〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.208 2011/12/24 *お知らせ 今年もご購読いただきありがとうございます。本メルマガは原則隔週での 発行ですが、年末年始は冬休みということで、例年通りお休みとさせてい ただきます。そのため、次号は年明けの1月21日を予定しています。来年 も引き続きよろしくお願いいたします。それでは皆様、メリークリスマス &良いお年をお迎えください。 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その9) 『薬草論』はいわば百科事典、一種の手引き書であるわけですが、では、 どういう人々にどのように使われていたのでしょうか。現存部数の少なさ や、この「エガートン写本」の来歴が今一つ不明であるとされることか ら、流通経路からの推定はどうやら難しいようです。前にも取り上げたよ うに、編纂者についてなら多少の推定が可能だといいます。この校注版に 付されている序論によれば、それはサレルノ系の医学の専門家であった可 能性が高いとされています。一方、受容に関する記述はこの序論にはあま り見あたりません。とはいえ、示唆的な指摘もないわけではありません。 たとえば、次のような手がかりがあります。『薬草論』は、『簡易医療術 (Circa instans)』がベースになっているとされますが、と同時に、偽 アプレイウスの『植物学(Herbarius)』が随所に取り込まれていたりし ます。この偽アプレイウスのテキストは、長く古代末期のものと見なされ ていたわけですが、実は中世初期のものらしいのですね。同書は一一世紀 から一四世紀ごろまで広範に流通していたようで、名高いテキストでは あったようなのですが、もはや医療の専門家が参照するものではなくなっ ていた可能性があるといいます。同書はむしろ、民間療法の担い手たちの 知見の集成といった体のものだった、というわけです。 確かに薬草は、伝統的にいわゆる「ヒーラー」たちの専売特許をなしてい ました。特に女性がその担い手だったと言われます。彼女たちは、家に伝 わる処方や薬草の知識などを口承で伝え受け継ぎ、社会的なケアを広く 担ったのでした。また、一一世紀ごろまで知的生産の場として重要だった 修道院にも看護施設(施療院)が設けられ、そうした民間のヒーラーと並 行する形で社会の医療を支えいたのでした。ヒーラーたちはいわゆる下層 の出身者が多く、ほとんどが文盲で、したがって技術の伝達は口承でなさ れていたと考えられています。ところがその後に医療の環境には転機が訪 れます。とくに十字軍での従軍医師や看護人の必要から、医療そのものが 本格的に制度化されるようになりました。 医療行為について許可制を初めて取り入れたのはシチリアのルッジェーロ 二世(一二世紀)で、その後のフリードリヒ二世の時代(一三世紀)に職 業訓練が制度化されたといいます。「もぐり」に対する罰則もできたよう です。一方でパリ大学などではさらに厳しい規制をかけ、結果的に医療は 男性のみに許されることになります。とはいうものの、産婆など男性の医 師が必ずしも担おうとしない部分で、女性のヒーラーたちも存続してはい くようです。一方、修道院併設の施療院では早くから看護人の専門集団が 形成されていき、これが一三世紀ごろまでには司教の管理下に統合され (とくにフランスで)、看護の教育も制度化されます。そうした動きは、 大学での医学教育が制度化されるのと軌を一にしているようです。 以上の話は、ウィリアム・ミンコフスキー「中世の女性ヒーラーたち:そ の歴史のいくつかの側面」(William L. MInkowski, Women Healers of the Middle Ages: Selected Aspects of Their History, in American journal of Public Health, vol. 82(2), 1992, p.288)からまとめたもの です。これにはまた(ここでは取り上げませんが)、フランスやドイツの 修道院における看護について興味深い記述もあります。 そんなわけで、その偽アプレイウスのテキストを含み、一方では『簡易医 療術』のようなある程度の専門性のあるテキストも含む『薬草論』は、そ のように制度化されつつあった医学の従事者・学習者にとっての種本・教 科書となっていたのかもしれません。もちろんこれは今後とも検証を要す る点ですが、こうした「仮説」を想像するのはやはり楽しいですね (笑)。さらにより広い見地からの医学書全般の使われ方というのも、な にやら気になる論点です。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その7) 『レポルタティオ(講義録)』の問一二・一三の二回目です。直観的認識 がどういうものなのかをめぐる話が続いています。さっそく見ていきま しょう。 # # # Et tunc secundum istam viam potest concedi quod cognitio intuitiva, tam intellectus quam sensus, sit causa partialis cognitionis abstractivae quae praedicto modo habetur. Et hoc, quia omnis effectus sufficienter dependet ex suis causis essentialibus, quibus positis potest effetus poni et ipsis non positis non potest poni naturaliter, et a nullo alio dependet, sicut frequenter dictum est. Sed illa cognitio qua evidenter assentio huic complexo "hoc corpus est album", cuius extrema cognosco intuitive, non potest esse naturaliter nisi stante utraque cognitione. Quia si res sit absens et cognitio intuitiva corrumpatur, intellectus non assentit evidenter quod illud corpus quod prius vidit sit album, quia ignorat utrum sit vel non. Sed respectu cognitionis apprehensivae, per quam formo complexum, non est cognitio intuitiva - nec sensitiva nec intellectiva - causa partialis, quia sine ipsis potest formari omne complexum quod potest formari cum ipsis, quia ita in absentia sicut in praesentia. このような考え方に従えば、知性と感覚のいずれの直観的認識も、上述の 様態をもった抽象的認識の部分的な原因だということに譲歩できるだろ う。これは、よく言われるように、すべての結果はおのれの本質的原因に 十全に依存していて、その原因があれば結果が自然に導かれ、原因がなけ れば結果が導かれず、結果はほかにまったく依存しないからである。しか しながら、「この物体は白い」という複合命題を私が明らかと認めるその 認識では、その末端の項は私が直観的に認識しているのであって、当然な がら両方の認識が働いている以外にありえない。なぜなら、仮に事物が不 在で直観的認識が正しく働かない場合、知性は前に見ていたその物体が白 いと明確には認めないからである。それが存在するかどうかがわからない からだ。しかしながら、私が複合命題を形成するもととなる把握的な認識 に関しては、感覚的・知的のいずれの直観的認識も、その部分的な原因と はならない。なぜなら、直観的認識があれば形成できるすべての複合命題 は、直観的認識がなくとも形成できるからだ。直観的認識の有無と関わり なく、形成できるからである。 Sic igitur patet quod per cognitionem intuitivam judicamus rem esse quando est, et hoc generaliter sive intuitiva cognitio naturaliter causetur sive supernaturaliter a solo Deo. Nam si naturaliter causetur, tunc non potest esse nisi obiectum exsistat praesens in debita approximatione; quia tanta potest esse distantia inter obiectum et potentiam quod naturaliter non potest potentia tale obiectum intueri. Et quando obiectum est sic praesens tali modo approximatum, potest intellectus per actum assentiendi iudicare rem esse, modo paedictio. Si autem sit supernaturalis, puta si Deus causaret in me cognitionem intuitivam de alicuo obiecto exsistente Romae, statim habita cognitione eius intuitiva possum iudicare quod illud quod intueor et video est, ita bene sicut si illa cognitio haberetur naturaliter. このように、直観的認識によって私たちが、事物があるときに「ある」と 判断すること、しかもそれは一般に、直観的認識が自然に生じるか、また は単一の神によって超自然的に生じるかのいずれかであることは明らかで ある。自然に生じるとしたら、それは対象が必ず近くに現に実在している 場合に限られる。