〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.212 2012/03/03 ------文献探索シリーズ------------------------ 薬草学を縦断する(その13) 薬草学に関する文献的伝統の一端を、これまで西欧中世、ビザンツ世界、 ルネサンス期のそれぞれについてごく簡単ですが目にしてきました。ここ では締めくくりも兼ねて、西欧中世と関係の深かったアラブ世界について も、二次文献を通じて触れておきたいと思います。今回取り上げるのはサ ミ・ハナルネー「中世イスラムにおける薬学と、麻薬中毒の歴史」 (Sami Hamarneh, Pharmacy in Medieval Islam and the History of Drug Addiction, in Medical History, vol 16(3), p.226, 1972)という 研究論文です。 同論文はアヘン(のもとになるケシ)や大麻(アサ)について、主に中世 イスラム世界での扱いやその中毒の拡散を論じた歴史的考察です。そんな わけですから、文献的伝統についてもいろいろと示唆に満ちています。そ もそもケシやアサがアラブ世界に知られるようになるのは800年頃で、イ スラム教の成立以前にはなかったといいます。とはいえ最初の200年くら いは、それらの草は厳密に治療目的(麻酔・催眠剤など)に限られていま した。 そうした治療目的での使用を促したのは、アラブ世界に翻訳で大量に出 回ったギリシア語文献だったようです。ギリシア世界ではケシは古代から 利用されていて、ヒポクラテスの文献集成のほか、テオフラストゥスの植 物学でも取り上げられてます。もちろん、ディオスコリデスやガレノスな ども、治療目的での利用法について触れています。もちろん過剰摂取や反 復使用による中毒もないわけではなかったはずで、後の時代ですが、ガレ ノスの著作を集成し注解を施したことで知られる7世紀のアエギネタのパ ウルスなどが、ケシやアサの副作用について述べているようです。 イスラム教が興る7世紀ごろには、小アジア、シリア、エジプトなどでギ リシア文化が花開き、その流れからシリア語経由もしくはギリシア語から の直接の翻訳により、文献がアラブ世界に広まります。そうした文献を通 じて、ケシやアサについても医学的な情報が伝えられていきます。翻訳家 として名高いフナイン(9世紀)の同時代人マーサワイー(Masawayh) や、当時の医療百科の著者でもあるアリー・アル・タバリーなどが、ケシ やアヘンについての情報を記しているのですが、明らかにギリシア文献か らの影響を受けているといいます。ですが、すでにしてそこには様々な独 自見解も追加されているようで、イスラム世界は早い段階からギリシア文 献への補完的記述の伝統を育んでいたのではないかとの印象を受けます。 ケシやアサの有害性については、9世紀ごろまではまだ広く知られてはい なかったようです。たとえばディオスコリデスなどはアラブ世界において も、古代の最も傑出した植物学者として尊ばれていました。ディオスコリ デスはアサについてポジティブな活用法を記しており、それが広く流布し ていた模様です。一方でアラブ世界の一部の学者たちは、その有害な属性 に気づいていきます。10世紀のイラクの農学者イブン・ワハシーヤー (Ibn Wahshiyah)はアヘンの毒性について長々と記し、中毒の症状に ついても詳述しているといいます。同論文では、ほかにもペルシャの自然 学者ラージーによる言及や、アル・マジュージー(al-Majusi)による詳 述などが紹介されています。いずれも治療目的での使用法と合わせて、過 剰摂取などへの警告を発しているのですね。アヘンに知性を鈍らせるなど の数々の弊害があることを指摘した嚆矢の一人には、イブン・シーナー (アヴィセンナ)もいるのですね。 古代の権威とは別の、観察にもとづく所見が比較的早く流布した背景の一 つには、もしかするとそうした麻薬にもなる草木の大量流通があったのか もしれません。10世紀にはエジプトがケシの一大供給拠点になったとも いいます。毒性や中毒への警告と合わせて、抽出方法に関する詳細の記述 もそのころから数多く出回るようです(ケルアンのイブン・アルジャザー ル、イブン・シーナー、アル・ビルーニーなどなど)。論文著者は後半部 で、麻薬の使用がイスラムの神秘主義系思想に与えた影響を示唆したり、 12世紀以降のイスラム世界の混迷の遠因に、政治的な不和のほか、麻薬 の濫用もあったのではないかとの仮説などを取り上げています。まあ、そ のあたりは実証は難しいだろうと思いますが、興味深い話ではあります。 論考ではほかにも興味深いトピックがいくつか紹介されています。上に挙 げたようなアラブ世界の著者の文献は、11世紀から13世紀に西欧でもラ テン語に翻訳され、かくしてケシやアサの利用法は西欧医学にも伝えられ ます。実際にそれらの植物も中東から輸入されて活用されるようになって いくという話です。中東からの輸入は長く続くようで、フランスの薬学者 ニコラ・レムリー(17世紀)などは、輸入ものは質が悪いと嘆いていた りしていたとか……。 # # # さて、薬草学について簡単にめぐってきましたが、今回でいったん終了と します。