〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.206 2011/11/26 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その7) アルファベット順の項目編集が特徴的とされる『薬草論』。なるほど、確 かに項目はAから始まってはいますが、現代の辞典などとは異なり、最初 の文字こそアルファベット順でも、二番目の文字はそういう順番になって いません。最初のAの項目は「De aloen(アロエ)」から始まり。次が 「De aloen ligno(アロエの木)」、次が「De auro(金)」「De argento vivo(水銀)」「De asa fetida(アギ:オオウイキョウの樹 脂)」「De agno casto(イタリア・ニンジンボク)」「De alumine (明礬)」「……と続きます。鉱物が入っているのは、これもディオスコ リデス以来の伝統で、治療に使える素材を集成しているからでしょう。 『薬草論』のタイトルは、単に薬草の占める比重が高いからにすぎませ ん。 でも、それにしても気になるのが、Aの項目内の順番はどのように決めら れているのかという点ですね。一つの考え方としては、順番に特に意味は ないの見解もありえるかもしれません。というのも、Aの項目が始まる冒 頭に、Aから始まる項目の一覧が、記述の順番通りに掲載されているから です。B以下の文字についても同じような一覧が添えられているので、と りあえずこれを索引的に活用すれば項目を引くことはできてしまいます。 項目を引くという実利目的を果たすなら順番は何でもよかったのではない か、というわけですが、うーん、これはどうでしょうか……。というの も、各項目の中身を見ると、一定のパターンで記述がなされている印象を 受けるので、とするならば、項目の並べ方にもなんらかのパターンがあっ たのではないか、と思われるからです。 各項目の中身のパターンを確認してみましょう。たとえば最初のアロエに ついての記述は次のような構成になっています。まず、植物の基本特性と して、それが温・乾であることが記されています(アリストテレス以来 の、温・冷・乾・湿の四つの組み合わせを踏襲しています)。次いで名称 の由来です。液の多い葉からその名が付いたとしていますが、「私たちは それをzimbasと呼ぶ」とも記されています。生息地はインド、ペルシ ア、ギリシア、そしてアプリア(?)にもある、とされています。次いで 具体的な特徴です。アロエには三種類あるとされる俗説に対して、それら は種類が違うのではなく、葡萄の違いのように出来の良さ・悪さで異なる のだと記しています。この後、その異なる「三種」についてそれぞれの特 徴の詳細が続きます(これは長いので省略します)。 続いて効能です。アロエには、炎症を鎮めメランコリアを取り除く作用が あるとされます。胃液などの過剰分泌(胃酸過多?)や頭痛を抑える効果 もあるといい、内臓疾患、生理、疥癬、脱色、出血、その他数多くの効能 が並んでいます。さらに具体的な処方として、傷や脱毛には卵黄と油を混 ぜた硬膏剤として貼ったり、胃酸過多や消化不良にはアロエを二ドラク マ、乳香樹の樹液一ドラクマをすりつぶし、白ワインに入れて沸騰させ、 冷やして飲ませたりと、症状に応じて様々な活用法が記されていきます。 比較の意味で、この間まで取り上げていたマンドラゴラの記述も見ておき ましょう。マンドラゴラについては、三〇〇番目の項目として収録されて います。まず、マンドラゴラは特性として冷・乾であることが示されてい ます。次いで具体的な特徴です。雄と雌の植物があるとされ、雌の葉のほ うがざらついて医術に適していると言われるが、どちらを用いても差し支 えないと記されています。雌の植物は女性の姿、雄のほうは男性の姿を取 るという話もあるがそれは誤りだとし(笑)、「自然が植物に人間の形 (形相)を与えることはない」と断言しています。 次いで効能と処方です。治療に用いるのは、根の外皮、果実、葉で、まず 根は採取後四年間使えるといい、収縮・冷却の効能があり、催眠効果も あって、場合により死にいたらしめることもあるとしています。催眠のた めには、外皮の粉末にミルクと卵白を混ぜて熱し、それを額やこめかみに 当てる、とあります。熱をもった痛みには、マンドラゴラの葉を粉にした ものを張ればよいとされます。また、果実を粉にして油に長時間浸し、 少々煎じて濾過したものをマンドラゴラ油と称し、額やこめかみに塗るこ とで催眠・鎮痛作用がもたらされるとも記されています。腫瘍などにも、 この油を塗布することで症状が緩和するとされ、さらに果実か葉を湿布に 用いたり、樹液をほかの冷性の植物の樹液とともに用いることもあるとい います。 また、下痢や怒りの衝動に対しても、それぞれ腹部や背中にそのオイルを 塗るとあります。そして最後にマンドラゴラの別称(アンティミノン、ア ンドロポモレオス、アポッラ、種子はアッバロロス)が紹介されて項目は 終了しています。ディオスコリデスなどに比べると、総じて簡潔な、要点 のみをまとめた記述という感じですが、治療に役立つ情報に特化した内容 になっているとも言えそうです。