〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.224 2012/09/22 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その12) 前回に引き続き、論理学への禁令の影響を探ったアッケルマンの論文を見 ていきましょう。前回見たように、タンピエとキルウォードビーの禁令が カバーしていた代表的な論理学トピックには、様態論(必然・偶有などの 議論)と時間論(時間の永続性をめぐる議論)がありました。14世紀に 最も影響力のあった英仏の二人の論理学者、トマス・ブラッドワーディン とジャン・ビュリダンを始めとし、当時の論者たちはタンピエの禁令を熟 知していたといいます。この二人の場合、いずれもそれぞれの著書の中で 禁令の中身に言及しているのですね。彼らは禁令が取り上げた問題を周到 に(仕方なく?)回避しながら議論を進めているのだとか。15世紀にな ると、ジャン・ジェルソンなどが自由学部の限定範囲の問題を蒸し返し、 世界の始まりといった哲学的に論証できない問題を哲学が取り上げている ことを嘆いているともいいます。 そうした意味では、禁令がなんらかの枠組みを設定したという効果はあっ たということが言えそうです。とはいえ、これは哲学の全体的な流れにお いてそうだということであって、論理学プロパーで禁令に言及する例など は見当たらないようです。 アッケルマンの論考の中身を追っておきましょう。まず様態論に関してで すが、14世紀の哲学者たちの間では、神にとっての唯一の制約があると すれば、それは論理的もしくは概念的必然性(一貫性)だとされていまし た。論文著者は、その意味で禁令は「必然の正しい本性または概念とは何 か、それえをどうモデル化できるのか」という問題(これは実に現代的な 問題機制ですが)へのある種の解答と見なすこともできると指摘していま す。その解答とは、「少なくとも神に関わる限りにおいて、必然の正しい 概念とは論理的必然のことであり、厳密な必然の概念を表す上で論理学は 有益なツールではあるが、真理への導きをなすわけではない」ということ に尽きます。とはいえ著者は、これが「現代的な」論理学の反応だと但し 書きをつけています。 14世紀の思想状況にあっては、二重真理説は禁令によって否定されてい て、論理学を含む哲学はあくまで神学に仕える身とされていました(少な くとも建前の上では)。そのせいもあって当時の論理学者は、アリストテ レス論理学に準拠し、様態を示す文相互の関係性を考察し、様態に関する 推論の有効性へと進むのみで、必然の本性とは何かとか、個々の様態文の 真理値の条件は何かとかいった問題にはまったく関心を寄せていなかった といいます。唯一例外的とされるのがドゥンス・スコトゥスで、可能態の 本質について思考を巡らしていました。スコトゥスは様態の根拠を神の知 性に見ます。理解ないし概念化されるものはすべて神の知性において理解 可能・概念化可能なものとしての存在を与えられているとされ、一方で概 念は論理的な両立可能性によっていくつかの存在に下位区分されるのです が、神がある区分を現実化する場合、それとは両立できない別の区分は可 能態として取り残されます。この可能態の議論に、多くの研究者は、可能 世界を用いて様態命題を評価するというはるか後代の思想(近代以降)へ の対応物を見ようとしてきたのですね。スコトゥスは(当然ながら禁令に ついては熟知していたと思われます)神の絶対性という枠組みの中にあり ながらも、その外側へと歩を進める重要な一段階をなしていた、というわ けです。 時間に関する議論についても様態論と同様、中世盛期においては厳密な意 味での時間論理学は存在しておらず、時間の諸属性を個別に検証するとい うようなことはなされていませんでした。ただ文における時制について代 示理論で考察したりはしていました。現在時制の命題において、項の代示 は現存する対象のサブセットと見なされます。一方、過去時制や未来時制 の命題では、その動詞(の時制)により、代示は現存する対象ばかりか過 去や未来の対象にまで「拡張される」と見なされていました。一方でキル ウォードビーの禁令では、「現在時制の動詞をともなう項は、異なるすべ ての時制に割り当てられる」という命題が非難すべきものの一つに挙げら れていました。これはつまり、過去時制や未来時制は現在時制で言い換え が可能だとするアウグスティヌスの考え方に準拠し、項の代示は動詞の時 制の如何にかかわらず、基本的に現在時制にのみ関係しているという議論 のみ容認するということのようです。ですが、禁令を経た後での代示拡張 の議論がどうなっていったのか、教会当局側からの働きかけで議論が「変 わる」というようなことがどの程度あったのかどうかははっきりしない、 と著者は述べています。 こうしたことに鑑みて、著者はこう結論づけています。論理学的な諸問題 へのタンピエとキルウォードビーの禁令の影響は、一見実に小さく見えま すが、実はそれは、現代的な基準を中世の論理学に投影してしまうからと いう側面もあるのではないか……。たとえば様態論や時間論において、現 代の論理学者ならばそれらの属性をモデル化して公理を見出し、そこから の帰結を論証しようとします。けれども中世の論理学者たちは、様態文の 推論上の関係性とか、時制をともなう文の項が何を指示しているかとか、 そうした問題にのみ関心を寄せていました。