〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.214 2012/04/07 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その2) 1277年のタンピエの禁令は、思想史家の間でもいろいろ異なった解釈、 矛盾した解釈の対象になってきたようです。ジャン・パトリス・ブデとい う研究者が『科学と魔術の間』(Jean-Patrice Boudet, "Entre Science et Nigromance", Publications de la Sorbonne, 2006)という著書で ちらっと書いていますが、20世紀初頭にかけて活躍した科学史家・物理 学者のピエール・デュエムは、これを「近代科学の出生証明書」とすら持 ち上げているそうです。デュエムはアリストテレス主義が学問的な進歩を 阻害していたと考え、それを否定したということで禁令を高く評価してい たのでした。さすがに現在はそうした見方は斥けられています。 より最近でも、たとえば思想史家のアラン・ド・リベラは、禁令によって 新たな哲学的理想が出現したとし、禁令をそのためのスプリングボードと 位置づけていたようです。こちらも今では、事はそう単純ではないとされ ています。ブデによれば、現代の歴史家は禁令の影響力の範囲をできるか ぎりバランスよく見ようとしていいます。禁令は主に急進的なアリストテ レス主義の行き過ぎをやり玉に挙げているとされていたわけですが、その カバーする範囲はもっと広範で、たとえば占星術などに見られる、星辰に よる運命論・決定論なども同じく非難の対象となっていました。 それはたとえば、禁令が糾弾する次のような命題に見られます(番号はピ シェ本のもの。同書についてはまた改めて取り上げます)。6. 「三万六 千年ごとに天体が同じ地点にもどるとき、今起きているのと同じ影響がも たらされる」。38. 「第一質料は神によって創られたのではなく、天体を 介して創られた」。59. 「神は、上位の物体の運動、星辰の結合や配置の 必然的な原因である」。61. 「神は天体を介するなら、反する作用を生み 出すことができるが、天体の位置は多岐におよぶ」。65. 「神または天空 の知性は、天体を介してのみ、睡眠中の人間の魂に知識を注入できる」。 94. 「永遠の原理には、天体とその魂という二つの原理がある」。182. 「世界的な火の氾濫は自然に生み出されることが可能である」。195. 「宿命とは世界の傾向であり、神の恩寵から直接発するのではなく、むし ろ上位の物体の介在を通じて生ずる。その宿命は、下位の現実には必然を 課さない。なぜなら下位の現実はそれに反することが可能だからである。 とはいえ上位の現実には必然を課す」。 ブデも指摘していますが、これらの命題は特定の出典から直接取られたも のというよりは、なんらかの出典(ブラバントのシゲルスやダキアのボエ ティウスなど)を着想源として様々な言い換えなどを施した文言のようで す。たとえば命題6の「三万六千年」周期というのは、ブデによると、プ ラトンの『ティマイオス』に出てくる「完全年」(天体がもとの位置に戻 る年)と、プトレマイオス以来、アラビア語圏やキリスト教圏で広く知ら れていた春分点歳差(年に36分とされ、一世紀かけて1度ずれるとされて いた)とが合わさったものだといいます。火の氾濫というのは、ノアの洪 水の対になる、世界の終わりに生じる災禍なのだとか。ブデは、これらが 問題になったのは、自然の決定論的な考え方が神の全能性に制限をかける ことになると考えられたためだと述べています。 イセットの研究書で同じ命題の解説を補っておくと、そちらではたとえば この命題6(イセット本では命題92)に、ギリシア的な円環の時間概念 と、キリスト教の直線的時間概念との対立を見ています。また、この命題 の直接的なソースはダキアのボエティウスではないかとしています。ダキ アのボエティウスは、天体が元の位置に戻ると、必然的に月下世界の事象 も、少なくとも星辰が十分条件をなしているようなものについては元に戻 ると考えています。ただ、それはあくまで自然現象においてであって、人 間の自由などは含まれないと考えていたようです。とはいえ、そもそもギ リシア的な円環の時間概念にシンパシーを寄せている点が、批判の種と なったのではないかというわけです。火の氾濫については、イセット本で は命題193になりますが、そちらでは出典は不明としています。ただし、 世界的な大火災が周期的に起きるという話はストア派にあると指摘してい ます。 上記のそのほかの命題で問題とされているのは、神の直接的な働きかけを 認めず、天体の介在を主張するような考え方ですね。たとえば命題38 (イセット本では107)の文言は、シゲルスの『形而上学注解』などに、 かなり近いものが見られるといいます。とはいえ、シゲルスは必ずしもそ の教説に与していたわけではないのですね。この、神が直接的に働きかけ ないという話の大元は、第一原因は直接的には新たな作用を生み出すこと ができず、そうするためには中間的な原因が介在しなければならないとい う、アリストテレスに帰される考え方だといいます(『原因論』でしょう か。これは中世ではアリストテレス作だとされていました)。シゲルスや ボエティウスはそれぞれの自著でそうした話を取り上げているのですが、 イセットによれば両者とも、あくまで人口に膾炙する説を紹介しているの であって、自説としているわけではありません。ですが、異教的な考えを 取り締まる側からすれば、そういう説を取り上げることすらけしからん、 ということなのでしょうね。