〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.227 2012/11/03 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その1) 前回までは1277年の禁令という、古くからある問題をあえて取り上げて みました。で、今度はさらに手垢のついた(?)古典的問題を見てみたい と思います。すなわち、自由七科の成立に絡む、学問分類という問題で す。これもまた縦断的に見直してみようというのが今回のこのシリーズの 主旨です。よく知られているように、自由七科は言語に関わる三科(文 法、論理学、修辞学)と、数字に関わる四科(算術、幾何、音楽、天文 学)から成ります。少なくとも中世においてはそういう形で整備されてい ました。ですが、一方でこれがどう成立したかについては、意外なことに 不明な点ばかりが目につきます。 自由七科はもちろん、中世の大学での教科として確立されたわけですが、 それ以前のローマ時代に、すでに自由人(奴隷ではないという意味での) が学ぶべき基本的諸学として自由学科(アルテス・リベラレス)が挙げら れていました。一方で奴隷には、習熟すべき術として、元来は手を使う諸 学という意味の機械的技術(アルテス・メカニカエ)があてがわれていた とされます。ここにおいて、すでにして手と頭の対立という構図が見ら れ、それが自由人と奴隷との対立に重ねられていたわけです。 自由学科の成り立ちは、さらにギリシア時代にまで遡ります。これもよく 知られていることですが、そうした学問の価値付けを示したテキストの一 つに、プラトンの『国家』があります。その第七巻の六章に、国を治める 人々が身につけるべき学問とは何かという話が記されています。そうした 学問はまずもって生成・消滅する事象に関わるものであってはならず、移 り変わることのない真理に関わるものでなければならない、とされます。 そのため、まずは身体という生成・消滅するものに関わる術である体育が 斥けられ、次に、調和の感覚や秩序の感覚、あるいは習慣的なものばかり を授け、確たる知識を授けるものではないとされる音楽や文芸一般が斥け られます。もちろん、それらも大事な初等教育をなすわけなのですけれ ど、民衆のトップに立つエリート教育、賢人教育にあっては、そのような ものは重要とは見なされません。代わりに、そうした指導者たるべき人々 が学ばなくてはならない学科として、数と計算に関わるものが挙げられま す。 感覚がもたらす不明瞭な対象を知性が区別するというのがそもそもの基本 的図式なわけですが、その際に知性はまず対象を一か二かなどと区別しま す。その意味で、まずは数について知らなければならないということにな り、かくして数論と計算(合わせて算術)が、統治者になるべき人々が最 初に学ぶべき学科だとされます。プラトンが(対話編の中ではソクラテス が)、数の学について「学習する者に対して多くの苦労を学科」はほかに ないと述べていることも興味深いですね。 それに続く第二の学科として幾何が挙げられます。プラトンの教説では、 究極には学知の目標は「善」の実相(すなわち真理の実在の領域)を見て とることとされ、諸学はそれに寄与するものでなくてはなりません。幾何 は、「常にあるもの」、つまり生成・消滅に関わらないものを知ろうとす る学問であることから、そうした学知の目標に沿うものであるとされま す。幾何は平面を扱う学科ですが、続く第三の学科として立体を扱うもの が構想されています。しかしながらそのあたりの記述は曖昧で、対話相手 のグラウコンは、そうした事柄はまだ完全には発見されていないと述べ、 ソクラテスはそれを受けて、立体を扱う研究を指導する者の不在を嘆きま す。というわけで、それがどんな学問なのかはっきりしないまま話が進ん でしまいます。 そして第四の学科として天文学が据えられます。ソクラテスはここでも但 し書きのような文言を挟み、感覚される事物ではなく、目に見えない実在 をこそ目指すものでなくてはならないとし、(当時行われていたとされる ような)天空を観察するにとどまらず、それを突き抜けた真理にまで突き 進むことを条件としています。「現状」の天文学をよしとせず、形而上的 な「彼方」を目指さなければならないというわけですが、次いでこれと対 をなすものとして、音階の調和をなす運動についても、感覚を越えた知識 を目指すべしというようなことが示されます。このあたり、ピュタゴラス 派の教説として取り上げられているわけですが、それにしても、いったん は感覚的なものとして斥けられた音楽が、ここで再び言及され昇格されて いる(?)のは興味深いところです。後代の自由七科において、音楽が四 科の第三の学科に組み込まれた論拠というのはそのあたりにあるのでしょ うか。 ですがそれはプラトンの意図するところとは若干違っています。この復活 の経緯は大変興味深い問題ですね。この四科は、抽象性という観点からす れば、算術・幾何・(立体学?)・天文学と、徐々に具象的なものへの関 わりが増してくることがわかります。序列的な考え方がすでにして支配的 だということなのですが、その意味では、音楽は天文学に並ぶか、それよ りも後に位置づけられそうなものです。それがどういう経緯で三番目にシ フトしているのか、今一つ曖昧です。さらにそれとは別に、言葉に関わる 三科のほうはどこからこの体系に入ってきたのかが大きな問題として残り ます。……というわけで、このあたりの話は面白そうな「空隙」がいろい ろありそうです。しばらくはこうした話を、古代から中世にかけてめぐっ てみたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その5) 『命題集注解第二巻』の問三四の続きです。端的な悪もしくは「悪しきも の」とは実体ではなく、あるべき善の欠如・不在である、という第一の結 論について論証しています。