的 な可能性とを混同するものだと考えるトマスは、能動的な可能性をもつも のは実体でなくてはならないとし、形相の萌芽は中途半端な実体でしかな く、整合性がないとして斥けます。質料自体についてトマスは、形相と直 接関係するもの(materia ex qua)と、すでに現実態となっている実体 の受容性の遠因の原理(materia in qua)を区別します。未確認なが ら、これは次元で指定された質料と、第一質料との区別に相当するのでは ないかと思えますね。で、前者は、実体的形相を受け入れる可能性をその 本質とする、というのです。 しかしそれでもなお、質料が純粋に可能態であるとすると、つまりは相対 的なもの(関係性?)でしかなくなり、どう個別に指定されるのかが釈然 としません。というわけで、このあたりの問題にシゲルスも挑むことにな り、さらにはオリヴィの批判などが展開していくことにもなるわけです が、長くなりそうなので次回に持ち越すことにいたします。また、今回で 問一七はひととおり読了しましたので、次回からは引き続き問一八を読ん でいきたいと思います。またお付き合いのほど、お願いいたします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月28日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------