〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.218 2012/06/09 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その6) ブラバンのシゲルスが哲学における独身主義を擁護しようとした動機はど のあたりにあったのでしょうか。ピシェによると、1277年の禁令に先立 つ時期、知を重んじる人物としての哲学者像が、パリ大学を中心に大きな 熱狂を呼んだといいます。人間のうちで最も高貴だとされる能力、つまり 知性に即した生き方を選択するということが、理想として掲げられたとい うのですね。人間という種を「知性」と同一視するというのは、アリスト テレスに帰される人間観で、シゲルスはそこから、真に自己を愛するとい う自己愛、あるいは一種の「利己主義」の倫理を導き出しているといいま す。これが独身主義の背景をなしているらしいのです。 しかもその利己主義は、通俗的な利己主義とは一線を画し、自分の殻に閉 じこもったりはしません。学究生活において教育や論争が必要とされるよ うに、その「有徳の利己主義」は、他者との相互作用においてバランスを 取ることを重んじ、ゆえに他者との対等なやり取りへと開かれていきま す。アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で記した「仲間(ヘタイロ ス)内での友愛」が、こうして理想として掲げられます。いきおいそれ は、キリスト教の慈愛の概念と競合すると見なされ、禁令が糾弾する命題 に、220「慈愛は完全なる友愛よりも優れた善ではない」として挙げられ ることになります。 とはいえピシェによると、シゲルスが挙げている哲学的な存在の倫理はあ くまで初歩的なものでしかなく、それを十全に体現するのはむしろダキア のボエティウスなのだとか。その著書『善の頂きについて』(De summo bono)は、「哲学的な幸福主義」(とはいえ快楽主意ではあり ません)を標榜し、理性による人間の究極の善の探求を目的に据えている といいます。もちろんそれは、認識・存在の限界を明らかにした上で、そ の内部において追求する善ということで、いわば人間の「身の丈に合っ た」幸福論だというのですね。 ボエティウスもシゲルスと同様に、知性とは魂における最も崇高な部分だ とし、それ自体「神的」であると称しています。この背景には、ミクロコ スモスとしての人間とマクロコスモスとしての宇宙との、アナロジーにも とづく重ね合わせがあるとピシェは指摘しています。宇宙の中心をなすも のが「神」であるなら、人間の魂の中心をなすものもまた「神」に相当す る、というわけです。ボエティウスはその崇高な知性を、機能面から思弁 的能力(potentia speculativa)と実践的能力(potentia practica)と に分けて考えています。しかしながら、その両者の能力の発現、つまりは 両者の協働こそが、至高の善、つまりは地上世界での人間の幸福にいたる 道だと捉えています。 そんなわけですから、そこでの善は感覚的な快楽に求められるようなシロ モノではなく、タンピエが糾弾するような享楽的生活とは無縁です。むし ろそれはアリストテレス的な倫理学にもとづく求道的で禁欲的な生き方で す。もっとも、シゲルスのように一部の著者においては、アリストテレス からやや逸脱する形で、そうした禁欲的な生に独身主義を結びつけるわけ ですが、だからといって、節制と有徳の生き方が推奨されていることに変 わりはありません。 ピシェ本では、こうした倫理、特にその精神主義的側面が導かれた背景と して、アリストテレスそのもの以外に、アル・ファラービーやアヴィセン ナ、アヴェロエスなどアラブの論者たちの影響を指摘しています。そして そのこともまた、1277年の禁令にとっての糾弾の動機を与えた可能性が あるとしています。つまりこういうことです。知性を賛美する倫理がアラ ブ世界に由来していることから、ボエティウスなどの論者たちがイスラム 世界との共謀している可能性がある、と糾弾する側は見ていたというので すね。折しも十字軍の時代で、西欧のキリスト教世界にとって、イスラム 世界は政治的・宗教的な敵と見なされ、自由学芸部でのそうした人間観・ 倫理観も、敵とのつながりとして解釈されたというのです。やれやれ、禁 令の動機はなんとも複合的なものだったようですね。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その17) 今回の箇所以降は、前回掲げられた自問に対する自答が展開していきま す。さっそく見ていきましょう。 # # # Solutio dubiorum Ad primum istorum dico quod intellectus primo intelligit singulare intuitive. Tum quia intellectus intelligit illud quod est in re intuitive; sed nihil est tale nisi singulare. Tum quia hoc convenit potentiae inferiori, puta sensui, et est perfectionis; igitur etc. Item, illud quod cognoscit aliquid ut est hic et in hoc situ, in hoc et in hoc "nunc" et sic de aliis circumstantiis, perfectius cognoscit et est perfectioris naturae quam illud quod non sic cognoscit. Si igitur sensus sic cognoscat et intellectus non, intellectus esset imperfectior sensu. Ideo dico quod intellectus cognoscit intuitive singulare ut hic et nunc et secundum omnes condiciones secundum quas cognoscit sensus et etiam secundum plures. Unde angelus et homo sciunt perfectius ubi et quando hoc corpus movetur, et sic de aliis condicionibus materialibus, quam aliqua potentia sensitiva. 疑念の解決 最初の疑念については、こう述べよう。知性はまずもって個物を直観的に 理解する。一つには、知性が事物の中にあるものを直観的に理解するのだ が、そうしたものは個物以外にはないからである。もう一つには、それが 感覚などのより低位の能力に適合し、しかも完全なものに属しているから である。よって……以下略。 また、今この場所にあるものとして、あるいは今これこれにあるものとし て、あるいは他の環境についても同じように何かを認識するものは、その ような形で認識しないものよりもいっそう完全に認識するのであり、また いっそう完全な本性をもつ。したがって仮に感覚がそのように認識し、知 性がそのように認識しないのなら、知性は感覚よりも完全性で劣ることに なるだろう。ゆえに私はこう述べるのである。知性は個物を、今ここに存 在するものとして、また、感覚が認識するすべての条件のもとで、さらに は多数の条件のもとで、直観的に認識する。したがって、天使と人間は、 これこれの物体が動く場所や時を、また、その他の物質的条件を、任意の 感覚的能力よりも完全に知るのである。 Si dicas quod sensus requirit determinatum situm obiecti secundum lineam rectam et determinatum approximationem, sed intellectus non, ergo intellectus non cognoscit singulare, - contra: per eum sensus potest intuitive cognoscere rem absentem et non exsistentem. Igitur sine contradictione potest res videri sine situatione, saltem per potentiam divinam, et ita intellectus potest. Et sicut sensus non potest naturaliter videre obiectum nisi determinato modo approximatum et situatum secundum lineam rectam, ita nec intellectus potest naturaliter intueri rem apprehensam mediante visu, nisi sit determinato modo - et eodem modo quo sensui - approximata. Quia naturaliter nihil intuetur intellectus nisi mediante sensu exsistente in actu suo, sed supernaturaliter potest, et ita sensus. もしあなたが、感覚は直線と距離の限定にもとづいた対象の場所の限定を 必要するが、知性は限定を必要とせず、したがって知性は個物を認識しな い、と述べるとしよう。私は逆にこう述べる。その場合、感覚は不在の事 物、存在しない事物を直観的に認識できることになる。とするならば、事 物が場所の限定なしに見てとられうるとしても矛盾はない。少なくとも神 的な力をもってすれば可能であり、よって知性はそれが可能である。