〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.221 2012/07/21 *お知らせ 本メルマガは原則として隔週での発行ですが、例年通り8月下旬まで夏休 みとさせていただきます。そのため次号は8月25日の発行となります。よ ろしくお願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その9) これまで見てきたように、ピシェの研究によれば、ダキアのボエティウス を始めとしパリ大学の自由学芸部を中心に提唱されていた哲学的営為によ る生の倫理は、教会当局の警戒心を煽り、その態度を硬化させる事態を招 きました。結果的に、1277年3月7日の禁令発布という形で、やや性急か つ偏った糾弾が行われることになったわけですが、これで事態はどう動い ていくのでしょうか。 パリ界隈だけで見ると、教会側のそうした保守反動の動きはある程度の影 響力をもっていたことが窺えます。禁令の序文にあったように、該当する 教説(哲学的)を教えたり聴講したりする者に対して、破門をちらつかせ て脅しています。おそらく、パリ大学の周辺は騒然となったのでしょう。 実際、ブラバンのシゲルスやダキアのボエティウスは審問に呼び出されま す。ですが彼らはパリを脱出しイタリアに逃れます。シゲルスはその後 (1283年ごろ?)オルヴィエートで亡くなりますが、その死の状況はよ くわかっていません。殺害されたとも言われています。またボエティウス のほうは教皇ニコラス三世への嘆願を申し出たりしますが、オルヴィエー トの教皇庁で捕らえられます。ボエティウスは後にダキアでドミニコ会士 となっています。結局、自説だった哲学的理想は捨てるしかなかったので しょうか。そのあたりもよくわかりません。 また、話はパリだけにとどまりません。タンピエの禁令から11日後の 1277年3月18日、今度はカンタベリーの大司教だったロバート・キル ウォードビーが30箇条から成る禁令を発布します。いわゆるオックス フォードの禁令です。これは同大学内でアリストテレスの学説を教えるこ とを禁じたものです。これについてまとめたものに、今読んでも色あせず 参考になる論文として、坂口昂吉「オクスフォードにおけるアリストテレ ス禁令について」(史学 34(1)、慶應義塾大学、1961年)があります (http://ci.nii.ac.jp/naid/110007409881)。それによると、オック スフォードの禁令は破門の脅しこそないものの、違反すれば事実上大学か らの追放処分を受けることを意味していたとされています。 この坂口論文によれば、タンピエの禁令とこのオックスフォードの禁令と の間には一つ抜本的な違いがあります。それは「形相単一説」の扱いで す。形相単一説というのは、アリストテレスにもとづく解釈で、トマスに 代表される説です。形相は「本質」の現勢化の原理ではあるけれども「存 在」の原理ではなく、形相のみから成るもの(人間の霊魂や天使)は神と は同一視されないという考え方をいいます。禁令の発布に関わったアウグ スティヌス主義者たちは、これに対して形相複数説を取ります。質料と形 相をそれぞれ可能態と現実態に結びつけて考え、形相のみからなるものは 神以外になく、天使も人間の霊魂もすべて質料と形相から成るとし、こう してあらゆるものに複数の形相の萌芽(未完成の形相)があることを認め るという考え方です。こちらは新プラトン主義的なアリストテレス解釈で あるため、アウグスティヌスの教えなどとも照応します。 タンピエの禁令には、この形相単一説を禁じる命題はありません。その意 味で、同禁令はトマスの教説を射程には入れていなかったらしいのです (実際、トマスの教説についての検閲を、タンピエは禁令後に別枠で行お うとして中止している経緯があります。教皇からの中止命令があったのだ とか)。一方のオックスフォードの禁令では、この形相単一説が俎上に上 がってしまっているといいます。 オックスフォードの禁令は、キルウォードビーの後を継いでカンタベリー 大司教になったジョン・ペッカムによって、形相単一説の禁止もそのまま に、再認され再発布されています(1284年)。ですが、同禁令は実際に 適用されて取り締まるには至りませんでした。現場からの反発が強く、し まいには教会当局からも不当だとされてしまいます。坂口論文は同禁令が そのような経緯をたどった原因を、その形相単一説の扱いに見ています。 形相単一説を採ると、たとえば神の業とされる無からの創造が、自然物の 生成・消滅にまで拡大されてしまうのではないか、あるいはキリストや諸 聖人の遺骸が、形相単一説では単なる土の塊にしかすぎないことになって しまうのではないか……。アウグスティヌス主義者からすれば、形相単一 説にはそうした危惧があるというのですが、実はトマスはそうした問題に 対応できる議論を用意していました。ところがキルウォードビーやペッカ ムはそうした理解を欠いていた、と同論文は述べています。 パリの禁令発布に教皇からの指示があったかどうかは微妙な問題とされて いますが、坂口論文では、指示書が見つかっていないだけではないかと し、状況証拠として、禁令発布後に教皇が憤慨するようなこともなく、4 月18日の書簡ではパリ禁令の履行を命じていることなどから、教皇庁が 禁令に関係していた線が濃厚だと捉えています。一方のオックスフォード の禁令は、パリの禁令に刺激されたと考えられるものの、教皇庁からの指 示はなかったようだとのことです。