〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.197 2011/06/25 ------文献探索シリーズ------------------------ 預言者と偽預言者(その13) オッカムの議論において多少とも驚かされるのは、偶然的な未来をめぐる 神の知について、否定的・限定的に扱っている点です。オッカムは「ペト ロは救済される」「ペトロは救済されない」といった矛盾する二つの命題 が可能性としてあった場合に、そのどちらが真となるのかに神は与り知ら ない、としているのですね。どちらが真になるのかは被造物であるペトロ の自由意志による選択、つまり偶然に委ねられているためです。論拠とし て、アリストテレスが引用されたりします。今回はこのあたりの話を中心 に、『予定説論』の残りをざっとめぐっておきましょう。 『予定説論』の問一の考察の後、オッカムは異論の解決のためにとの名目 で、九つの仮定(suppositio)を挙げていきます。それらは問一で展開 した議論をいわば組み替えてまとめたものなのですが、大きなポイントだ けを取り出しておくと、この前提のうちとくに重要と思われるのは五およ び六です。五は「(アリストテレスによると)形の上では現在や過去で も、内実として未来の偶然にかかわる命題は(あらかじめ)真とはなら ず、真でないものは神によって知られないのだから、その命題は神によっ て(あらかじめ)知られない」、六は「「矛盾する命題のどちらが真であ るかを神は知る」という命題が必然ではなく偶然であるような形で、神は 矛盾するどちらが真であるかを知る」というものです。 五は一見すると神の全能性を否定しているように見えますが、それを補正 するのが六という位置づけなのでしょう。この六については、スコトゥス の考えが批判されています。スコトゥスの議論(オッカムを通じて示され ている)では、神は任意の命題を、真偽の判断については中立的に理解す るのだけれど、と同時に神の意志の力が働くことによって、そのいずれか が真として選択されるのだとしています。まさに主意主義的な解釈です が、オッカムはこれに対し、神の意志による決定があっても必ずしも被造 物の意志がそれに従うことを意味しないのは、スコトゥスのその図式を もってしても同じだと批判しています。 オッカムは、そもそも偶然的に決定される事象はあらかじめ決定すること はできず、仮に決定しても被造物の意志によって逆の決定が可能であるよ うな仕方で決定されるのだとし、そのようなものである偶然的未来につい ては、神といえど確証をもって知ることはできないとしています。繰り返 しになりますが、被造物の自由意志に依存する偶然を神はあらかじめ決定 論的に知るのではなく、ただどちらが真であるかを偶然に委ねるものとし て認識しているのだというわけです。 この前提はその後の本論についても活用されていきます。続く問二は「未 来の偶然についての神の予見について」ですが、そこでも、神は未来の偶 然を限定的にしか知りえないという議論が形を変えて繰り返されます。煩 雑になるのでここでは省略しますが、被造物の知と被造物ではないものの 知を(前者は後者を知りえないとは言いつつも)、論理学的な整合性にも とづいて同質なものと見なすというのが、オッカムの特徴的なスタンスだ と言えそうです。 問三は「被造物の意志もしくは被造物以外の意志が外部に何かを生じさせ る場合、偶然をどう救い出しうるか」というものです。これは、意志が何 かを生じさせる場合、帰結するものと同時に、あるいは続く瞬間に(継時 的に)、対立する反帰結をも生じさせうるか(命題が真であることが決定 されるときに、矛盾する反命題のほうを導けるか)という設問だとされま す。スコトゥスなどは、被造物の意志について、それがある帰結を生じさ せる場合、反帰結も可能性として残り、時間aにおいては「望む」が時間 bにおいては「拒否する(望まない)」ことがありうる、としています (帰結と反帰結が時間的に継起しえないような場合でも、意志が帰結の現 実化に時間的に先行している限りにおいて、どれほど短い瞬間であろうと その先行分の時間、拒否できる構造は残るとされています)。これに対し てオッカムは、ある時点aにいおいて命題「意志が望む」が真となれば、 その時点での反命題「意志が望まない」はありえなくなるとしています。 もちろんひるがえって、時点a以前の別の時点において「意志が望まな い」が真になることならありえるわけですが……。 問四は救済予定とその反故には原因があるか、問五は「ペトロは救済を予 定される」「ペトロは救済されない」という命題は継時的に真となりうる か、というものです。問四については、原因を時系列的に先行するものと いう意味にとるなら、もちろんそれは必要ということになります。問五で は、「ペトロは救済を予定される」が真から偽へと変化するなどというこ とは、ペトロそのものが別の主体に転じでもしない限りありえないとして います。絶対的に未来に関する命題(つまり現在や過去に関わらない命 題)はいずれも、ひとたび真であるとされたらそれは常に真だったことに 固定されます。相互に矛盾する一方の命題が真であると確定されたら、も う一方の反命題は常に偽であったことになり、絶対的に未来に関係する場 合、反命題が継時的に真になることはありえません。