〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.233 2013/02/09 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その7) アウグスティヌスに続き、今度はマルティアヌス・カペラが自由七科につ いての書を著します。それが『メルクリウスとフィロロギアの結婚』で す。同書は北アフリカはカルタゴで、400年頃に書かれたとされ、著者の カペラはその地で弁護士をしていたと言われています。同書は九巻から成 る長大な風刺詩・寓話で、最初の二巻ではメルクリウスとフィロロギアの 婚礼までのいきさつ、続く残りの七巻では、メルクリウスがフィロロギア に贈った七人の従者が、それぞれ自己紹介する様が詳述されていきます。 その七人の従者というのが、自由七科に相当するのですね。かくして同書 は、学問領域を網羅する百科事典という性格を帯びます。ボンピアーニ社 から出ている羅伊対訳本の序文では、当時の自由学科は建築学と医学を排 除する形でほぼ確定されていたと見てよいだろう、と記されています。 この書はあまりに長大な作品なので、個々のエピソードなどをまとめてい くことはできません。ここでは、引き続きアドの論考をもとに、ポイント となる要所をつまみ食いするだけにしたいと思います。まずメルクリウス とフィロロギアですが、これらは一種の擬人化です。メルクリウスはロゴ スの神とされ、文字などの発明者とされるトート神と同一視されます。対 するフィロロギアは「ロゴスを愛する者」の意味で、賢慮を意味するフロ ネーシスの娘とされます。両者の神が一つになることの寓意は、すなわち 魂の浄化により高みに登ることを意味するというわけですね。これはアウ グスティヌスの『秩序について』と同じ構図になる、とアドは指摘してい ます。 面白いのは、フィロロギアは魔術や占いを通じて神々の秘密に深く関わっ ているということです。メルクリウスとの将来の結婚を告げられたフィロ ロギアは、それを秘数術のやり方でもって、メルクルスと自分の名前の相 性を計算してみます。アルファベットそれぞれに付された数字(ギリシア 語での記数法)をすべて足し、結果の数字を位ごとに分けてそれらをすべ て足し、さらにそれを9で割りまった余りがその名に対する秘数となりま す。するとメルクリウス(本当の名はトートなので、そちらで計算しま す)は3、フィロロギアは4となります。両者の和が7というわけで、高次 の理性の完成を表す完全数になるというのですね。つまり二人の相性は バッチリ(笑)というわけなのです。アドによれば、その高次の理性とは 知性(ヌース)にほかならず、7という数字は、自由学科を七つとする新 プラトン主義的な着想の正当化にもなっているのだろうといいます。 こうして、フィロロギアはメルクリウスとの結婚に納得し、神々の世界へ と上昇するための準備をし、ミューズたちの祝福を受けます。ミューズた ちはそれぞれフィロロギアを讃える歌を歌うのですが、そのうちの一人ポ リュヒュムニアは、フィロロギアが知力で天空の頂点にまで昇れるだけの 諸学に親しんでいると歌います。最初の五人のミューズたち(ポリュヒュ ムニアも含む)は、フィロロギアが、順に天文学、音楽、幾何学、詩、雄 弁術・弁証法・文法にそれぞれ長けていると歌い上げます。七科という観 点からすると、ここでは詩が入っていて算術が抜けていますが、アドはこ の点について、詩はそもそもアウグスティヌスの『秩序について』でも広 義の文法に入っていたと指摘し、また算術は六人目のミューズの歌で暗示 されているのではないかと推測しています。 第三巻からはいよいよツィクルスをなす七科の紹介が始まります。文法、 弁証法、修辞学、幾何学、算術、天文学、調和(音楽)という順番です。 数を扱う四科の順番がアウグスティヌスの場合とは異なっていますね。こ れは純粋に芸術的な理由によるものではないか、とアドは考えています。 まず音楽が最後に来ているのは、この七科の紹介の後にメルクリウスと フィロロギアの婚礼が続くので、そこでの讃歌につなげるために音楽を最 後にもってきたほうが詩としての流れが良くなる、という配慮ではないか といいます。四科が算術からではなく幾何学から始まっていることについ ても同様に、詩作上の配慮のためだろうと推論しています。六巻冒頭にカ ペラ本人とサティラ掛け合いの場面が挿入されているのですが、これをう まくつなぐためではないか、というのですね。 医学と建築学が排除される話は、六番目の天文学の後に出てきます(第九 章の冒頭)。そこでは神々が話に飽きてしまって、早く祝いの宴を始めて ほしいと思い、医学と建築学の話を聞くのを拒否します。それら二つの学 問は人間世界にのみ関わることで、神の領域とは関係しないから、という のがその理由です。それらは後でフィロロギアが一人で探求すればよろし いというのですね。つまり七科は、あくまで人間の魂をその祖国である天 界へと回帰させるために必要なツィクルスであって、人間世界にのみ関わ るものはそこには含まれないという話になっています。 このあたり、新プラトン主義の色合いが濃く出ている部分だと言ってもよ いでしょう。アドはさらに、フィロロギアの婚礼準備がイニシエーション の儀式をなぞっていることや、フィロロギアの側に仕える別の七人が卜占 を行う巫女であったりすることなどから、カペラのこの著作は、当時の ローマで重んじられていた学術的な知識と儀礼的実践の二つの側面をよく 反映しているのではないかと考えています。そこに後期の新プラトン主 義、つまりイアンブリコスなどの宗教的実践の影響があるのかどうかは議 論が分かれるところのようです。アドは、新プラトン主義の勢力圏こそが 自由七科の確定を担った源泉だと見ているわけですが、その陣営が学校の カリキュラムとして七科を制度化するにはいたっていなかっただろうと推 測しています。