そうした特徴や目的の差を理 解しなければ、禁令が自然学の発展にもたらした影響(グラントが論じて いたような)に相応するような影響が論理学にもあったかどうかは見えて こないのではないか……。 うーん、影響関係が見えてこないのは、私たちの視座の側の問題……なの でしょうか。たしかにそういう側面もなくはないでしょうし、当時ありえ たパースペクティブをできる限り再構成し、そこから微細な動きとして 残っている影響関係を裏付けていくというアプローチが重要であることに 異論はありません。ただ、なかなか像を結んでこない理由の一つには、史 料の開示・解読がまだまだ進展していないからだという面もありそうに思 えます。難しい問題ですが、とりあえず私たちは、見識を多方向的に拡げ ていく努力だけは積み重ねていきたいと思う次第です。というわけで、そ ろそろこのシリーズのまとめも念頭に置きつつ、これまで出てきたような 各議論の全体を捉えて再検証しようとする論考をもう一つばかり取り上げ てみたいと思います。……それは次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その2) 前回から新たに、リミニのグレゴリウス『命題集注解第二巻』から問34 を読んでいます。まだ冒頭の序の部分です。では今回のテキストを早速見 ていきましょう。 # # # Contra. Deus est immediata causa efficiens saltem partilis omnis entitatis; igitur et peccati actualis. Antecedens patet per illud Augustini 83 Quaestionum quaestione 16: "Deus omnium quae sunt causa est". Et Iohannnis 1: "Omnia per ipsum facta sunt". Consequentia probatur ex definitione per eundem data de peccato in libro De duabus animabus, ubi ait quod "peccatum est voluntas retinendi vel consequendi quod iustitia vetat et unde liberum est abstinere"; et constat quod ibi defiit peccatum actuale. Voluntas autem quaelibet est entitas aliqua; igitur et peccatum est entitas. Ex quo patet consequentia. 異論。「神はいずれにしてもあらゆる実体の部分的な作用因である。した がって現実の罪の作用因でもある」。この異論の前段部分は、アウグス ティヌス『八三の問い』の問一六の次の部分から明らかである。「神は、 存在するすべてのものの原因である」。さらに『ヨハネによる福音書』第 一章にはこうある。「すべては神により創られた」。結論部分は、同じア ウグスティヌスが『二つの魂について』で罪について与えた定義から論証 される。彼は同書で「意志における罪とは、正義が拒むことに、思いとど まる自由があるときに固執し、それを引き起こしてしまうことにある」と 述べ、それが現実の罪を定義していると明言している。ときに意志とは、 何らかの実体をいう。したがって罪もまた実体である。このことから、結 論部は明らかである。 In dissolutione huius quaestionis tres erunt articuli: Nam primo videbitur, utrum malum sit aliqua entitas et an sit aliqua efficiens causa mali. Secundo videbitur, utrum peccatum sit entitas aliqua et quomodo peccatum sit malum. Tertio videbitur illud quod quaeritur principaliter. この問題を解決するため、三つの項目を立てよう。一つめでは、悪が何ら かの実体で、悪には何らかの作用因があるのかどうかを検討しよう。二つ めでは、罪は何らかの実体であるのかどうか、またいかなる意味で罪は悪 であるのかを検討しよう。三つめでは、(この章で)主として問われてい る問題について検討しよう。 Articulus 1 (De acceptione mali) Quantum ad primum articulum praemitto quod malum potest dupliciter accipit: Uno modo pro eo quod denominatur malum, sicut dicimus hominem malum et angelum malum et aurum malum, et sic de aliis; alio modo pro eo unde primo aliquid denominatur seu est malum primo modo. Primo modo cum loquitur de malo, hoc nomen malum sumitur adiective. Cum autem loquitur secundo modo, sumitur substantive et est synomymum huic nomini "malitia", quod evidentius retinet formam nominum abstractorum et principalium, a quibus concreta et quae vocantur sumpta derivatur. 