〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.231 2013/01/12 *ちょっと遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年も ぼちぼちとこのメルマガを開始いたします。遅々たる歩みですが、どうぞ よろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その5) 前回に引き続きイルストロ・アドの著作を見ていくことにします。ヘレニ ズム末期、キケロと同時代のウァロは『学科』(Disciplines)という九 巻から成る書を著したと言われていますが、この書は現存しておらず、後 のアウグスティヌス、カッシオドルス、マルティアヌス・カペラなどに残 された残響から、研究者たちが中身と章立てを再構成しようと試みてきた といいます。九巻から成るということに象徴されるように、どうやらそこ には後世に整備される自由七科に加えて、医学と建築術が入っていたらし いというのですが、アドによればこの再構成は根拠に乏しいのだとか。 一方でたとえばコルネリウス・ケルススなどは、自著の百科事典の構成 を、農学、医学、雄弁術、戦争関連の学問、哲学、法学(判例)としてい て、数字を扱う四科などは含めていないといいます。これは帝政期になっ ても同様だとアドは述べていますね。というわけで、自由七科の定着への 道筋はアカデメイアの中で準備されたものの、当時一般的だった教育体制 にはほとんど影響を及ぼしていない、というのがアドの見方です。 ここで私たちは一足飛びに四世紀へと向かいましょう。上のアウグスティ ヌス、カッシオドルス、カペラなどについて見ていきたいと思います。こ の三人(ほかにも若干いますが)などは自由七科の成立を示す重要なメル クマールと位置づけられます。まずアウグスティヌスですが、アドが取り 上げているのは『秩序について(De ordine)』という著書です。これは 二巻から成り、381年ごろの若き日のアウグスティヌスが著したものとさ れます。PDF版をDocumenta Catholica omniaのサイトからダウンロー ドできます(http://www.documentacatholicaomnia.eu/04z/ z_0354-0430__Augustinus__De_Ordine_Libri_Duo__MLT.pdf.html) 。このファイルは途中の一部分が読めなくなっていますが、学問分類に関 係する箇所は無事です。 内容は題名にもあるとおり、神に由来する秩序の重要性を説いていくとい うもので、その中で学ぶべき学問の秩序が示されています。アドによれば (p.102)神の秩序と学問の秩序は照応し、前者が後者を導くというのが 基本的な考え方だとされています。具体的な学問の秩序は二巻一二章 (35節〜)以降に記されています。まず最初に35節では、「理性の働き (rationabile)」についての大きな区分が示されます。理性の働きに は、目的に対する行為(慎重に行動すること)、発話(正しく教え伝える こと)、楽しみ(省察の喜び)の三種類があるとし、アウグスティヌスは この後者二つを詳細に検討していきます。この「発話」が言葉を扱う三科 に相当し、「省察の喜び」が数に関わる四科に相当するというわけです。 数をめぐる学知は、存在や神についての省察を導くとされるので、この照 応関係は正当化されます。 続く箇所では、人間が理性にもとづき集団を形成する際の、言語や文字の 効用について説かれています。次いで36節では、それが精緻化すること によって文法が成立したことが示されます。この部分への解説としてアド は、アウグスティヌスが(おそらくは間接的に)プラトンの『ピレボス』 に準拠しているとしています(アドは総じて、アウグスティヌスのこの書 が新プラトン主義の影響を受けていると見ています)。37節になると、 今度はその文法に、文字と記憶の学として歴史学が加わったことが記され ます。前に見たように、ヘレニズム期にも歴史学は広義の文法に含められ ていました。歴史学自体も、神話や文学作品を含む、いわば書かれたもの すべてを扱う幅広い学知でした。アドが指摘していますが、アウグスティ ヌスは『ソリロキア』において、フィクションを含む発話のいっさいを監 視・管理する学問が文法なのだと述べています(二巻11章19節)。また 同書では、文法学が真の学知であることを保証するものとして弁証法が取 り上げられています(二巻11章20節)。 『秩序について』に戻ると、38節(第一三章)で弁証法と修辞法(弁論 術)について取り上げています。そこでも、真なるものを偽から遠ざけ擁 護する「学知の中の学知」として弁証法(論理学)が掲げられます。さら に、人を教え導く際には、相手の心を最大限ゆり動かさなくてはならない とし、そのために修辞法(弁論術)が必要とされる、とも説いています。 こうしてアウグスティヌスは、理性における意味作用(significando rationabilis)の学知を、自由人が探求すべき学として奨励してみせたの でした。まさしくここに、後の三科となる諸学がほの見えています。 このあと話は四科に進んでいくのですが、実は数の有用性についてはすで に35節で、つまり文字の重要性を述べた箇所で触れています。「(文字 と数の)二つが発見されて、書物と計算の職が生まれたのである。その技 法はいわば初歩の文法であり、ウァロはそれを読み書きと称した」という のです。アドの解説によると、理性的な働きに三科の学問を結びつけたの は、実はストア派からだったものの(キケロがそう報告しています)、そ こに計算、すなわち数の学をも結びつけたところにこそ、アウグスティヌ スの慧眼があったといいます。アウグスティヌスは41節(一四章)で、 「(数の)助けがあればこそ、上述(つまり先の三科)のすべてが結びつ いたのだ」とまで述べています。