……というわけで、 若干わかりにくい議論ではありますが、このあたりは前回見た問一の議論 の反復(というか変奏)にもなっています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ペトルス・ヨハネス・オリヴィの質料論を読む(その13) 今回からは問一九です。今回も例によって段落の途中で切ってしまってい るので、全体の話が見えないままですが、どうかご了承ください。 # # # QUAESTIO XIX Quarto quaeritur an Deus possit facere esse materiam sine omni forma Quibusdam enim videtur quod sic, pro eo quod supponunt quod esse formale sit aliud ab essentia formae et ita quod sit quidam effectus ab ipsa manans in materiam, cum autem Deus possit facere effectus causarum secundarum sine ipsis - unde posset illuminare aerem absque luce solis vel cuiuscunque alterius luminosi - : poterit ipsum esse formale facere in materia sine ipsa forma quae post Deum erat eius causa efficiens. Volunt ergo isti quod Deus possit eam facere esse sine forma, sed non sine esse formali; quia si sine esse formali eam faceret esse, tunc simul faceret eam esse et non esse. Quibusdam autem aliis videtur quod ponere materiam in esse absque forma implicet in se contradictionem, et sic quod Deus hoc non possit, quia hoc posse non esset posse. Hoc autem probant tam in materia corporali quam in materia spirituali quam in materia simpliciter et generaliter accepta. In materia quidem corporali hoc probant : quia impossibile est esse aut cogitare molem cerae aut cuiuscunque corporalis materiae, nisi intelligantur aliquae partes eius sibi invicem unitae; si enim nulla est alteri unita, tunc tota moles est divisa in partes infinitas et in partes indivisibiles; quod est impossibile; sed unio partium eius dicit aliquid formale et tale quod ab istis vel illis partibus potest tolli; quando enim haec dividitur ab illa, tunc unio qua sibi invicem erant unitae ab eis tollitur. - Nec potest dici quod dicat solum esse formale et non aliquam essentiam formalem, quia hanc unionem concomitatur certus modus positionis et situs et certus modus continuationis et extensionis et certus modus determinatae figurae. // 問一九 四つめとして、神は質料がいっさいの形相をもたないようにできるかにつ いて問う。 ある人々はできると考えている。なぜなら彼らは、形相的存在は形相の本 質とは別ものであるとし、結果的に形相的存在とは、質料のもとに形相が とどまることによるなんらかの結果であると考えているからだ。ときに神 は第二原因の結果をその原因なしに生じさせることができる。(そのため 太陽の光やその他のなんらかの光なしに、大気を照らすことができる。) よって神は、神の後の作用因をなしていた形相なしに、質料に形相的存在 をもたらすことができることになる。こうして彼らは、神は質料を形相な しにできる、ただし形相的な存在なしにではない、と考えるのである。