第一項 (悪の意味について) 最初の項目ではまず、悪には二つの意味がありうることを示す。一つめの 意味は、私たちが「悪しき人間」とか「悪しき天使」「悪しき金貨」な ど、悪と名づけられる対象を意味する。もうひとつの意味は、何かが一義 的に悪と名づけられる場合、あるいは一義的に悪しきものである場合の意 味である。悪について私たちが最初の意味で言う場合、悪という名辞は形 容詞として使われる。一方、二つめの意味で言う場合には、名詞として使 われ、「悪徳」という名辞と同義になる。その場合は明らかに、抽象およ び原理を表す名辞の形相を保持し、そこから具体的なもの、呼び名として 用いられるものが派生するのである。 # # # 今回の箇所の最後に出てきた、形容詞として用いられる「悪」とそれ自体 が名辞として用いられる「悪」の区別は、この後の議論において重要な役 回りを果たしそうな雰囲気です。少し先走ってしまいますが、このあたり のことを見ておきましょう。二つめの意味での「悪」は、存在論的な解釈 をする場合に問題になってきます。アウグスティヌス的に「悪とは善の欠 如である」との定義を採用する場合、欠如であって実体がないものを、言 葉の上では実体があるかのように表していることになります。すると、実 体でないものを項として立てることがいかに可能なのか、という問題が提 起されます。ここから、グレゴリウスの考える「複合的意味対象」 (complexe significabile)へと話が繋がっていきます。 複合的意味対象とは何かというと、これは複合命題が縮減されて意味をな す対象(命題における項)をなしているような場合を指しているようで す。グレゴリウスの場合、これは学知の対象をどう考えるかという文脈で 出てくるといいます。スタンフォードのオンライン哲学百科によれば、学 知の対象とは三段論法の結論であるというオッカム説や、学知の対象は精 神の外部にある事象で、肯定・否定の両命題によって意味される中立的な もの(たとえば、「ソクラテスは座っている」と「ソクラテスは座ってい ない」という命題における学知の対象とは、「座るソクラテス」だという ことになります)とするチャットン説があるのですが、グレゴリウスはこ れら両者を否定し、アダム・ヴォディハムの説に与しているとされます。 つまり、あらゆる命題はそれ自身で完全な意味対象をもっており、「座っ ているソクラテス」と「座っていないソクラテス」は別々の事象として、 学知の対象をなしているというのですね。 同オンライン百科によれば、複合的意味対象は従来、グレゴリウスの考案 と考えられていたものの、どうやらヴォディハムの概念を焼き直したもの らしいとのことです。一口に言えば、それは世界の事物のアレンジメント (心的な?)を指すとされます。ここで底本としている『倫理的行いと正 しい理性』のイザベレ・マンドレラによる序文も見ておきましょう。それ によると、グレゴリウスはどうやら罪を複合的意味対象として考えること により、神を罪の根源と見なすことの可能性を開いているらしいのです。 悪と悪しきものとを分けて考えることは、その際のポイントになってくる ようです。 今回はまだその罪をめぐる議論にまでは立ち入りませんが、とりあえず、 複合的意味対象について押さえておきたいので、悪についての議論を先取 り的に見ておきます。同序文では足が悪い例が挙げられています。足を引 きずることは、人にとって悪しきこととして表されますが、足を引きずる 状態そのものから悪が導かれるわけではありません。足を引きずる状態は 限定的・特殊な状態で、常態的に実体として存在するわけではありませ ん。ですがグレゴリウスはここから、足が悪い状態というのが複合的意味 対象であることを見て取ります。複合的意味対象とは、不定詞の形でのみ 真とされるような命題が、文の形で表現されたものと説明されています。 ここで悪とは欠如であって実体ではないというアウグスティヌスの定義を 再び持ち出すなら、「足を引きずるのは悪しき状態である」という命題も 真ということになります。これが「足を引きずる人」とか「びっこの足」 などと具体的に表現される場合に、それは悪しき状態だという表現になり えます。これが、「足が悪いこと」は複合的意味対象であるということな のでしょう。罪もまた、「正しい理性に反する自由意志の行い」と定義さ れるとすると、同じように複合的意味対象となります。 複合的意味対象というのはきわめて唯名論的な概念であることが改めてわ かります。実体をともなわない事象も、それが複合的意味対象をなす限り において実体に準じた形で取り扱うことができる、ということがこうした 議論の肝をなしているようです。うーん、少しまだ厳密な理解ではないよ うな気もしますが(苦笑)、こういう理解でよいのかどうか、それがたと えば認識論その他にどのような帰結をもたらすのか、といったことも追々 見ていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------