今シリーズはちょっと皮相にすぎた感もなきにしもあらずです が、それでも興味深い軸として、古典的権威の批判と温存という問題が改 めて鮮明になってきた気がします。それは薬草学だけに限った話ではあり ませんので、文献と観察・経験のせめぎ合いという形で、中世における医 学もしくは自然学、さらには広い意味での哲学全般に関わる一般的な議論 として見直してみたい誘惑にも駆られます。薬草学自体についても、たと えば中・東欧、北欧などの地域においてはどのような伝統があったのかと か、さらには初期近代までのより広い時間的スパンでの再検証とか、イス ラムやユダヤ方面での伝統の詳細の見直しなど、課題は山積みです。植物 学には長い伝統があるわけですし、こちらももっと腰を据えて取り組まな ければ、と考えています。 さしあたり次回からは、またちょっと目先を変え、今度は1270年代の禁 令について、整理もかねて少し再考してみたいと思っています。またお付 き合いのほど、よろしくお願いいたします。 ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その11) 相変わらず『レポルタティオ』の続きです。今回は都合によりちょっと短 めです。 # # # Igitur portet ponere aliquem habitum inclinantem ad istum actum, quia ex quo intellectus potest modo prompte elicere istum actum post cognitionem intuitivam, et ante non potuit, igitur nunc est aliquid inclinans intellectum ad istum actum quod prius non fuit. Illud autem vocamus habitum. Sed iste habitus sic inclinans intellectum non potest causari a cognitione intuitiva perfecta, sicut ostensum est; nec ab aliqua cognitione abstractiva sequente cognitionem intuitivam - quia illa est prima abstractiva, per positum -, quae abstractiva habetur post cognitionem intuitivam. Igitur oportet necessario ponere aliquam cognitionem abstractivam simul cum cognitione intuitiva perfecta exsistente, quae est causa partialis cum intellectu ad generandum istum habitum sic intellectum inclinantem. したがって、その行為に向かうなんらかのハビトゥスを仮定する必要があ る。というのも、知性がすみやかにそうした行為を引き出せるのは直観的 認識の後なのであって、それ以前にはできなかったからだ。ゆえに知性を その行為に向かわせるものが生じるのは今であり、以前にはなかったので ある。ところでこれを私たちはハビトゥスと呼ぶ。だが、知性を向かわせ るそのハビトゥスは、すでに述べたように完全な直観的認識からは生じえ ない。また、直観的認識に続いて成立する抽象的認識からも生じえない。 (ハビトゥスを生じさせる)認識は、仮定の上では第一の抽象的認識とい うことになるが、それ(直観的認識に続いて成立する抽象的認識)は直観 的認識の後に有するものだからである。ゆえに、完全な直観的認識が存在 すると同時に成立するなんらかの抽象的認識を仮定する必要がある。その 抽象的認識は知性とともだって、知性を向かわせるハビトゥスを生み出す ための部分的原因をなす。 Ponendo cognitionem intuitivam habere semper secum necessario cognitionem abstractivam incomplexam, tunc cognitio intuitiva erit causa partialis illius cognitionis abstractivae, et illa abstractiva erit causa partialis respectu habitus inclinantis ad aliam cognitionem abstractivam incomplexam consimilem illi cognitioni ex qua generatur habitus sic inclinans. Et tunc intellectus formato hoc complexo "haec res - cuius est haec cognitio abstractiva incomplexa - fuit" potest virtute illius cognitionis incomplexae evidenter assentire quod haec res fuit. Et sic debet intelligi. 