〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.228 2012/11/17 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その2) 自由七科のうち、数を扱う四科がさしあたりプラトンの『国家』に出てく ることを見ましたが、今度は言葉を扱う三科への言及を見なくてはなりま せん。ネットで読むことのできる資料として、半田智久「セブンリベラル アーツ成立前史:その淵源にみるプラトンの構想」(『構想』、vol.3, 2004)(http://www.jssi.jp/pdf/k3-69.pdf)という文章があります。 前回見たようなプラトンにおける教育観や四科の記述について大変詳細に 述べていて参考になりますが、その最後のほうでキケロの話を中心に、三 科の成立についても少し触れています。これは確認してみないわけにいき ません。 というわけで、キケロです。取り上げるのは『弁論家について』(岩波文 庫の大西英文訳を参考にしています)です。これは前一世紀の雄弁家ルキ ウス・リキニウス・クラッススとアントニウス・マルクスを主人公に、そ してその仲間たちを脇役に配して、弁論術や弁論家をめぐる様々な議論が 交わされていくという趣向の対話編です。キケロは一世代前のクラッスス に託す形でみずからの「弁論術論」を語っているとされています。全体は 三巻から成り、弁論家に必要な資質や学問、理想とされる弁論術、弁論の 実践における心得、弁論の技術的側面などを論じていきます。 まず、弁論家は様々な学問を修めていなくてはならないとされ、これに関 連して、学ぶべき学科の話が出てきます。たとえば第一巻四二章には、 「かつてばらばらに存在したものの、哲学者たちによって体系的に結合さ れた」学知の要素の数々が挙げられています。で、そうした要素の結合に よってできた学術として、音楽、幾何学、天文学、文学、弁論の理法が挙 げられています。後の自由七科とは若干異なっていますが、一つのまとめ として興味深いところです。そうなると、それらをまとめた「哲学者」た ちというのが気になりますね。もちろん前回見たように、プラトンがそこ に関係しているのは間違いありません。 三科への言及という目下の目的からすると、重要なのは第三巻かもしれま せん。むろんそこでも三科について直接言及されているわけではありませ ん。話の主眼は弁論家がなすべき事柄ということで、大きくは二つに分け られています。内容を論じることと、それになんらかの言葉の飾りを与え ることだというのですね。まず内容を論じるためには、正しいラテン語で 明瞭に言論できなくてはならないとされます。これがすなわち文法学と論 理学に相当すると思われます。 文法学に対応すると思われる箇所では、基本的に正しいラテン語で話すた めには弁論家と詩人の著作を読め、と勧告されます(三巻一〇章)。ま た、格や時制、性・数の一致といった規則を守り、「舌や息や音調」も調 節せよとも述べています(一一章)。このあたり、「容易なこと」として さらっと触れているにすぎません。論理学に相当する文言も、かなり端 折っている印象です。「示したいと思う内容を的確に言い表す」方法とし て、曖昧さを排し、比喩表現を用いず、時間の前後関係を逆転させず、人 物の混同を避け、語る順序を混乱させない……などを挙げ、「それは実に 簡単明瞭だ」と述べています(一三章)。 その上でいよいよ、第三巻の佳境ともいえる修辞法の説明に入っていきま す。正確な言葉で、秩序だった言論をするだけでは聴き手に飽きられてし まう、だからこそ「弁論の飾り」と言われる修辞が必要になってくる、と いうのです。このくだりは微に入り細に入り、かなり長く議論されていま す。クラッススがそこで取り上げる話の一つに、イソクラテスとアリスト テレスの話があります。イソクラテスが法廷での係争や議会での政策審議 から文体の典雅さへと教育内容を変えたことで、多くの弟子を集めるよう になったことを受けて、アリストテレスもまた「黙っていられるか」とば かりに教育法を変え、かくして「学問すべてに飾りを与え」て「自然哲学 を言論の実践と結合させた」というのです(三五章)。ここから、イソク ラテスと、とりわけアリストテレスが、三科をまとめあげる上で一役買っ たらしいことが見てとれます。これは冒頭に挙げた半田氏の文章でも触れ られている話ですが、せっかくですので次回あたり、改めて少し探ってみ たいと思います。 余談ながら、キケロの作品は多くが中世初期以降も伝えられていて、『弁 論家について』も広く読まれた一冊でした。レイノルズ&ウィルソンの名 著『古典の継承者たち』によると、九世紀のカロリング朝時代に活躍した フェリエールのルプスによる『弁論家について』の写本が残っていて、大 英博物館に所蔵されているといいます。ルプスは地元フェリエールの図書 館の拡充のために写本の入手に奔走した人物で、カロリンガ・ルネサンス の傑出した学者の一人とされています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その6) テキストは引き続き、悪は実体ではなく不在であるという第一の結論につ いての論証です。 # # # Secunda pars antecedentis etiam patet. Nam, si res non careat aliquo bono vel perfectione sibi debita, iam integra et perfecta in suo genere existit, ac per hoc nec deficiens nec vitiosa vel mala. Unde, si aurum omnem perfectionem suae naturae debitam quantum ad speciem et modum seu gradum et mensuram vel proportionem in specie et quantum ad ordinem et habitudinem ad aliud habeat, utique, quocumque alio non suae perfectioni debito careat aut quicquid aliud habeat, dummodo propter illud non careat aliquo sibi debito, perfectum et bonum aurum dicetur. / 前提の第二の部分も明らかだ。というのも、仮に事物が、本来あってしか るべきなんらかの善もしくは完成を欠いていないのであれば、その事物は 同類における完全な形もしくは完成した形で存在することになり、それゆ えに欠陥も不完全さも悪もないことになる。したがって、もし黄金がそれ 本来のしかるべきすべての完全性を、その外観および様態、または程度お よび大きさ、あるいは外見上の均整および他のものに対する序列および状 態において有するならば、たとえそれ本来にとってしかるべきものではな い他の完全性を欠いていても、また、他の属性を有している場合であって も、それについてしかるべき完全性をなんら欠いていない限り、それは完 全かつ善なる黄金であると言われるだろう。/ Unde sive calefiat sive infrigidetur, aut aliquam aliam qualitatem suscipiat, dum tamen nullo bono suo privetur, semper bonum manet et non vitiosum. Et ideo dicit Ambrosius ubi supra quod non sunt mala, nisi quae privantur bonis. Et Augustinus Enchiridion 12: "Sicut, inquit, corporibus animalium nihil est aliud morbis et vulneribus affici quam sanitate privari etc, ita", subdit ipse, "et animarum quaecumque vitia naturalium sunt privationes bonorum", volens per hoc habere quod res intantum praecise sunt malae vel vitiosae, inquantum aliquo suo bono privantur. したがって、暖まるとか冷やされるとか、あるいは他のなんらかの質を有 する場合でも、おのれの善はなんら欠いていないのであれば、それは常に 善であり続け、欠陥があるものにはならない。ゆえにアンブロシウスは、 上述の書において、善を失う以外に悪はないと述べているのである。また アウグスティヌスは『エンキリディオン』第一二章にこう記している。 「同様に動物の身体にとって病や傷に冒されるとは、健康を失うことにほ かならない云々」。またこうも付け加えている。「魂における悪とは、自 然なる善の欠落のことである」。アウグスティヌスはこう述べることで、 なんらかの善が欠落するだけ、事物は悪もしくは堕落したものとなる、と いうことを示そうとしている。 Quod etiam confirmatur per Anselmum De conceptu virginali capitulo 5. Ait enim: "Nulli essentiae est aliud malam esse quam deesse illi bonum quod debet habere; deesse vero bonum quod debet adesse non est aliquid esse. Quare malam esse non est ulli essentiae aliquid esse". Et per hoc vult habere malum non esse ullam essentiam. De his etiam, quae dicuntur mala in repectu ad alia, probatur conclusio. Quia quaecumque sunt aliquibus aliis mala, ideo praecise sunt illis mala, quia illis nocent et ideo praecise nocent, quia illa aliquo bono privant, id est quia propter ipsa illa aliquo bono privantur. Igitur quaecumque sic dicuntur vel sunt mala, ex carentia alicuius boni primo sunt mala. そのことは、アンセルムスの『処女懐胎について』第五章でも確認され る。