感覚 は、直線にもとづく距離と場所とによって限定されている場合にのみ対象 を自然に見ることができるが、同じように知性は、感覚と同じく距離に よって限定されている場合にのみ、視覚を介して把握した事物を自然に眺 めることができるのである。というのも知性は、現勢態として存在する感 覚を介する以外、何ものをも自然に眺めることはできないからだ。ただし 超自然にならそれは可能であり、感覚も同様である。 # # # 今回の箇所は、前回の疑念のうちの最初の二つ、つまり「知性は質料的条 件を捨象するので個物を理解できないのではないか」、「事物がない場合 にあると判断してしまうなら、直観的認識は知性を誤らせるのではない か」についての反論です。前者に対しては、知性が捕らえるのは感覚同 様、あくまで個物だと繰り返しています。後者については、感覚と知性は 普通、場所的に限定された事物を捉えることができるとし、一方で、事物 が場所に限定されていない場合でも、超自然による場合なら知性はそれを 認識できることが繰り返されています。不在の事物、存在しない事物の認 識は、必ずしも誤謬ではないのだというわけですね。もはや目新しい議論 ではありませんが、自然の事物に関する限り、オッカムにおいては(も) 感覚と知性とが一続きのものとして捉えられていることを、改めて押さえ ておきたいと思います。 さて、そろそろこのオッカムのシリーズも大詰めですので、少し目先を変 え、オッカム以後に焦点を合わせていきたいと思います。前にも少し触れ ましたが、スペキエス(可知的形象)を排するオッカムの認識論は、同時 代的にそう簡単に受け入れられるものではなかったようです。以前取り上 げたリーン・スプルイトの大著『知的スペキエス−−知覚から知識へ』 が、そのあたりのことをまとめています。たとえば英国では、オッカムの 同時代人であるリーディングのジョン、ウォルター・チャットン、さらに はオッカム後のオックスフォード第一世代の一人だったウィリアム・ク ラットホーン(ドミニコ会士)など、オッカムに批判的な立場を取る人は 後を絶ちませんでした。 フランスでも、ジャン・ビュリダンやその後のニコル・オレームなどは、 スペキエスの必要性を改めて訴えています。一方で、ニコル・オートル クールやミールクールのジャンなどは、スペキエスを不要とする論を展開 するらしいのですが、著者によれば、これらの論者はオッカムを読んでい るわけではないといいます。もっとも、そのあたりの対比はそれ自体で面 白そうなので、そのうち彼らの議論も検証してみたいところではありま す……。 スプルイトによれば、やがてリミニのグレゴリウスにいたって、スペキエ ス理論とオッカムの直観的・抽象的認識のスキームとを和解させようとす る動きが出てきます。グレゴリウスも基本的立場としてはオッカムに批判 的なようですが、それでも直観が知識の獲得において果たす役割を認め、 直観的所作と媒介的所作とを感覚・知性のそれぞれについて区別している のですね。これはつまり、オッカムがハビトゥスを置いたところに、再び スペキエスを置き直したということらしく、オッカムが抽象的認識と称す るものに、直観的認識によって生じる心的な内容物の存在、つまりはスペ キエスが必要だと考えているようです。スペキエスを道具的な原理と断じ たトマスなどからは大きくかけ離れています。 同時代的には、いわゆる「アヴェロエス派」もいます。彼らはスペキエス 問題をどう見ていたのでしょうか。13世紀の論者たちは、アヴェロエス の議論はスペキエスの擁護するものと見なしていました。オッカムはとい うと、アヴェロエス解釈にも同じ議論(スペキエス不要論)を持ち込み、 どうやら一種の折衷案的な見解を示しているようなのです(!)。能動知 性が生み出すのは普遍的概念か、もしくは心の中に主観的に存在する直観 的・抽象的認識だとオッカムは述べています。可能知性は直観的・抽象的 認識の両方を受け取るとされるものの、たとえばドゥンス・スコトゥスな どのように、可能知性が知解対象(つまりはスペキエス)を受け取って初 めて心的行為としての認識が生じるとは見ていないのですね。 オッカム以後の14世紀のアヴェロエス論者たち(フェランドゥス・ヒス パヌス、トマス・ウィルトン、ウォルター・バーリー、ジャン・ド・ジャ ンダンなどなど、様々な人が列挙されています)は、もちろんオッカムの そのような議論は受け入れていません。とはいえ、彼らが考えるスペキエ スは、これまたトマスとその一派が考えていたような原理的(形相的原 理)な性格のものではなく、感覚に由来する刻印(印象)であるとされて います。なるほど、スペキエス不要論自体はごく少数派のようですが、一 方でスペキエス自体の位置づけもかなり後退している印象です。とはい え、そうしたことを考えても、不要論を振りかざすオッカムの名はあまり に轟きすぎている印象を受けますね。これは後世の再評価によるものなの でしょうか。というわけで、もう少し、この後代の人々の動きを概観して いきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------