〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.205 2011/11/12 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その6) 『薬草論(Tractatus de herbis)』の解説序文では、この書のもとに なったうち最も重要なものとして、『Circa instans』という書の話が大 きく取り上げられています。この題名は、最初の一文「Circa instans negocium in simplicibus medicinis nostrum versatur propositum (ここでは、私たちの簡易医療の実践について論じよう)」の冒頭部分を 取って通称としたものです。ここでは便宜的に『簡易医療術』とでもして おきましょう。 これが重要とされるのは、『薬草論』がこの書に大きく依存し、その体裁 や項目をそっくり取り込んでいるからです。『薬草論』の解説序文によれ ば、『簡易医療術』の特徴は二つあり、一つはそれまでのディオスコリデ スの伝統とは違って、外見的特徴などの記述を省略しひたすら治療関連の 記述に特化していること、もう一つは他ではほとんど見られないアルファ ベット順に項目が並べられていること、とされています。同書は従来、マ テウス・プラテアリウス(12世紀のサレルノの医者)の著書ではないか とされていましたが、近年では異論もあるようで、偽プラテアリウス著と なっています。 『簡易医学術』の成立は12世紀後半ですが、13世紀ごろ(から15世紀に かけて)大いにもてはやされ、190もの写本が現存しているほか、14世 紀から15世紀ごろには各国語への翻訳も盛んになされていたようです。 本文は伝統的な薬草文献に依っている部分が多く、「〜と考えられている (probatum est)」といった句で、伝聞的に示されている箇所がことの ほか多いようです。古来の文献を重視するのは当時の常だったわけです が、これまた解説序文の著者によれば、理論面ではガレノスの理論を踏襲 しつつ、実践面では多少とも実地の成果も盛り込んでいるようで、その組 み合わせに特徴があるとされています。文体は断定的で、実地ですぐに役 立つ手引き書という感じなのだとか。 同書は中世盛期以降になると徐々に参照頻度が下がっていくようですが、 それでもその影響は、別様の手引き書の編纂という形で受け継がれ、いく つかの派生文献をも生んでいくようです。ブリティッシュ・ライブラリー のエガートン写本『薬草学』もその一つなのですね。『薬草論』の成立は 13世紀末から14世紀にかけてとされています。こちらもまた当時の文献 的・学術的伝統の交差路をなしていたといいます。そこに流れ込んでいる 学術的伝統の一端として、偽アプレイウスの『草木論(Herbarius)』、 『花咲く荒れ地(Macer floridus)』、『アルファベット版ディオスコ リデス』などが挙げられています。 解説序文では写本そのものの体裁や内容についても事細かに触れています が、ここで重要な点は、同書が『簡易医療術』に大きく依拠しつつも、一 方では『ニコラスの処方(Antidotarium Nicolai)』のほか、当時の医 学関連の小テキストを取り込んで集成していることです。それらはいずれ もサレルノの伝統を酌む文献で、編纂者は薬草学の文献に詳しい人物だっ たことは間違いないようです。 とはいえ、解説序文によれば、編纂者はおそらく大学で教育を受けた者で はなく、そこに記された知識も口語混じりだったりして、どちらかといえ ば「民衆」寄りの記述になっているといいます。エガートン写本では、バ ルトロメウスという名が主要な本文の巻末と奥書部分に記されているとい いますが、この人物についてもあまりよく分かっておらず、著者(編纂 者)の特定には至っていないのだとか。また、『簡易医療術』など元の ソースの記述がそのまま入れられていることが多いらしいのですが、項目 によっては複数のソースが並記されていたり、統合されていたりもするよ うで、その著者が同書を、旧来のものとはまた別の新たな手引き書として 思い描いていたことも窺えるといいます。文献学的な考証はとても興味深 いものがありますね。 というわけで、少しこの『簡易医療術』と『薬草論』の具体的な中身を、 さわりだけでも見てみたいと思います。それはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その4) 今回もまた、オルディナティオ(命題集注解)の第三区分、問六の続きで す。 # # # Tertio dico quod notitia singularis sensibilis est simpliciter prima pro statu isto, ita quod illud idem singulare quod primo sentitur a sensu idem et sub eadem ratione primo intelligitur intuitive ab intellectu, nisi sit aliquod impedimentum, quia de ratione potentiarum ordinatarum est quod quidquid - et sub eadem ratione - potest potentia inferior potest et superior. Patet quod idem sub eadem ratione est sensatum sensu particulari et imaginatum sensu interiori. Similiter, idem sub eadem ratione est cognitum a sensu et appetitum a potentia appetitiva, ita idem sub eadem ratione est cognitum ab intellectu et volitum a voluntate, igitur illud idem quod est primo sensatum a sensu erit intellectum ab intellectu, et sub eadem ratione. 三つめについて述べる。感覚的な個物の認識は、端的に現状における第一 の認識であり、したがって感覚によって最初に感受される同じ個物は、な んらかの支障がない限り、同一のものとして同じ観点から、知性によって 最初に直観的に知解されるのである。というのも、下位の可能性がなしう る−−同じ観点から−−ことを上位の可能性もなしうることは、秩序立った 可能性の理だからである。個々の感覚によって感受されたものと内部感覚 において想像されたものが、同じ観点から同一であることは明らかだ。同 じように、感覚によって認識されるものと欲望の可能性によって欲される ものとは同じ観点から同一であり、また、知性により認識されるものと意 志によって望まれるものも同じ観点から同一である。したがって、感覚に よって最初に感受されるものと、知性によって知解されるものとは、同一 であり、しかも同じ観点にあることになる。 Dicitur quod virtus superior potest in illud in quod potest virtus inferior, sed eminentiori modo, quia illud quod cognoscit sensus materialiter et concrete - quod est cognoscere singulare directe - hoc cognoscit intellectus immaterialiter et in abstracto, quod est cognoscere universale. 上位の力は、下位の力がなしうることをなしうるが、それは卓越した仕方 でなしうると言われる。なぜなら、感覚が物質的・具体的に認識するもの −−それはつまり、個物を直接的に認識するということだ−−を、知性は非 物質的に、かつ抽象的に認識するからである。それは普遍として認識する ということである。 Contra: quando cognitum a potentia superiori est simpliciter imperfectius cognito a potentia inferiori, tunc superior potentia non cogniscit modo eminentiori illud quod cognoscitur a potentia inferiori; sed universale est simpliciter imperfectius et posterius ipso singulari; igitur intellectu non cognoscit obiectum sensus modo emnentiori. 反論:上位の可能性による認識は、下位の可能性による認識よりも端的に いっそう不完全である。よって上位の可能性は、下位の可能性によって認 識されるものを卓越した仕方で認識するのではない。だが普遍は個物より も端的にいっそう不完全であり、個物の後に来る。したがって、知性は卓 越した仕方で感覚対象を認識するのではない。 Praeterea, sensus non cognoscit tantum album quod est concretum, sed albidinem, quia secundum Philosophum, II De Anima, color est per se visibilis; igitur si cognoscere aliquid in abstracto est cognoscere universale, sensus cognosceret universale. 加えて、感覚は具体的な白いものばかりか白さをも認識する。なぜなら、 アリストテレスの『霊魂論』第二巻によれば、色とはそれ自体で目に見え るものだからである。したがって、何かを捨象して認識することが普遍の 認識であるのなら、感覚も普遍を認識することになるだろう。 # # # 個物・個体の認識に重きをおくオッカムの立場を反映した箇所ですね。 「普遍の認識が個物の認識に勝っているわけではない」という議論は13 世紀ごろの一般的な考え方からするとまさに価値転覆的であるように思わ れます。