アンセルムスはこう述べている。「しかるべき善を欠く場合以外、い かなる存在者も悪しき存在ではない。むろん、あるべき善を欠いているな ら、それはなんらかの存在ではない。ゆえに悪しき存在とは、何らかの存 在であるような存在者ではない」。ここでアンセルムスは、悪はある存在 者ではないことを示そうとしている。さらに、悪とは他に対して言われる ものであるということから結論部が論証される。いかなる悪も他のものに とって悪だからである。その悪がまさしく「それ」にとっての悪なのは、 「それ」を害するからなのであり、その悪がまさに害をなすのは、それが なんらかの善を欠落させるからである。それはつまり、「それ」はその悪 のせいで、なんらかの善を失うからである。したがって、悪といわれるも の、あるいは悪であるものはいずれも、まずもってなんらかの善の欠如に よって悪となるのである。 # # # テキストそのもののコメントは後でまとめてしたいと思います。しばらく テキストの読みとコメントとが同期しない感じになってしまいますが、ご 勘弁ください。ここでは前回に続き、パスカル・ベルモンの研究書から特 定のトピックを眺めていきたいと思います。今回は、リミニのグレゴリウ スが教職(lectorat)の試験準備をしていたとされる1323年から29年ご ろのパリ大学の様子についてです。 その手がかりとして挙げられているのが、アヴェロエス主義者とされる ジャンダンのジャンが残している文書です。『パリの名声についての論』 (Tractatus de laudibus Parisius)というその文章は、パリ大学を去っ たジャンが、そこでの経験を回顧し、やや辛辣に記した文書だといいま す。ジャンは1323年ごろ、ちょうどグレゴリウスがパリで過ごしていた 当時のパリ大学で教壇に立っていました。 同文書には自由学芸部、とりわけ哲学の分野についての記述があり、それ によると、まずパリ大学ではアリストテレスとその注解者の著作が全面的 に受け入れられ、哲学の存在感は大いに増していたとされます。哲学が扱 うとされた五つの分野(論理学、自然学、形而上学、数学、倫理学)は、 従来の自由七科の学問領域をもほぼカバーしています。自由七科を中心す る古くからのモデルはすでに廃れ、論理学を入門編としてほかの四分野を 学んでいくカリキュラムが出来上がっていたようなのです。ちなみに 1323年から29年ごろの学芸部の教師としては、ジャンダンのジャン本人 のほか、パドヴァのマルシリウス、さらに後になってジャン・ビュリダ ン、オートレクールのニコラなどもいました。 グレゴリウスが在籍していた神学部のほうはどんな様子だったのでしょう か。まず神学部を取り巻く状況としては、1323年から29年の時期は、 ちょうど教皇ヨハネス二二世(アヴィニョン捕囚期の教皇ですね)の在位 中で、教義に関わる大きな転換点をなしていました。1323年にはトマ ス・アクィナスが列聖され、1325年にはタンピエの禁令が一部撤回され ています。トマス神学の影響力は強まり、「魂が身体の形相である」とす る形相単一論が幅を利かせるようになります。その煽りもあったのか、 1326年にはオッカム、1327年にはパドヴァのマルシリウス(ともにフ ランシスコ会士です)が、一部の教説について糾弾を受けています。糾弾 の動きはさらに続き、1329年にはエックハルトまでもがやり玉に挙がっ ています。 『パリの名声についての論』は、神学部とその周辺について冷ややかなコ メントを寄せているようです。それによれば、教師たちが行っている活動 には聖書の注釈、説教、『命題集』の注釈に始終していたといいます。見 えるものを通じて不可視のものを探ろうとするばかりで、哲学が形而上学 で行うような神秘への直接的な探求はほとんどなされない、との皮肉が込 められています。神学部の教師たちは哲学がもたらすテーゼに対しては、 修正しようとしたり、拒否しようとしたり、受け入れたりと、微妙な態度 を示したいたようです。人によって、あるいは扱うテーマによって態度は 様々だったことが窺えます。1320年代には特に人間の実体形相が単一か 複数かという問題(トマス神学の形相単一論に傾いていくようですが) や、魂は認識において受動的か能動的かといった問題(これはオッカムと その批判者たちの間で交わされていた議論でしょう)で賛否が分かれてい ました。 神学部の教師にはフランシスコ会のリールのニコラ、ドミニコ会のパルマ のペトルス、ベネディクト会のピエール・ロジェなど、各修道会の代表的 神学者がいました。マルキアのフランシス(フランシスコ会)もいて、後 にフランシスの『命題集注解』の序文をリミニのグレゴリウスが引用して いるようです。いずれにしても、ジャンダンのジャンによるなら、1320 年代において神学と哲学との間には大きな溝があり、学知に関わる各個人 はその間を縫うようにそれぞれ微妙な立ち位置で渡り歩いていた、という ことのようです。ということで、私たちもリミニのグレゴリオスの歩みを もう少し詳しく見なければなりません。それはまた次回以降に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月01日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------