アウグスティヌスやカペラが、実に手の込んだ(様々な文 献を駆使した)学科紹介の書物を著さなくてはならなかったこと自体が、 カリキュラム実現の困難を物語っていたのではないか、というのです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その11) 『命題集注解第二巻』の問三四から、三つめの結論の論証部分の続きで す。 # # # Ex his patet, qualiter sumpti mali est causa aliqua efficiens, et qualiter non. Nam malitate seu per se mali, cum nulla entitas sit, nulla est proprie loquendo causa efficiens. Omne enim efficiens facit aliquid esse et aliquam entitatem; nec proprie dicitur esse factum quod nihil est. Unde 7 Metaphysicae dicit Philosophus quod "omnia, quae fiunt, ab aliquo fiunt et ex aliquo et aliquid"; cuius dictum quantum ad primam et ultimam particulam utique verum est. Item 5 Physicorum vult omnis generatio est ex non esse in esse. Ex quo sequitur quod omne quod generatur capit esse et per consequens fit aliqua entitas. Et universaliter idem iudicium est de quolibet quod proprie loquendo dicitur fieri. このことから、どのような意味で用いられる悪に作用因があるのか、また はないのかは明らかである。悪意やおのずと悪とされるものは、いずれも 実体ではないのだから、厳密に言ってそれらには作用因はない。作用する すべてのものは、何かを存在させたり、なんらかの実体をもたらすのだか らだ。存在しないものを、生じせしめられたと言うことは厳密にはできな い。ゆえに『形而上学』第七巻で哲学者はこう述べているのだ。「生じる すべてのものは、何かから生じ、何かを脱して(別の)何かになる」。こ の言は、少なくとも最初と最後の部分については真である。同じく、『自 然学』第五巻では、すべての生成は非在から存在へといたることだとして いる。ゆえに、生じるすべては存在を得、結果的になんらかの実体になる ことが導かれる。そして同じ見解は、「創造された」と厳密に言われるあ らゆるものについて広く当てはまる。 Confirmatur per Augustinum in De Genesi ad litteram imperfecto dicentem: "Non enim deum fecisse tenebras dictum est" in illa scillicet scriptura Genesis, in qua universorum creatio prima refertur, "quoniam, inquit, species ipsa deus fecit, non privationes quae ad nihilum pertinent, unde ab artifice deo facta sunt omnia". Et paulo post etiam ait: "Species naturasque ipsas deus et facit et ordinat; privationes autem specierum defectusque naturam non facit, sed ordinat tantum". Item Hypognosticon responsione 1, circa medium: "Mors, inquit, privatio vitae est, nomen tantum habens, non essentiam; et ideo deus eius auctor esse dici non potest. Quicquid enim deum fecisse dicimus, habet essentiam, id est: species est. Essentia enim dicitur ab eo quod est etc". Per haec eadem patet quod nec mali denominative accepti, quod tamen nulla est secundum se entitas, est aliqua causa efficens. Mali autem denominative sumpti, quod utique aliqua entitas est, est vere aliqua causa efficiens sicut et cuiuslibet creaturae. そのことは、『創世記逐語的註解』でアウグスティヌスが述べていること からも確証される。つまり、世界の最初の創造について言及した創世記の 文面には、「神が闇を創ったとは言われていない」とある。「それは、神 が創ったのは形状そのものであって、無に属する欠如ではないからであ る。ゆえにすべては、創造者としての神から造られているのである」。さ らにその少し後の箇所ではこう述べている。「神は形状と自然そのものを 創り、秩序づけた。しかしながら形状の欠如や自然の欠落は創らず、ただ 秩序づけた」。 また、『ヒポグノスティコン』の第一回答の中程のところではこう述べて いる。