二つの項目を比較してみただけでも、各 項目の記載事項とその順番がほぼ同じで、一つのパターンに沿ってまとめ らている印象を受けますね。そんなわけで、ここからの推測ですが、各ア ルファベット内の項目の並べ方にも、なんらかの法則性がありそうな気配 はますます濃厚になってきます。このあたりの話、もう少し考えてみるこ とにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その5) 『オルディナティオ』第三部、問六の残り部分です。ではさっそく見てい きましょう。 # # # Praeterea, cognoscere hanc albedinem quae significatur nomine abstracto non est plus cognoscere universale quam cognoscere hoc album quod significatur nomine concreto. Et ideo ille est absurdus et fatuus modus loquendi, dicere quod cognoscere aliquid concrete est cognoscere singulare, et cognoscere aliquid in abstracto est cognoscere universale, quia concretum et abstractum sunt condiciones et proprietates vocum vel signorum, vel forte conceptuum, quorum cognitio non pertinet ad multos sensus particulares, nisi valde per accidens, et non ad omnes, et tamen omnes habent cognoscere singularia. Et ideo iste est non intelligibilis modus loquendi "cognoscere aliquid ut significatur nomine concreto et cognoscere idem ut significatur nomine abstracto", nisi intelligendo quod contingit aliquid significari utroque nomine, et hoc praecise pertinet ad intellectum. さらに、抽象名で指し示されるそうした白色の認識は、具体名で指し示さ れるそうした白いものの認識以上に普遍の認識だというわけではない。ゆ えに、何かを具体的に認識するとは個的な認識で、抽象的に認識するとは 普遍的な認識であると述べることは、誤りであり愚かしい。というのも、 具体的なもの・抽象的なものは音声もしくは記号の、あるいはおそらく概 念の、条件および属性であるからだ。それらの認識は、ごく偶発的な場合 を除き、複数の個別の感覚に帰するのではないし、すべての感覚に帰する のでもない。だが一方で、あらゆる者が個別の認識を有している。した がって「具体名で指し示されるように何かを認識し、その同じものを抽象 名で指し示されるように理解する」という言い方は、両方の名で指し示さ れるような何かが偶然生じたと理解する場合を除き、理解できるものでは ない。そしてその場合というのは、まさしく知性に帰するのである。 Praeterea, probatum est prius quod non repugnat singulari intelligi immaterialiter, quia non est impossibile quod cognitio ipsius singularis sit immaterialis. Et hoc confirmatur, quia sicut materia individualis repugnat intellectui ita materia universalis, quae est communis ad materias individuales istorum generabilium et corruptibilium, repugnat intellectui; igitur repugnat intellectui cognoscere materialiter quocumque istorum modorum. Igitur qua ratione singulare materiale non potest primo cognosci ab intellectu, nec universale materiale, quod est commune ad materialia singularia , poterit primo cognosci ab intellectu. さらに、先に論証したように、個別のものが非物質的に知解されることは 斥けられない。