このあたり、なかなか興味深いところで すが、その話はまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その9) 今回の箇所は「悪はそれ自体で実体ではないが、実体に存する」という第 二の結論の論証部分後半です。 # # # Confirmatur istud et ipsa etiam principalis conclusio per rationem, quia, ut probatum est, res quae absolute dicitur mala ideo praecise dicitur mala, quia caret bono sibi debito. Non igitur absoluta negatio boni est malum seu malitia, sed negatio boni in re cui illud bonum debetur. Praeterea, si non quodlibet malum esset in aliqua entaitate, absoluta negatio boni esset malum, ut prius. Sed hoc est falsum, quoniam secundum hoc sequitur quod negatio alterius mundi ab isto qui est seu alium mundum non esse est quoddam malum, et similiter cuiuscumque boni possibilis negatio est quoddam malum; quod nullus diceret. この主要な結論そのものは、合理によっても確証される。なぜなら、すで に論証されたように、絶対的に悪だと言われる事物は、備わってしかるべ き善を書いているがゆえに断定的に悪と言われるからである。したがって 絶対的な善の否定が悪ないし悪徳なのではなく、備わってしかるべき善を もつ事物において、その善の否定が悪なのである。 加えて、なんらかの悪がなんらかの実体に存在するのでないならば、上に 述べたように、絶対的な善の否定こそが悪だということになる。しかしな がらこれは偽である。というのも、これに従うなら、現存するこの世界と は別のもう一つの世界の否定、あるいは別の世界は存在しないという否定 は、いくばくかの悪ということになり、同様に、あらゆる種類の善の可能 性を否定することも、いくばくかの悪ということになる。だが誰もそう述 べてなどいない。 Item sequeretur quod, antequam deus creavit aliquam rem, erant multa mala, immo infinita, nam nullum bonum creatum erat; immo sequeretur quod multo plura mala fuerant ac etiam erant quando primo creaverat entia - "et omnia erant valde bona" - quam essent bona, sicut et plura poterant esse bona quae non erant quam erant illa quae creavit. Sed omnia haec sunt absurda, igitur etc. Praeterea, si negatio boni quam dicimus malum esset absoluta negatio, vel ex nullius boni negatione aliqua res diceretur mala, vel, si ex alicuius boni negatione res aliqua diceretur mala, ex eadem vel simili quaelibet alia res diceretur mala. Patet, quia non potior ratio esset de una re quam de alia. Sed consequens patet falsum. Nam ex carentia iustitiae homo dicitur malus; et ex carentia visus aut oculi aut fortitudinis corporalis equus dicitur et est malus. Et sic de multis aliis posset exemplum poni; et tamen aurum nec ex carentia iustitiae aut visus dicitur aut est malum. また、神がなんらかの事物を創造する以前にも、多くの悪しきものが、そ れこそ無限に存在していたことになる。というのも、その時点ではまだ善 はまったく創造されていなかったからだ。それどころか、はじめに実体が 創造されたーー「そしてすべてがまったくの善であった」ーーとき、善よ りも多くの悪がすでにあり、創造の時点にも存在していたことになってし まう。また、まるで神が創造したものよりも、存在していない善の方が多 くありえたかのようになってしまう。とはいえ、以上の帰結はすべて不条 理である。したがって……以下略。 加えて、もし私たちが悪と称する善の否定が絶対的な否定であるなら、い かなる善の否定をもってしても、なんらかの事物が悪であるとは言えない か、あるいはまた、なんらかの善の否定をもってなんらの事物が悪である と言えたとすると、同じないし類似の否定をもって、他の任意の事物も悪 であると言えることになる。このことは明らかである。なぜなら、ある事 物についての理が他の事物の理よりも重要とは見なされないからだ。だが 結論が偽であることは明らかである。ここで、正義感の欠如ゆえに人は悪 しき人と言われ、また、視力もしくは目、身体の強さの欠如ゆえに、馬は 悪しき馬と言われる。このような他の事例は数多く挙げることができる。 しかしながら、正義感の欠如や視力の欠如ゆえに、黄金は悪しき黄金と言 われるのではない。 # # # グレゴリウスの議論では、実体に本来備わっているべき善が欠落したとき を絶対的な悪、付随的(本質的ではない)な善が欠落している場合を相対 的な(いくばくかの)悪と規定しているのですね。絶対的な善というもの があって、それが否定されればすなわち絶対的な悪、なのではないとして います。このあたりの論法が面白いですね。絶対的な善もまた抽象概念で すが、グレゴリウスはそういう概念よりもむしろ、あくまで実体(個物) に即して議論を進めようとしています。実体に備わる善と、その欠落とし ての悪を考え抜こうとしているようです。 さて、参考文献(パスカル・ベルモン『リミニのグレゴリウスにおける承 認とその対象』)の読みも続けていきましょう。今回もまた「複合的意味 対象」(complexe significabile)について扱った箇所です(同書の哲学 研究編第一部第一章、pp117-137)。ベルモンはまずその用語の由来や 字義的な意味を検討します。この概念は、もともとはアダム・デ・ヴォデ ハムが用いていた「指示対象」(indicabile)や「複合的表現内容」 (complexe expressibile)などの用語と同義だとされます。complexe は字義的にはギリシア語のシュンプロケー(複合)に対応します。アリス トテレスの用語をボエティウスがラテン語訳する際に、complexeとした のが嚆矢とされます。要は最低限、名詞と動詞が組み合わせられて形成さ れたもの(命題)を意味します。significabileとは意味内容のこと(つま りは思考の対象)、あるいは思考そのものを記号としてとらえたものと説 明されます。「-bile」はギリシア語からラテン語に訳す際によく使われ た語尾で、多くの場合受け身を表すとされます。こちらもキケロやボエ ティウスによる訳出に例があります。ですからsignificabileは「意味され うるもの」ということになります。 「意味されうるもの」は、いわば記号の意味内容の可能性を言うわけです が、記号は意味内容となんらかの関係性で結びついています。そこでいう 関係性とはいわば心的な関係性です。これは感覚について考えてみればわ かりやすいでしょう。「感覚されうるもの(sensibile)」は感覚(作 用)に対して関係性をもっています。感覚器官を通じてなんらかの事物が 「感覚されたもの」となる場合に、その「感覚されたもの」は感覚の対象 になります。また、知解(の作用)の場合も同様です。なんらかの事物が 知性を通じて「知解されたもの」になるわけですが、と同時にその「知解 されたもの」は知解の対象になります。意味されうるものは、この知解の 対象と近接しているというか、ほぼ同義です。で、次が肝心な点なのです が、こうした関係性そのものは、その対象のもととなった事物の実在性と は関係なく、別のレベルで実在していると考えられます。少なくともグレ ゴリウスはそう考えているらしいのです(ベルモン、p.123)。何かが感 覚されたものとなる際、その感覚作用そのものは実在するのと同様です。 その「何か」が実在するかどうかはまた別の問題です。ですから、この概 念を本来の意味での「実在論」の体系に関連づけるのは間違いだとベルモ ンは主張しています。これは押さえておくべきポイントです。 「複合的意味対象」の概念に関して、グレゴリウスが直接影響を受けてい るのはアダム・デ・ヴォデハムだとされますが、ベルモンはこの概念が もっと以前から議論されているとして、12〜13世紀のそうした概念の伝 統を振り返っています。概要だけさらっておくと、まず先駆的なものとし てアベラールが用いた「命題表現(dictum propositionis)」という概 念があります。アベラールは今や唯名論の先駆ではないかと言われていま す。「命題表現」というのは、普通の意味での「実在するもの」ではない とされ、命題の「事態」(トークンに対するタイプのようなものです)な いしは命題そのものを指すとされます。12世紀の逸名の論理学者の手に なる『アルス・メリドゥーナ(Ars Meliduna)』には、「発話内容(発 話されうるもの:enutiabile)」という概念が出てきます。これもやはり 同じように、命題の意味内容を指す用語です。「発話内容」は、論理学の 枠を越えて神学にも応用されていきます。三位一体のその一体性が、そう したenuntiabileにあたるとされたり(ボシャムのヘルベルトゥス)、神 についての命題の真偽の理解(アラン・ド・リール、アレクサンダー・ ネッカムなど)の議論で用いられたりしたようです。いずれにしても重要 なのは、ここでもまた「発話内容」そのものは実体であるとは見なされ ず、したがって属性を伴わず、対象の実在性にもとづく真偽(これも属性 の一つです)の判断に与るとは考えられていなかったという点です。いわ ば判断から宙づりになった概念だったというわけです。 「発話内容」はその後13世紀になっても、信仰や神学の対象、意志の対 象として、あるいは三位一体をめぐる議論などで引き合いに出され続け、 神の端的な知性に対して人間の知性(複合や分割を必要とする)を特徴づ けるもの、という扱いを受けるようになります。ベルモンによれば、アダ ム・デ・ヴォデハムやグレゴリウスの用語は、この「発話内容」の豊かな 思想的伝統の上に立脚しているのだといいます。知解の対象は命題的なも のである、としたオッカムの議論をめぐる論争の中で、ヴォデハムの用語 が登場し、そしてグレゴリウスへと繋がっていったわけですが、従来の 「発話内容」はあくまで複合命題の意味内容だけを扱い、複合的でない項 とは相容れないものだったのに対し、グレゴリウスにいたると、「意味さ れうるもの」という言葉でもって、複合的でない項と複合命題とのいずれ をも指し示すことができるようになった、とベルモンは指摘しています。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月26日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------