当時の高位聖職者の間ではアウグス ティヌス主義が圧倒的に優勢で、フランシスコ会のみならず、ドミニコ会 の中にまである程度浸透していて、その文脈で異教思想の流入への警戒感 が高まり、キルウォードビー(ドミニコ会)とペッカム(フランシスコ 会)はそうした流れを受けて禁令を発布したものの、一方でトマス主義も 拡大しつつあり、その政治的勢力を過小評価するというミスを犯したので はないか……これが坂口論文の大きな見取り図になっています。このあた り、なんとも人間臭くて興味深い話です。形相単一説をめぐるこうしたい ざこざは、フランシスコ会とドミニコ会の間で論争にまで発展していきま す……。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その20) 『レポルタティオ』第二巻の問一二・一三は今回でひとまず終了になりま す。最後のところを早速見ていきたいと思います。 # # # Igitur (…) licet intentio vel species, si poneretur, aequaliter assimilaretur multis individuis, tamen ex natura sua determinat sibi quod ducat intellectum in cognitionem illius obiecti a quo partialiter causatur quia ita determinat sibi causari ab illo obiecto quod non potest causari ab aliquo alio. Et ideo sic in eius cognitionem ducit quod non ducit in cognitionem alterius. したがって、(……)志向性またはスペキエスを措定するならば、いずれ も同じように複数の個に類似することになる。しかしながらその志向性 は、その本性ゆえに、部分的原因をなしているその対象の認識へと知性を 導くようみずからを限定するのである。なぜならその志向性は、その対象 から生じるように、またほかの何かから生じることはできないようにおの れを決定づけるからだ。だからこそ、その志向性はその対象の認識へと導 くのであり、ほかの対象の認識には導かない。 Si dicas quod illa intentio potest immediate causari totaliter a Deo; et tunc per illam intentionem non plus intelligeret intellectus unum singulare simillimum quam aliud, quia tantum assimilatur uni sicut alteri. Nec causalitas facit ad intetionem unius et non alteirus, quia a nullo causatur sed a solo Deo immediate: 仮にあなたが、その志向性はすべて、直ちに神によって生じることが可能 なのだと言うとしよう。すると知性は、その志向性によって、最大限に類 似する単一の個物をほかよりもよく理解することはできないことになって しまう。なぜならその場合、その単一の個物にも他のものにも同様に類似 してしまうからだ。(この場合には)因果関係も、ほかでもない単一の個 物への志向性をなしはしない。なぜなら志向性はいかなる対象物によって も生じず、ただ神によってのみ直ちに生じるからである。 Respondeo: quaelibet intentio creaturae causata a Deo potest a creatura causari partialiter, licet non causetur de facto. Et ideo per illam intentionem cognoscitur illud singulare a quo determinate causaretur si causaretur a creatura; huiusmodi autem est unum singulare et non aliud, igutur etc. Ad aliud dico quod in intellectu potest esse aliqua cognitio abstractiva per quam nec iudico rem esse, nec non esse, nec fuisse, sicut supra determinatum est, ideo modo transeo. 私はこう答えよう。神によって生じた被造物の志向性はいずれも、事実上 は被造物によって生じるものではないにせよ、部分的にはその被造物から 生じうる。ゆえにその志向性によって、知性はその個物を認識するのであ り、その志向性が被造物から生じるのであれば、その個物によって限定さ れて生じるのである。その意味で個物は単一でありほかのものではない。 したがって云々。 もう一つの異論についてはこう述べよう。知性には、なんらかの抽象的認 識が存在しうる。上で論じたように、事物が存在するとも存在しないと も、存在したとも私が判断しない認識である。これゆえに私は次へと議論 を進めよう。 # # # 「類似した個物が複数ある場合には、知性はそのすべての類似物を類似に よって捉えてしまい、特定の個物を理解できないのではないか」という疑 念に対する応答の続きですが、今回の箇所では「志向性」(intentio)が 問題になっています。志向性というのは、要するに対象へと向かうベクト ルということですが、これはちょうどスペキエスと背中合わせの議論に なっています。全体の復習というかまとめとして有益なトピックですの で、ちょっと長めに触れておきましょう。 割と最近刊行された『西洋哲学史』(神崎繁ほか編、講談社選書メチエ) 第二巻所収の、藤本温「志向性概念の歴史」という論考が参考になりま す。同論考によれば、たとえばトマスは、対象の心的な形成物である形象 (スペキエス)をもって「志向的存在」と見なし、外在する個物そのもの と区別します。つまりスペキエスが認識する主体と外的な対象物とを仲立 ちすることになります。スペキエスは心的に受け取る形相であるとされま す。形相は事物のかたちをなす原理なのですから、スペキエスは事物から の働きかけで心的に形成されるものと見なされ、主体はあくまでそれを受 け取る側です。ということは、主体の志向は外的な事物によって規定され ていることになります。このように、トマスにおける志向性は受動的側面 に重きを置いた解釈なのですが、これとは正反対の解釈を打ち出すのがフ ランシスコ会系の何人かの論者でした。 その一人に、前に私たちも見たペトルス・ヨハネス・オリヴィがいます。 オリヴィはスペキエスの必要性を認めず、認識能力が「能動的に」外的な 対象物に注意を向けるのだと論じます。外的な対象物を能動者(作用因) と見なすトマスとは逆に、認識する主体こそ能動者だとオリヴィは考えま す。オリヴィににとっての外的な対象物は、あくまで目的因(終端)をな すにすぎません。とはいえ、オリヴィはスペキエスをすべて排除している わけではありません。これに対してオッカムは、以前にも触れたように、 スペキエス不要論をさらに突き詰めていきます。 オッカムも初期の議論では、心的に写像されたもの(フィクトゥム、つま りは概念)を志向的存在と見なし、別種の心的にリアルなもの(ハビトゥ スなど)から区別していました。後者は心的機能として存在するのに対 し、前者はいわば単なる記号にすぎません。ところが後にウォルター・ チャットンの批判を受けてこれを取り下げ、オリヴィ的に認識活動そのも のを概念と規定するようになります。上の本文では、仮定としてスペキエ スもしくは志向性を考えた場合でも、それらは外的な対象物である個物の 本性によって限定されている(つまり他の個物から区別される)と論じて います。『レポルタティオ』はオッカムの講義(1317年から18年ごろに 行われたロンバルドゥスの『命題集』についての講義)の記録で、初期の 議論を反映したものだと思われますが、ここでの志向性の議論は、外的な 事象が作用因をなしているという考え方が窺えるとはいえ、それはあくま で仮定の話として、いわば括弧付きで扱われています。このあたり、もし かすると後期の考え方へとシフトする兆しがすでにして見られる、という ことなのかもしれません(?)。 ちなみに最後の段落は、「直観的認識に完全・不完全の区別を設けると、 抽象的認識の存在自体が不要になるのでは」という最後の疑念への回答で すが、この問題の詳しい話は次章へと持ち越す形になっています。次章に あたる問一四は、「天使が受け取る認識は精神的事物のものか、物体的事 物のものか」という問題を扱っています。そこでの全体的な議論は、天使 は(人間の霊魂と同様に)直観的認識と抽象的認識をもち、事物から不完 全な抽象的認識(すなわち直観的認識に伴う抽象的認識)を得、それを通 じて個物から普遍を抽出でき、さらには付帯的な複合命題、必然的な複合 命題も認識が可能である、といった話が続きます。天使と人間の霊魂とが 一続きであることがそこでも繰り返し言及されています。 で、肝心の直観的認識の完全・不完全の区別と抽象的認識の併存の話です が、これは問一四の最後のほうに出てきます。直観的認識は対象の存在・ 非存在の判断を伴う認識でした。オッカムは現在時制での存在・非存在 (大半の命題はそうですが)を問う場合を完全、過去時制ないし未来時制 が絡む判断の場合を不完全な直観的認識とし、そうした判断を伴わない純 粋な抽象的認識から区別します。不完全な直観的認識は現在的な存在・非 存在の判断を含んではいないので、抽象的認識の一種と捉えることもでき そうですが、判断をいっさい伴わない純粋な抽象的認識とは異なるものと して措定しなくてはならないのは、それがハビトゥス(習慣・性向)の成 立原理をなすからだとされます。反復的な認識などの心的機能を説明づけ るハビトゥスゆえに、直観的認識には完全・不完全の区別は設けられ、一 方では命題の操作のために純粋な抽象的認識も温存されなくてはならな い……オッカムはそう考えているのですね。 さて、このところ見ていたオッカム思想の受容の問題ですが、今回はそち らにまで触れる余裕がありませんでしたので、夏休み明けの次回、例のコ トニー本を参考に、特別編として記述をまとめてみたいと思っています。 それでは皆様、良い夏休みをお過ごしください。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は夏休み後の08月25日の予定で す。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------