なぜなら、個物の認識そのものが非物質的であることは不 可能ではないからだ。このことは次のように確証される。個々の物質が知 性を斥けるように、普遍的な「物質」、つまり生成・消滅が可能な個々の 物質に共通するものも知性を斥ける。したがって、いかなる仕方であれ、 知性が物質的に認識することを斥ける。よって、物資的な個物が知性に よって第一に認識されないのと同じ理由から、物質的な個物に共通する物 質的な普遍も、知性によって第一には認識されない。 Responsio ad argumentum principale Ad argumentum principale patet quod intellectus est universalium sed non praecise. 中心的議論への回答 中心的議論については、知性は普遍に属するが、厳密にそれのみが属すわ けではないことは明らかである。 # # # 具体と抽象についてオッカムは、それが記号の属性にすぎず、具体と抽象 とが別個に認識されるのではないとしています。それは単に名指すものが 違うにすぎないというのですね。「白いもの」と「白さ」は、どちらも現 前の対象物に見いだせます。そしてそのいずれもが、感覚によって受け取 られ、知性によって「白いもの」「白さ」として分割されて理解される、 ということなのでしょう。つまりオッカムは、個と普遍という階層化され て描かれるのが普通だった概念を、同一水準のものとして読み替えていく のです。それによって、両者をつなぐプロセス的な考え方はまったく不要 になります。 前回見たように、オッカムが考える認識にはプロセスなどなく、認識者と 認識対象が接することで端的に直観的認識の作用が生じるとされているの でした。その場合、知性が第一に把握するのは必ずしも普遍(抽象)では なく、どちらかといえばむしろ個物のほうであって、それが直観的認識 (対象が存在すると判断しうる場合の認識)に結びついていたのでした。 一方の抽象的認識(対象が存在するとは判断できない場合の認識)はむし ろ普遍の認識に結びつくことが多いとされますが、必ずしもそれらが一対 一で対応しているわけではありません。ですから上のテキストでは、「具 体的認識イコール個物」「抽象的認識イコール普遍」と即決するのは誤り だとしているのでしょう。抽象的認識として個物を認識するようなケース も十分に考えられます。たとえば、記憶を想起するような場合などが考え られます。 では、スペキエスなしで記憶はどう扱われるのでしょうか。前回のスタン プの論考がこの問題を取り上げています。それによると、スペキエスを認 めないオッカムは、記憶というのは端的にハビトゥス(習慣・習性)であ ると考えています。知性によってある対象が直感的に認識されると、知性 の中にその同じ種類の行為への傾向が定着する、というのです。「スペキ エスで保存されるものはすべてハビトゥスで保存されることも可能であ る。したがってハビトゥスが必要とされるのであり、スペキエスは余計で ある」とオッカムは言っています(『命題集注解』二巻一三)。 想像力についても、オッカムはハビトゥスでの説明を試みます。直感的認 識から魂に刻まれるのは、想像の対象となる終端(像)というよりも、想 像行為を引き起こす一つの傾向なのだというのです(『命題集注解』三巻 三)。心的な作用はいずれも、心像のようなものを介すことなく成立する ことになります。 ブログのほうでも取り上げたピーター・キング「経験の二つの概念」 (Peter King, "Two Concepts of Experience")という論考でも触れら れていますが、オッカムは魂の機能的区分すら便宜的・概念的なものと考 え、魂(心理)の実体は単一であると見なしていたようです。「内部メカ ニズム」のような話は最小限に抑え、むしろ外部世界とのやり取りの能力 を重視し、それをハビトゥスという一種の「連動」概念で捉えようとして いるのですね。キングによれば、それは「相互に連関する諸能力の複合的 なまとまり」とされます。「魂のブラックボックス化」として批判もされ るオッカムのこうした理論は、オックスフォードにおいて、同時代の他の 論者とのやりとりを通じ一〇数年をかけて練り上げられたものだといいま す。そうなると、そのあたりの練り上げの変遷も多少とも見てみたい気が します。今後の課題として取り上げていきたいところです。 さて本文のほうですが、問六は一通りこれで終了ですので、次回からは 『レポルタティオ』二巻の問一二・一三を見ていくことにしたいと思いま す。「天使は自分以外のものを本質的に認識するか、それともスペキエス で知解するか」「上位の天使は下位の天使よりも少ないスペキエスで知解 するか」という問題が扱われます。少々長いテキストですが、神学的議論 でもあり、なかなか面白そうです。またしばしお付き合いください。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月10日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------