「死は生命の喪失だが、それには名称はあっても本質はない。ゆえ に神がその創造主であるとは言えない。神が創ったと私たちが言うものは すべて本質をもっている。つまり、それは形状をもっている。というの も、本質とは、存在するものの根拠であると言われるからだ……以下略」 このことからも同様に、それ自体としてはまったく実体ではない名辞的な 意味での悪に、なんらかの作用因があるわけではないことは明らかであ る。しかるに、少なくともなんらかの実体であるような名辞的な意味での 悪には、あらゆる被造物と同様、なんらかの作用因がある。 # # # 今回の箇所では、悪と作用因との関連が検討されているわけですが、実体 のない悪(つまりは複合的意味対象としての「悪」)は作用因(直接的な 原因)をもたない、ということが言われています。少し前のところで、悪 しきものとは、実体においてしかるべき完成を欠いていることであるとさ れていました。その場合、そうした欠如をもたらす原因は基体となる実体 の側にあるわけですが、複合的意味対象にすぎない名辞的な「悪」の場 合、そもそも実体がないのですから、それをもたらす作用因も必然的にな いことになります。作用因の話が出てくることはやや唐突な感じもするの ですが、これは複合的意味対象の全般にわたる議論(記号論ないしは意味 論?)と関係がありそうです。 この話に少なからず関連すると思われる箇所を、参考にしているベルモン の研究書から見てみましょう。ちょうど前回見た哲学研究編第一部第二章 の続きの部分です。複合的意味対象は実体をもっていないことから、それ 自体は「無」にも等しいものなのですが、ではその真偽の問題はどうなる のかという問題が扱われています。たとえばオッカムは、真偽は命題にの み認められるとして、意味対象、つまり概念そのものには真偽は関与しな いという立場を取っていました。ところがリミニのグレゴリウスは、発話 対象(enuntiabile:言い表せるもの=意味対象)にも真偽を持ち込める と考えています。 アリストテレスは発話対象(言い表せるもの)の真偽を、実際に形成され た、あるいは形成可能な命題の真偽から推論しています。つまり、発話可 能なもの(enuntiabile)の真偽は、実際の発話(現実に成立した発話と いうことで、グレゴリウスなどは「創られた発話」と称しています)の客 観的な真偽に依存することになります。ですが、「人間はロバではない」 が真、「人間はロバである」が偽であることは、創られた発話が実際にな くても変わりません。たとえ現実の発話にはなっていなくとも、真である ような発話可能なもの(発話対象)はありうるわけですね。仮に創られた 発話が存在しなくても真偽がありうるのであれば、その真偽は実際の言語 活動を超越したものだということになります。すなわち、発話可能なもの の真偽は、実際の発話から独立していることになります。 グレゴリウスはこうして「創られたのではない真理」というテーマを導入 します。アリストテレスにはありえない、信仰上の教義あればこそのテー マだと言えます。そのような真理は、あらゆる発話対象の真偽の基準、あ らゆる真理の記号、すべての記号が真となる根拠をなすとされています。 要するにそれは神のもとにおける真理ということなのですが、グレゴリウ スがラディカルなのは、そうした創られたのではない真理こそが、第一の 真理として、私たちが真理について認識する上での部分的な原因をなして いると考えているからです。ベルモンの研究によると、この第一の真理は 「能動知性」にも相当し、また記号としての神にも同一視されています。 事物の記号というのは、その事物が実在する原因ではないものの、その事 物に併存してその存在を示すものを言います。ですから「神」という記号 そのものは、発話対象の真実性の原因にはなりえません。ですがその記号 は、現実に対して、「神」が創った現実であるとの認証を与え、その真実 性を保証することができます。こうして神(記号としての)は、あらゆる 真理を示す記号になるというわけなのですね。作用因ではないものの、そ れは部分的な原因として発話対象の真実性の根拠をなしているのだ、とい うのです。こうした神学的議論の上に立ってグレゴリウスは、もとから偽 であるような意味作用は存在しないとの立場を取ります。 この神学的な義論は、翻って記号全般の意味論へと敷衍されます。つま り、発話対象の真実性の根拠は、「いかなるものとしてあるか(sic esse) 」にあるとされます。これは「神がその事物をどう創ったか」と いうこととほぼ同義です。「人間はロバである」は、発話可能なものでは ありますが、実際には人間が「いかなるものとしてあるか」においてロバ とイコールではない(つまり神が人間をロバとして創造していない)がゆ えに、それは真実性(神が担保する)に与ることができず、発話対象とし て、あるいは命題として偽となります。 グレゴリウスの意味論ではこのように、記号にも新プラトン主義的な秩 序・発出論が適用されている感じです。たとえば発出論的に、あらゆる善 は神の善性を原因とし、その分有としてあるわけですが、あらゆる記号の 真実性もまた神の記号の真実性を原因とし、その分有としてあるのだ、と いうわけですね。とするなら、「偽であるもの」の在り方は「悪であるも の」の在り方と通底するように思われます。「偽であるもの」が発話可能 (意味対象)でありながら真実性に与れないように、「悪であるもの」も また発話可能(意味対象)でありながら善性に与ることができません。 「悪」と「偽」は、意味論的なレベルとしては別でしょうけれど(命題が 表す概念全体での意味のレベルと、真偽に関わる意味のレベルをグレゴリ ウスは分けて考えているといいます)、構図としてはパラレルです。前者 は後者の部分集合さえなしている印象を受けます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------