よく知られているとおり、オッカムの場合には個物・個物の認識 は普遍・抽象の認識に先行するとされています。『ケンブリッジ必携: オッカム』所収(第8章)のエレノア・スタンプの論考、「認識のメカニ ズム:媒介的スペキエスをめぐるオッカム」によれば、オッカムの主張で は、そもそも抽象の認識は個物の認識の中に含まれているとされているの ですね。上の箇所にもそのことを思わせるくだりがあります。感覚が認識 する同じものを、知性もまた(後から)認識するのだ、と。 この『ケンブリッジ必携:オッカム』ですが、これはいわば基本書で、本 来ならまず第一に参照してしかるべきものでした(苦笑)。上のスタンプ の論考では、トマスに代表されるスペキエス論との対比でオッカムの認識 論を検証するというオーソドックスな方法を用いています。トマスのスペ キエス論で難点となる事項を三つほど描き出し、それにオッカムがどう対 応しているかを見て、後者の認識論の概要を浮かび上がらせるというわけ です。普遍の認識が個物の認識に含まれているという論は、トマスの難点 のうち最初の二つ、つまりいかに知性は心象(スペキエス)から普遍を取 り出すか、そして知性がいかに心象を成立させるかという問題設定が、そ もそも不要であることを意味します。個物の認識の中に普遍が含まれてい るのだから、個物を認識しさえすればよく、普遍を取り出すプロセスなど はない、というわけです。また、オッカムにおいては知性はむしろ受動的 なものと考えられており、外部の対象の像がひたすら刻まれていくだけ で、そもそも心象を成立させるメカニズムなど考える必要がないというの です。認識を司るのはむしろ意志のほうだとされるのですね。 三つめの難点は、外部の対象の心像が「正しい」ことをどう担保するのか という問題ですが、これはある意味、オッカムのスペキエス批判の要をな している感じです。オッカムは、表象が正しいかどうか判断するには、そ の表象が表している当の対象物に、そもそも別様にアクセスできなければ いけないと考えます。そうでなければ、比較して判断を下すことができな いからです。ですが別様のアクセスができるならば、そもそもスペキエス (表象)を介すること自体が冗長だということになってしまいます。また オッカムは、スペキエスを通じて形相を受け取るという議論も否定しま す。もしスペキエスとその対象物とが同じ形相、同じ性質をもっているの だとすれば(スペキエス論者側から想定される反論です)、たとえば茶色 の物体を認識したら、魂も茶色にならなければおかしいことになる、と オッカムは言います。実際にはそのようなことはないわけで、とすると形 相を受け取るというのは誤りということになり、スペキエスが対象を正し く表すという根拠が希薄になってしまいます。かくしてオッカムは、認識 の正しさをもっと単純な理論で説こうとします。スペキエスを排し、認識 者と認識対象だけによって認識を理解するほうがいっそう合理的なのでは ないか、というわけです。 そこで出てくるのが、例の直観的認識と抽象的認識の区別です。別の文献 にもあったように、その違いは「対象の存在の有無を判断できる場合が直 観的認識、そうでない場合が抽象的認識」とされるのですが、どうもそこ にはもう一つ、認識はあまりに直接的で、メカニズムとかプロセスとか いったものはもとより介在しえないという考え方(これは照明説以来の伝 統ですね)が織り込まれているように思われます。ただ、オッカムの場合 には、このあたりの問題は多少とも複雑化しているといいます。たとえば 神は、その万能ゆえに、対象が存在していないときに、あたかもそれが存 在しているかのような直観的認識をもたらすことができるとされます。そ の場合の直観的認識は、自然ではないものとして(神の介在がなければあ りえないものとして)対象の存在を判断しうる、とオッカムは考えている ようです。「正しい」判断は直観的認識そのものに内在し、それは神に よって担保されるのだというわけですね。 この部分に、ちょっと興味深いオッカムの神の「存在証明」(?)が紹介 されています。人はかように現前しないものについても直観的認識をもつ ことができる。その場合、その直観的認識は神によってもたらされる。し かるに、仮に神が存在しないとすると、存在しない神によってそのような 直観認識をもたらされることになり、矛盾する……。つまり、現前しない ものについて直観的認識をもてることと、神が存在しないこととは、両立 できないというわけです。で、当然ながら、後者が偽であるということに なるというのですね。前回までの話もそうですが、やはり直接認識(直 知)の問題はオッカムの神学論に深く結びついていることがわかります。 直観的認識についてはもう少しコメントしておくべきことがありますが、 長くなりますのでそれは次回に持ち越すことにしましょう。次回もテキス トの続きと、この論考の続きを合わせて眺めていくことにします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月26日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------