さっそく見ていきましょう。 # # # Item Leo papa in epistola ad Thorulum Austrigensem episcopum contra errores Priscilliani capitulo 6: "Fides, inquit, vera quae est catholica omnium creaturarum sive spiritualium sive corporalium bonam confitetur esse substantiam et mali nullam esse naturam". Item Anselmus De casu diaboli capitulo 5; "Malum, inquit, non est aliud quam non-bonum, aut absentia boni ubi debet aut expedit esse bonum. Quod autem non est aliud quam absentia eius quod est aliquid, utique non est aliquid". Et simile dicit De conceptu virginali capitulo 5. Aliae auctoritates plures adduci possent. Sed istae sufficiant. また、教皇レオがアストゥリアの司教トルルスに当てた書簡「プリスキリ アヌスの誤りへの反論」の六章にはこうある。「真の信仰、すなわちカト リックの信仰は、霊的・物体的なすべての被造物の実体は善であり、いか なる本性も悪ではないことを認めるものである」。 また、アンセルムスは『悪魔の失墜について』第五章でこう述べている。 「悪とは非・善、あるいは善があるべき場所、もしくは善がなされる場所 で、その善が欠如していることにほかならない。他方、何かであるものの 欠如にほかならないものは、いかなる場合でも何かではない」。同様のこ とを、アンセルムスは『処女懐胎について』第五章でも述べている。 ほかの多くの著者たちを付け加えることもできるが、以上で十分であろ う。 Secundo declaro concluisonem ratione, et suppono unum quod est evidens, scilicet quod omne, quod denominatur malum, vel denominatur malum ad se seu absolute, quemadmodum dicitur aurum malum et vinum malum et sic de aliis, aut denominatur malum in ordine ad aliud, videlicet quod alicui dicitur malum sicut venenum dicitur esse homini vel alteri animali malum. In utrisque probatur propositum. Et de primis sic: Quaelibet res, si careat aliquo bono sibi debito, dicitur mala, quicquid aliud ipsa habeat vel non habeat. Et si non careat aliquo tali bono, quicquid aliud habeat vel non habeat, non dicitur mala. Ergo quaelibet res primo ex carentia alicuius boni debiti dicitur mala. Ex quo sequitur propositum, sicut patet. 第二に私は合理にもとづいてこの結論を明らかにし、一つの明証を掲げよ う。すなわち、悪しきものと称されるすべてのものは、それ自体で悪、も しくは絶対的な悪と称されるもの−−つまり悪しき金とか悪しきワインな どと言われるもの−−か、もしくは他のものにとって、秩序立って悪と称 されるもの−−つまり毒が人間やほかの動物にとって悪をなすと言われる ように、明らかに何かにとって悪と言われるもの−−のいずれかである。 いずれの場合にも、大前提は論証される。前者の場合には次のように論証 される。いかなる事物も、しかるべき善をどこか欠いているとき、ほか (の属性)をどれほど有していようと、あるいは有していまいと、それは 悪しきものと言われる。また、かかるなんらかの善を欠いていないなら、 なにか(の属性)をどれほど有していようと、あるいは有していまいと、 悪しきものとは言われない。したがって、いかなる事物もまずは、しかる べきなんらかの善を欠いていることによって悪しきものと言われるのであ る。明らかなように、大前提はそこから導かれる。 Consequentia est evidens. Et antecedentis prima pars partet; nam quaelibet res eo ipso, quod caret aliqua perfectione sibi debita, imperfecta est et vitiosa, ac per hoc mala censetur. Unde, ut ait Augustine 3 De libero arbitrio capitulo 33: "Tantum additur malitiae vitiorum quantum naturarum integritati minuitur"; et propterea paulo post subdit: "Quod perfectioni naturae deesse conspexeris, id vocas vitium"; et in principio sequentis capituli dicit quod id recte vituperas, "quod non ita est ut debuit". 