ある種の悪意ある曲解のパターンは、すでに そのあたりにもほの見えていそうです……。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その13) 『レポルタティオ』二巻問一二と一三はまだまだ続きます。 # # # Aliter potest dici quod habitus generatur ex cognitione intuitiva sicut ex causa partiali et negari illa cognitio abstractiva quae simul ponitur cum intuitiva. Tum quia nullus experitur quod simul et semel cognoscat eandem rem intuitive et abstractive, et hoc loquendo de cognitione abstractiva rei in se, immo potius experitur homo oppositum, maxime cum illae cognitiones habeant aliquas condiciones oppositas. Tum quia omnis cognitio abstractiva potest manere destructa intuitiva; ista autem quae ponitur non potest manere, quia tunc per eam iudicaret intellectus quod illa res, cuius est illa cognitio, aliquando fuit. Et sic ipsa esset cognitio intuitiva imperfecta ad quam ponitur habitus generatus ex cognitione abstractiva manente cum intuitiva perfecta inclinans. Igitur, ut videtur, cum cognitione intuitiva perfecta non manet cognitio abstractiva eiusdem rei, sed ex cognitione intuitiva frequentata generatur habitus inclinans ad cognitionem abstractivam sive intuitivam imperfectam. あるいはまた、ハビトゥスは部分的原因からであるかのように直観的認識 から生じると述べて、直観的認識と同時に存在すると想定されるその抽象 的認識を否定することもできる。一つには、同一の事物を同時かつ一挙 に、直観的かつ抽象的に認識することは誰も経験しないからである。これ は事物それ自体の抽象的認識についての話だが、むしろ人は逆のことを経 験する。とりわけ、そうした認識には逆のの条件があるからである。もう 一つには、あらゆる抽象的認識は直観的認識が破棄されても存続できるの に対して、(同時に存在すると)想定される(抽象的)認識は存続できな いからである。なぜかというと、その場合、知性はみずから、それが認識 をなしている当の事物はかつて存在したものだと判断するだろうからだ。 かくしてそれは不完全な直観的認識だということになり、傾き(性向)を もったハビトゥスはその認識に対して想定されて、完全な直観的認識と同 時に成立する抽象的認識から生じるとされるのである。ゆえに、考えられ ているように、完全な直観的認識とともにその同じ事物の抽象的認識が存 続するのではなく、頻発する直観的認識から、抽象的認識もしくは不完全 な直観的認識への傾きをもったハビトゥスが生じるのである。 Si dicas quod habitus, secundum Philosophum, II Ethicorum, inclinat ad actus consimiles ex quibus generatur, et non ad actus alterius rationis, sicut est in proposito de cognitione intuitiva et abstractiva, respondeo : verum est generaliter quando habitus non generatur ex cognitione intuitiva tanquam ex causa partiali. Sed quando cognitio intuitiva est causa partialis, sicut est in proposito, tunc non est verum. Minus enim inconveniens apparet quod habitus inclinans ad cognitionem abstractivam generetur ex cognitione intuitiva tanquam ex causa partiali quam quod cum intuitiva maneat semper cognitio abstractiva generativa habitus, cum tamen experientia non sit ad hoc, sed potius ad oppositum. あなたがもしこう言うとしよう。「哲学者の倫理学第二巻によれば、ハビ トゥスは、直観的認識と抽象的認識についての説明と同様に、それが生じ たものに類似する現実態へと傾いていくのであって、原理の異なる現実態 へと傾いていくのではない」。