直観的認識にはつねに必然的に不完全な抽象的認識をともなうと考えるな ら、直観的認識はその抽象的認識の部分的な原因ということになり、また その抽象的認識は、別の不完全な抽象的認識に向かうハビトゥスに関する 部分的原因となるだろう。その別の抽象的認識は、性向としてのハビトゥ スが成立するもととなった認識と同種のものとなる。すると、「この事物 (それは非複合的な抽象的認識だが)は存在した」という複合命題が形成 される際、知性はその非複合的な認識でもって、この事物が存在したこと を明証的に認めることができる。(以上の問題は)このように理解すべき なのである。 # # # 前回やや先走って(笑)述べたように、今回の箇所は、直観的認識と同時 に成立する抽象的認識があってはじめてハビトゥスが成立するという話で す。認識対象の存在・非存在の判断をともなう直観的認識は、オッカムの 唯名論的な体系の中にあって、わずかながら外的対象に開かれた、おそら くは唯一の窓だという気がします。そしてその窓の精緻化をもたらすきっ かけとなったのは、どうやらウォルター・チャットンとのやりとりだっ た……という論考を前回は見ました。 今回はマーティン・レンツ「なぜ天使たちは個的に思考できないか: チャットンおよびアクィナス対オッカム」(Martin Lenz, Why Can’t Angels Think Properly ? Ockham against Chatton and Aquinas)と いう論考を見てみましょう。オッカムはとにかく複合命題を主たる問題と しているわけですが、これは心的言語だと解されます。同論考によると、 オッカムにおける心的言語とは、人間に共通する思考の道具で、意味作用 をなす項から成り、しかも文法構造を備えていると考えられています。個 別の言語とは違うものの、個別言語に生じる特性を数多く併せ持っている というわけです。人はそれを駆使して思考を構造化し、既存の知識をもと に新たな知識を獲得するのだ、と……。 ところでこの心的言語は、人間にのみ存するものなのでしょうか。中世に おいては、天使もまた知性をもつ存在とされていたわけですが、天使はそ うした言語を用いて思考するのでしょうか。この点について、またしても オッカムとチャットンは対立します。オッカムは、天使も心的言語を用い た形で思考すると考えていました。いわば言語をモデルとして天使の思考 を捉えているのですが、チャットンはこれに異を唱え、トマス・アクィナ スを援用して、天使は構造化された思考をもっているのではないと主張し ます。天使は神による創造の時点であらゆる知識を含んだ知的スペキエス を一度に注入されていて、後はその既知の知識を眺めるにすぎない、とい うのですね。 チャットン(およびトマス)の場合、人間と天使の思考には抜本的な違い があるとされます。既存の知識を構造化して新たな知識を獲得していくの と、あらゆる知識がすでに与えられていて、あとはそれを見出していくだ けとの違いです。同論文の著者はこの両者を、ワープロで文書を書く場合 と、目の前にあるコピーを読む場合とに譬えてみせます。なかなか面白い 比喩ですね。オッカムはというと、人間も天使も思考においては前者のや り方しかないと考えます。したがってオッカムにとっての合理的思考は、 チャットン(とトマス)が考えるように物質性と切り離せない低次の知性 (人間)に限られるものではありません。逆に言うと、天使にすら誤謬の 可能性があるということになります。 チャントンにおいては、天使に誤謬の可能性など認められません。天使は すべてを直観的に真なるものとして認識するからです。つまりそこでは、 直観とは知識獲得の高度な形態であるとされるのです。逆にオッカムに とっての直観は、これまで何度も出てきたように、あくまでディスコース (心的な)を形成するためのスターティングポイントにすぎません。直観 的認識は外的事象を取り込んで複合命題を形成するための、すべての始ま りなのでした。 著者の指摘を待たずとも、ここでのオッカムとチャットンの間の溝は決定 的なものに思えます。オッカムは人間と天使で知識の処理に違いはなく、 (直観的)認識の様態、世界へのアクセスの種類のみが異なるのだと考え るのに対して、チャットン(とトマス)は人間と天使の間に思考へのアプ ローチの違い(外部を取り込む外的アプローチと、内部にすでにあるもの を見出す内的アプローチ)があると考えています。実際のところ両者の議 論は平行線をたどるしかありません。 ある意味これは、天使などの上位の知性と、人間ないしは下位の知性との コミュニケーションの可能性、交流の可能性を認めるか認めないかという 立場の違いにもなります。神的な啓示を上位の知性が下位の知性に伝える ような場面、あるいは上位の知性が抱く神的な啓示を下位の知性が神学的 に読み解くような場面を考えると、思考的処理の共有を認めないチャット ン=トマス説では相互の往還をうまく説明できなくなってしまいます。こ のあたりのことを、オッカムの弟子で次の世代を率いるアダム・ヴォデハ ムはするどく突いたのでした……。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月17日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------