〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.219 2012/06/23 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その7) ダキアのボエティウスについて見ていますが、アラブ思想との関連を疑わ れたという以外に、やはりその思想内容そのものにも、教会の権威筋から の反動を呼び起こす面があったとピシェは記しています。それはつまり、 地上世界における哲学者の完全な自律性です。徳をもち、知性という人間 的リソースのみによって善に到達するという自己完結したその哲学者像 は、キリスト教の教えと真っ向から対立します。なにしろそちらは、地上 世界の人間をまったく無力なものと見、その救済には神の摂理が欠かせな いとするからです。 教会は、最高の善をもたらすのは知性の働きではなく慈愛の実践だと説く のですが、その立場からすると、哲学が主張するような知性を中心に据え た倫理観はおおごとです。かくして1277年の禁令では、糾弾されるべき 命題の一つとして、144「人間にとって可能なすべての善は、知性の徳性 において成立する」が挙げられています。 さらに、ダキアのボエティウスが抱く人間観にも問題視される要素があり ます。ボエティウスにおいては、思弁的知性による真理の認識と、実践的 知性による善の成就こそが人間の究極の目的とされ、その目的を追求する ことこそ、人間の本性に適う行動の拠り所になるとされます。するとそこ から逆に、すべての悪はそうした目的に則さない行動から生まれるという ことになります。悪しき行動の源泉には、欲望の「偏向」があるとされ、 そうした行動を取る者は「罪人」と断じられます。ボエティウスのこうし た人間観・罪人観について、ピシェは「哲学と神学のそれぞれの権能領域 を分かつ、張り詰めた綱の上を歩いている」かのようだと評しています。 つまり、神学側の専売特許(というと語弊がありますが)だった罪の問題 に、哲学の側からアプローチしているように見えてしまうからです。 ボエティウスはまた、人間がそうした(哲学的)最高善を目指すことに よって、信仰が約束する死後の幸福にも一層近づくことができるとし、哲 学的理想と信仰との間に一種の「架橋」をなそうとします。この「架橋」 という部分について、ピシェはイセットを批判しています。イセットは好 意的な解釈をし、ボエティウスが自然の徳性によって得られる現世での幸 福と、信仰によって来世に期待される幸福とを文字通り「接近させてい る」と見るらしいのですが、ピシェはむしろボエティウスが、神学者の側 に対して、自分たちは信仰に関わる案件を侵してはいないとアピールし、 安心させようとしていると見ています。 それでいてボエティウスの議論は、教会の教えと並行する形で、別の倫理 を擁護しているようにも取れるといいます。そのため、仮にボエティウス がそういうアピールをしていたのだとしても、その戦略は功を奏さず、教 会の権威筋からは、ボエティウスの議論が哲学の側からの「越権行為」に 見えてしまったというわけです。結局彼は教会側から目をつけられて糾弾 されてしまいます。当局からすれば、神学が教えるのとは別種の倫理を打 ち出している側面は看過できず、それを脅威として捉えたのでしょう。 イセットの解釈では、ボエティウスは信者として、哲学的観想のほかに 「聖なるもの」による超自然的な、至福へと至る道があることを主張して いたといい、その証拠として、ボエティウスの著書から、哲学的観想の究 極の目標とされる「第一の存在」はキリスト教の神と同一だとしている箇 所を挙げているというのですが、ピシェはこれについても、ボエティウス はそれらを同一と見ているのではなく、哲学の目的が宗教の目的と類比的 に重なり合うことを述べているだけだとの解釈も成り立つとしています。 タンピエや教会の権威筋なら、まず間違いなくそちらの解釈を取るので しょうね。 実際のところ、ボエティウスのこうした議論はどういう性格のものだった のでしょうか。ボエティウスはあえて教会側に挑んでいるのでしょうか。 それとも教会側の反応を読み誤った、つまり教会が介入してくる可能性を 甘く見積もったということなのでしょうか。もし後者だとするならば、そ うした甘い見積もりにいたる理由はどのあたりにあったのでしょうか。そ れほどまでに、自由闊達な物言いを許す雰囲気が実際に大学内に、あるい はその周辺に色濃く存在したということなのでしょうか。うーん、謎はま すます深まるばかりです(笑)。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その18) 前回の箇所に引き続き、「知性は質料的条件を捨象するので、個物を理解 できないのではないか」という疑念への応答です。 # # # Ideo dico quod habere cognitionem materialem dupliciter potest intelligi. Uno modo quod aliquis habeat cognitionem quae perficit materiam extensive sicut forma materialis. Et sic sensus habet cognitionem materialem et cognitionem quae est hic et nunc, quia visio corporalis extenditur in toto organo sive compositio ex materia et forma, et sic habet esse hic et nunc. Et isto modo intellectus abstrahit a condicionibus materialibus, quia intellectio est subiective in intellectu, non extensive in aliquo composito sive organo corporali. Et potest sic intelligi dictum commune de istis condicionibus materialibus quod "intellectus abstrahit" etc. / したがって私は、質料的なものの認識をもつことは二重の意味に理解でき ると述べよう。一つは、質料的形相がそうであるように、質料を拡がりに おいて完成させるような認識をもつことができるという意味である。感覚 はそのように、質料的な認識、今ここでの認識をもつ。というのも、物体 を捉える視覚は、器官全体、あるいは質料と形相から成る複合全体へと拡 がり、かくして今ここでの存在をもつからである。また、知性はそのよう な形での質料的な条件を捨象する。なぜなら、知的理解とは知性において 主体的になされるものであり、なんらかの複合もしくは器官において拡が りをもってなされるものではないからである。そうした物質的な条件につ いて一般的に言われる「知性が捨象する」云々も、そのように理解でき る。/ Alio modo potest aliquis habere cognitionem materialem quia cognoscit materiam sive obiectum materiale. Et sic intellectus divinus, angelicus et humanus habent cognitionem materialem, quia intelligunt non solum rem materialem sed etiam materiam; et sensus non potest cognoscere materiam. Mirabile enim esset, ex quo materia est res aliqua positiva, si non posset apprehendi ab aliqua potentia. もう一つは、なんらかのものが質料的な認識をもてるのは、それが質料も しくは質料的な対象を認識できるからだという意味である。神の知性、天 使の知性、そして人間の知性は、そのようにして質料的な条件をもつ。な ぜなら、彼らは質料的な事象のみならず、質料(そのもの)をも理解する からである。一方、感覚は質料(そのもの)を認識できない。質料がなん らかの実体的な事象であるという理由で、なんらかの潜在力によって把握 できないとしたら、驚くべきことであるだろう。 Et quando dicit quod Commentator, I Physicorum et III De anima, dicit quod materia non est intelligibilis, dico quod materia impedit illam intellectionem qua aliquid est intellectum et intelligens. Quia nihil potest intelligere nisi abstractum a materia, sic quod non indiget organo corporali ad intelligendum. 注釈者が『自然学第一巻』『霊魂論第三巻』で「質料は知解可能ではな い」と述べている、と彼が指摘するのならば、私はこう述べよう。知解対 象と知解者とを成立させるそうした知解を、質料は妨げるのである。なぜ なら、質料を捨象せずにはいかなるものも知解などできず、かくして知解 に際して身体的器官など必要とはされないからだ。 Ad aliud dicitur quod "cognitatio intuitiva naturaliter habita imprimitur ab obiecto et conservatur sicut lumen a sole. Ideo non facit intellectum errare", licet cognitio intuitiva supernaturaliter causata ponat intellectum in errore: もう一つの疑念についてはこう言われる。「自然に有する直観的認識は、 光が太陽によってそうであるように、対象によって刻印され保存される。 したがって知性が誤ることはない」が、超自然的に生じた直観的認識は、 知性を誤りに貶める場合がある、と。 