結論は明白である。前提の最初の部分も明らかである。なんらかのしかる べき完全性を欠いているいかなる事物も、不完全であり堕落したものであ る。そしてそれゆえ悪と評価される。よって、アウグスティヌスが『自由 意志について』第三三章で述べているように、「本性の完全性が減じるほ ど、不完全さという悪徳が増えていく」。さらにその少し先にはこう付け 加えている。「本性の完全性が欠如していることを見つけるとき、あなた はそれを悪徳と呼ぶ」。さらにその次の章の冒頭では、あなたが正しく咎 めるのは「しかるべきであるようになっていないもの」だと述べている。 # # # 今回の箇所で目新しいのは、最初の段落に出てくる教皇レオ(一世:在位 440〜461)の書簡ですね。Documenta Catholica Omniaのサイト に、『書簡集』のラテン語テキストと英訳(http:// www.documentacatholicaomnia.eu/04z/ z_0440-0461__SS_Leo_I._Magnus__Epistolae__EN.doc.html)がそ れぞれあります。引用元は同書の第一五書簡です。もとのテキストでは司 教の名前がトゥリビウスになっています。グレゴリウスの引用の正確さか らするに、この相違は写本の誤り(グレゴリウスのテキストでの?)の可 能性があります。アストゥリアはスペイン北西部の地域ですね。同書簡で 批判されているプリスキリアヌスは4世紀のアビラの司教で、グノーシス =マニ教的な流れを汲む教義を説き異端とされた人物です。ウィキペディ アによれば、その教えはプリスキアヌス主義として、六世紀ごろまでヒス パニアやガリアで存続していたのだとか。引用箇所はラテン語版では六章 めですが、英訳では七章(序文を抜けば六章め)になっています。 さて、今回からは副読本のような形で、パスカル・ベルモン『リミニのグ レゴリウスにおける承認とその対象』(Pascale Bermon, "L'assentiment et son objet chez Gregoire de Rimini", Vrin, 2007) という研究書を眺めていきたいと思います。学位論文を書籍化したものと いうことで、前半が史的研究、後半が思想研究という形を取っています。 まずは前半の史的研究がなかなか興味深く、グレゴリウスの歩みに寄せ て、アウグスティヌス派の学問所、14世紀の大学教育、オッカム主義問 題、グレゴリウスの当時の評判などを論じています。後半は「承認」 (assentiment)をめぐる認識論的な議論を中心に扱っていますが、当然 ながら例の「複合的意味対象」が絡んできます。 とりあえず、まずは前半部分からざっと見ていくことにします。リミニの グレゴリウスが属していたアウグスティヌス会は、14世紀当時、独自の 教育機関を設置していたことが知られています。その中心を担うのが「一 般学問所」(studium generale)というもので、主要都市に設置されて いました。そこでは大学レベルの教育が施されていたのですね。「一般」 というのはつまり、所在地に限定せず各地の学生を、所属会派も問わずに 広く募ったという意味です。最も重要とされたのはパリの学問所(パリ大 学の神学部が当時大きな影響力をもっていた背景があり、そのつながりで 重要視されていたようです)で、グラン・オーギュスタン(Grands Augustins)と呼ばれていました。 1287年にエギディウス・ロマヌスがアウグスティヌス会として初の神学 博士となって以来、同修道会には神学博士が少ない状況が長く続いていま した。そのため学問所では、教師の養成が急務となっていたようです。 1318年にリミニで開かれた修道院参事会(若きグレゴリウスも傍聴して いた可能性があります)では、イングランドのオックスフォードとケンブ リッジの学問所にも、パリと同等の権限を認めるという決定が下されてい ます。このあたり、思想史的にはつい、イングランドで起きていた学問的 「進化・刷新」、つまりオッカムやヴォディハム、ブラッドワーディンな どの「新しい」神学的議論を受けてのことなのかなと思ってしまいます が、実はそうした神学的刷新はむしろ1320年から30年ごろで、アウグス ティヌス会の動きとは前後しているのですね。 アウグスティヌス会がイングランドでの教育基盤を強化しようとした背景 には、教皇ヨハネ二二世がオックスフォードでの修道会士らの教育を奨励 していたことがあったといいます(1317年ごろ)。また国王エドワード 二世の求めによってケンブリッジに大学が設立されるのも1318年で、ア ウグスティヌス会の動きがそれらに呼応したものであることが窺えます。 その結果、14世紀半ばごろにかけて、イングランドと大陸との間で、同 会教師たちの交流は活発化していきます。イングランドに限らず、14世 紀前半に同会は各地に学問所を拡げていき、1290年から1354年までで 三〇ほどの一般学問所が設立されているのですね。 そのうちの一つ、リミニの学問所は、グレゴリウスその人が1348年に開 設したものでした。グレゴリウスは若い頃からイングランド系の論者たち の議論に親しんでおり、1340年代前半にはそうした著者たちをパリの神 学部に盛んに紹介していたらしいのです。このあたりからすると、グレゴ リウスの生涯は、神学的議論もさることながら、教育そのものへの関わり にも強く彩られている感じがします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月17日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------