私はこう述べよう。ハビトゥスが部分的原 因からであるかのように直観的認識から生じるのではないという点は真で ある。けれども、今の議論におけるように、直観的認識が部分的原因であ るという点は真ではない。というのも、抽象的認識へと傾くハビトゥスが 部分的原因からであるかのように直観的認識から生じるということは、ハ ビトゥスを生じさせる抽象的認識がつねに直観的認識とともにあるもの の、そのような経験は存在せず、むしろ逆の経験がもたらされるというこ とほど、不適当ではないと思われるからだ。 Ex dictis apparet differentia inter cognitionem intuitivam perfectam et imperfectam : quia prima non est nec esse potest naturaliter nisi obiectum exsistat, secunda potest esse etsi obiectum destruatur. 以上述べたことから、完全な直観的認識と不完全な直観的認識の違いは明 白である。すなわち、前者は対象が存在しなければ自然には存在しない し、存在しえないが、後者は対象が破壊されても存在しうる。 # # # 今回の箇所では、「ハビトゥスが直観的認識を部分的原因(十全な原因で はなく)として生じる」という言い方も、あながち不当ではないというこ とを述べているようです。直観的認識とともに生じる抽象的認識というの は、一種の言葉の綾のようなもので、それは単に「不完全な直観的認識」 として括ることができるということなのでしょう。もちろん、想起などの 場合の抽象的認識は別物として考えられるわけで、不完全な直観的認識 は、直観的認識でありながらも抽象的認識とオーバーラップする認識様態 のことではないかと考えられます。 さて、前回に引き続き、ピーター・キングの論考を見ていきましょう。 オッカムは概念が外的事象と結ぶ関係性を、原因と結果の関係、そして類 似の関係であると考え、それが自然で全体的な意味作用となるのだと説明 づけようとしました。これについて、著者は重大な問題点を指摘します。 それはつまり、概念というのが本性的に一般的なものだとすると、それと 関係を結ぶもう一方の外的事象は単一の個であり、すると両者はいかにし てそのような関係を結びうるのかが釈然としない、ということです。 オッカムの「概念」は一種の直接的な「写像」と見なすことができます。 外的事象の認識が即、像(概念)を生成させるというわけです。ではその 像が個的な事象ではなく一般を表していることはどうやって担保されるの でしょうか。外的事象は像の生成の、そもそもの原因をなしています。そ してその像の生成は、外的事象そのものに内在する機能だとされます。す なわち像の生成はその事象の本質の一部であるというわけですね。そのよ うにして生成される像は、したがって当の事象の本質を写し取ったもの以 外ではありえない、ということになります。原因と結果は同種・同類でな くてはならないからです。そうした話を、オッカムは『オルディナティ オ』の中で述べているのですね。 かくして、像の生成即ち本質(=一般)の指示、という図式が成り立ちま す。ですが、オッカムは『オルディナティオ』別の箇所で、類を表す概念 は一つの個からは導けず、必ず二つ以上の個から抽出されなくてはならな いとも述べているらしいのです。その場合、像の生成が即本質を指すとい う図式に反することになってしまいます。また、もし二つ以上の個から抽 出されるとしたならば、一般概念は、それを導きうる同種の個すべてと関 係づけられなくてはなりません。つまりはそれぞれの個が、同種のほかの 個と協同する形でそうした一般概念を生成させる力をもっていなくてはな らないのですが、そのような生成させる力は、同種の複数の個と所与の概 念との指示関係によって定義されなくてはならないということになり、循 環論法に陥ってしまいます。 著者はさらに、二つの以上の個から一般概念が抽出されるとしても、それ がたとえば「雄」ではなく「動物」という概念をまず導くとどうして言え るのか、という問題も挙げています。これは言い換えると、アリストテレ スの標準的な自然種の区分に、どうして従わなくてはならないのかという 大きな問題になります。オッカム流の説明(これはたぶん論文著者が考え たものです)ならば、知性にはあらかじめ、そうした自然な種の項を切り だすよう仕向ける傾向が備わっている(それは神によってもたらされると されています)と論じるところなのでしょうけれど、それでは説明として は不十分です。つまり概念と個との結びつきが論点先取りとして前提され てしまっていて、説明になっていないからです。 ……というわけで、この「像」の生成という図式には問題があります。ど こかで必ず、像をどう切り出すか(個人を目にした場合、その個人を特定 するか、それとも人間という種か、動物という類か)という主体の意図的 な操作を持ち出してこなくてはならなくなるのです。そうした意図的な操 作を考えだすと、たとえ「像」を記号と見なして心的言語を持ち出して説 明しようとしても、本来それが避けようとしていた慣例性(言語に見られ る恣意的な約束)を再導入してしまう可能性が出てきます。著者のピー ター・キングは、この問題は唯名論全般に関わる難点だと指摘していま す。 ですがこういった議論に対して、「それらはオッカムにとって致命的な批 判ではない」とする研究者もいるようです。それはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------