なぜなら、対象と可能性の間の距離は、自然には可能性 としてその対象を判別できないほどになりうるからだ。対象がそのように 現前し、しかるべき形で接近される場合、上述した通り、知性は働きかけ により事物が存在すると認めることができる。一方、直観的認識が超自然 的に生じる場合、つまり神が私のうちにローマに存在するなんらかの対象 について直観的認識を生じさせるような場合、私は直ちにその直観的認識 のハビトゥスをもって、その認識を自然に有する場合と同じように、私が 判別し目にしたものが存在すると判断することができる。 # # # 今回の箇所に関連して、前に挙げた『ケンブリッジ版オッカム必携』か ら、エリザベス・カーガー「誤解されたオッカムの直観的・抽象的認識理 論」(Elizabeth Karger, Ockham's Misunderstood Theory of Intuitive and Abstractive Cognition)という一章を見てみましょう。 ここにオッカムの言うハビトゥスについての説明があります。ハビトゥス というのは、事前の認識行為によって精神(魂)のうちに定着した性向と されます。適切な機会が与えられれば、その最初の認識行為に類する行為 がそこから生じることになるというのです。そしてオッカムは、これが抽 象的認識のいわばトリガーをなすと見なしているのですね。 「明らかと認める(evidenter assentir:明証的に認める)」という言い 方も意味内容をもう少し厳密にしておきたいところです。カーガーは次の ようにまとめています。オッカムの場合、そうした明証性の付与は、すべ て「心的な命題」をめぐってなされるものです。つまり何か対象が現前し ているとき、その対象を認識するとは、「その対象がある」という命題 (単純命題)を認識するということだとされるのですね。そして知性はそ の命題にこそ明証性を与えるのだというわけです。明証性の付与には、 (一)その命題が真であり、(二)知性がその命題を認めるしかなく、 (三)ほかのいかなる知性もそれを認める以外にない、という三つの条件 を満たしていなくてはならないとされます。 明証性の付与にはまた、(A)前提が明らかと認められる場合に推論に よって結論を明らかと認める場合と、(B)命題の項が把握されることに よって命題が明らかと認められる場合とがあるとされます。さらにこの後 者は、(Ba)対象となる命題のすべての項が概念である場合と、(Bb) その項の一部(もしくは全部)が個物である場合に分かれます。さらにま たこの後者が、(Bb1)対象となる命題が必然的に真である場合と、 (Bb2)そうでない場合に分かれます。 カーガーは樫の木を見る場合を事例として取り上げています。「その樫の 木は植物である」という心的命題(複合命題)は、眼前に樫の木があって それを認識する場合と、それを後から思い起こしている場合では性質が異 なります。前者はまずもって項となる樫の木を直観的認識で捉え、そこか ら抽象的認識が生じることになりますが、後者は純然たる抽象的認識とい うことになります。直観的認識が関係する前者では、まず樫の木の単純命 題に明証性が付与されます(Bb1)。そしてまた、「その樫の木は植物 である」という述語づけをともなった複合命題も、樫の木をめぐるハビ トゥスによりBb1の明証性が付与されます。一方、後者の場合には、こ れはもはや命題の項は概念ということになるので、Baとして明証性が付 与されることになりそうです(注:カーガーは、前日に見た樫の木を思い 出す場合についても、それを個物として解釈してBb1の明証性が付与さ れる、みたいな解釈をしているようなのですが、これはちょっと変な議論 で、むしろBaを、必然的に真である場合Ba1と、そうでない場合Ba2に 分けて、Ba1であるとすべきなのではないかと思われるのです が……?)。 直観的認識はすべからく個物の認識であるので、それはBbということに なり、しかも対象物が現前している場合はBb1ということになります。 それ以外の場合は抽象的認識ということになるので、直観的認識というの は認識の中でごく限定的な場合でしかないことになります。また、この カーガーのまとめによれば、明証性は本来、命題全般に関わるものである 一方、直観的認識に関わる明証性はBb1だけということになり、これま たきわめて限定的な場合にすぎないことになります。うーん、そういう限 定的なものにしては、オッカムの取り上げ方は仰々しい気もするのですけ ど……。 ちょうど上のテキストにもありますが、直観的認識には、そうした経験的 な場合のほか、神が直接に知性の中に認識を作り出す場合もあるとされて います。ちょっと先走ると、オッカムによればこの場合ですら、その対象 には現前しないものとしての明証性が付与される、と考えているようで す。これはちょっと微妙にわかりにくい話ですが、ほかの論者からの批判 を呼んだ部分でもあるようで、次回にまた改めて取り上げてみたいと思い ます。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は冬休みを挟み、01月21日の予 定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------