Contra: ipse dicit quod notitia intuitiva potest esse naturaliter respectu non exsistensis - dico sensitiva. Igitur non est contra naturam notitiae intuitivae quod imprimatur et conservatur a non- ente. Et si sensitiva potest sic esse, igitur intellectiva. Consequentia probatur per eum, quia notitia intuitiva, intellectiva et sensitiva, quando habentur naturaliter semper coniunguntur. 逆に彼はみずから、直観的認識は、存在しないもの−−つまり私に言わせ れば感覚的なもの−−に対しても自然にありうると述べている。したがっ て、非在のものによって刻印され保存されることは、直観的認識の本性に 反してはいない。また、感覚的なものがそのようなものであるなら、知的 なものもまたそのようなものである。この結論は彼自身によって証されて いる。というのも、知的・感覚的な直観的認識は、それらが自然に有され ているときには、つねに接合しているからである。 # # # 知性と感覚は個物を捉えはするのですが、その後の処理は異なり、感覚は 個物を質料的な拡がりで捉え、一方の知性はそうした拡がりを捨象し、そ の捨象という操作において質料そのものを認識する……これが最初の二段 落(この箇所は便宜的に段落分けしています)の議論ですね。三つめの段 落からは「事物がない場合にあると判断してしまうなら、直観的認識は知 性を誤らせるのではないか」という疑念への応答になります。 ちょっと切り方が悪いので、中身についてのコメントは次回に持ち越しで すが、一つだけ。ここでいきなりある論者が指し示されています(訳とし ては「彼」としています)。参照している仏語訳での注によれば、これは どうやらペトルス・アウレオリのことのようです(未確認ですけれど)。 ペトルスは、前回も見たスプルイト本によると、オッカムに先立って認識 的行為は知性の活動のみで十分説明できるとした人物とされています。ゲ ントのヘンリクスに連なり、スペキエス不要論へと大きく傾いた論者だっ たのですね。 さてそのスプルイト本、今回も引き続き「オッカム後」について見ていく と、中世後期(14世紀末から15世紀にかけて)にオッカム思想との絡み で重要とされる人物としては、ピエール・ダイイ(1357〜1420)とガ ブリエル・ビエル(1425〜1495)の名が挙げられています。前者は オッカムというよりはリミニのグレゴリウスを継ぐ立場を取った人物で す。リミニのグレゴリウスは、スペキエス(可知的形象)の肯定論とオッ カム的なその否定論とを仲裁しようとしたとされていましたが、ピエー ル・ダイイはそれを踏襲する形で、オッカムの突きつけた問題、つまりス ペキエスを設定すると認識対象の直接的な把握が損なわれるという問題を 再び取り上げます。オッカムの直観的認識・抽象的認識の区別の枠組みを 用い、スペキエスの獲得は直観的になされるものの、スペキエスが表す対 象の認識は抽象的になされる、という議論を展開します。 一方、後者のビエルはオッカム思想の普及に一役買った人物とされます。 ビエルは『命題集注解』を残しており、それが15世紀から16世紀にかけ て印刷本として流布し、その後の「オッカム派」(というかオッカム思想 の信奉者たちでしょう)の参照テキストになったといいます。その影響は ルターにまで及んでいるのだとか。ビエルは感覚的スペキエス(可感的形 象)は不要であると断じ、これまたオッカムにならって直観的認識には知 的スペキエス(可知的形象)も不要だと主張します。さらに純粋に記憶的 なスペキエスすらも、ハビトゥスがあれば十分として斥けます。リミニの グレゴリウスやピエール・ダイイがハビトゥスに代わりスペキエスを置い たその同じ場所に、ビエルは再びハビトゥスを置き直す……さながら将棋 の駒取り合戦のようです(笑)。 スプルイトによれば、ビエルの時代にはスペキエスの議論にも視覚論の伝 統がしっかりと刻まれ、スペキエスはもはや積極的な媒介原理としての意 味をもたず、単に受動的に受け取る像のように見なされていたといいま す。スペキエスが対象の図像的複製でしかないとされるようになると、で は人間の知性はその「原材料」をどう処理するのかという難問が再び浮上 してきます。いきおい、認識能力と対象のみをもって知識の獲得を分析す るという立場は俄然有利になります。まさにそれがビエルの立場で、概念 も心像も認識行為の中にしかないと主張するのでした。 では、それによってオッカムの立場は再び注目を集めるようになっていく のでしょうか。事はそう単純ではないのかもしれません。当時は、一方で たとえばトマス主義などの復興もあり、また上のピエール・ダイイに見ら れるような批判的折衷案なども優勢で、オッカム的な立場は必ずしもすぐ に拡がりを見せるわけではなかった印象を受けます。とはいえ、このあた りはまだ思想的風景としてはっきりとした像を結んでこず、なにやらもど かしさを感じます。オッカム思想の変遷については、また別の角度からも 見てみる必要がありそうです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月07日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------