な ぜなら、質料を形相的存在なしにしうるとすると、質料はあると同時にな いということになってしまうからだ。 ある人々は、形相なしに質料を存在せしめることには矛盾が含まれてお り、したがって神にはそれはできない、なぜならそれができるということ はありえないからだ、と考えている。その上で彼らは、物体的質料につい ても、霊的質料についても、端的かつ一般的な意味での質料についても、 このことを論証している 物体的質料においては、このことは次のように論証される。一塊の蝋も任 意の物体的質料も、任意の部分が相互に結びついていることが理解されな くては、存在することも認識されることもかなわない。もし他のものとの 結びつきがいっさいないのであれば、その塊の全体は無限の部分に、また 分割不可能な部分に分割されることになってしまうが、それは不可能であ る。しかしそうした部分の結びつきはなんらかの形相的なものを意味し、 そのようなものとしてここ・そこといった部分から取り除くことができ る。つまり、「これ」を「あれ」から分けるとき、両者の間にあった結び つきはそれらから取り除かれるのである。ーーその結びつきが単に形相的 存在であって形相の本質ではないとは言えない。なぜなら、その結びつき には、なんらかの位置と場の様態のほか、なんらかの連続と拡張の様態、 さらになんらかの形象的な限定の様態が付随するからである。(*この段 落続く) # # # 羅仏対訳本の注によれば、最初に出てくる「ある人々」というのは、オリ ヴィ自身も属するフランシスコ会の面々です。確かに、形相の本質とは別 に形相的なものが質料にあるというのは、オリヴィが折に触れて述べてい ることでもあります。質料がそれ自体としての「本質」をもっているとオ リヴィは言っていたわけですが、それはまさしく「形相的なもの(形相的 存在)」だったと言えそうです。 次に出てくるある人々というのは、どうやらドミニコ会系の論者、とくに トマス・アクィナスのことを指すようです。そちらは形相なしの質料とい うものはそもそもありえないとしているわけですね。本文では、ここから 相手側の議論を詳述していく段に入ります。例によって誌面の都合で切り 方がよくなく、今回の本文は相手側の議論を紹介しているところの途中ま でになってしまいましたが、相手側の議論の紹介の後には、当然ながらオ リヴィ側の反論が続いていくようです。 そのあたりはまた次回以降に見ていくことにして、ここではまた例によっ てオリヴィ思想の拡がりを確認すべく、脱線的なまとめを引き続き行って いきたいと思います。今回からオリヴィの知覚・認識論を扱った論文を見 ていくことにします。取り上げるのは、ユハナ・トロイヴァレン『動物の 意識:感覚的魂の認識機能についてのオリヴィ』(Juhana Troivanen, "Animal consciousness: Peter Olivi on cognitive functions of the sensitive soul", 2009, ユヴァスキュラ大学)です。まずはその序論部分 を見ておきましょう。これがまたなかなか凝った構成になっています。 動物裁判に見られるように、中世の動物観は現在のものとはだいぶ違って いて、動物と人間とが一続きであるかのように扱われたりもするわけです が、一方で人間の特異性といったものが強調されたりもし(とくにアリス トテレス思想受容後の13世紀)、人間と動物の線引きはかなり独特のも のだったとされます。そのあたりを理解する上でとくに注目されるのが、 中世の哲学・神学思想がそれらをどう扱っていたかという問題で、この論 文の著者はその一環としてオリヴィの知覚・認識論に注目してみたという わけなのですね。 オリヴィに限らず、当時の知覚・認識論では、そうした感覚機能は身体の 器官に分散されてはいても、それは基本的に属する魂の機能とされていた のでした。オリヴィもそれを踏襲してはいますが、著者によるとオリヴィ が他と異なるのは、選択的に注意を向けるといった場合についての考察か ら、魂にはそうした注意を司る一種の中心部があり、それが最高次の認識 機能をなしている、と考えている点です。 この認識機能は動物にもあるとされ、人間と動物を一続きとして捕らえる 考え方のほうがここでは前面に出てきているようです。この点も興味深い ところですが、さらにこの中心部を想定したことによって、オリヴィの考 え方はデカルトなどの心理についての考え方、あるいは少なくとも初期近 代の見識にきわめて近づいている、と著者は見ています。それはまた、ス トア派のいう「ヘゲモニコン」の考え方にも似ているとされます。ヘゲモ ニコンは魂の「主導的部分」とされる概念で、そこから「タコが触手を伸 ばすように」、各器官を統制するのだとされているものです。フランシス コ会においてはストア派、とりわけセネカやキケロの思想などが好意的に 迎えられていたという背景もあるようで、このあたりの類似性はとても興 味深い問題を投げかけますが、著者はさしあたりそちらには向かってはい ません。 論文はこのあと、本論として具体的なオリヴィの知覚論に入っていきます が、それはまた次回に見ていくことにします。  *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------