〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.234 2013/02/23 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その8) アウグスティヌスやカペラが「定式化」した自由七科は、その後修道院の 教育に取り込まれていくことになりますが、その嚆矢とされるのがカッシ オドルスです。カッシオドルスは6世紀ごろのローマの著述家・政治家 で、生まれはイタリア南部、法学を学び、東ゴート王国の宰相などを務め た人物です。政治の世界から引退した後、南イタリアのさらに南端スクィ ラーチェにヴィヴァリウムなる修道院を設立し、宗教的観想を深めていく のでした。 レイノルズ&ウィルソン『古典の継承者たち』によると、そこには機能的 な図書館も作られたといいます。カッシオドルスがそうした修道院や図書 館を設立した意図は、もちろん「教育と写本の書写」のためだったわけで すが、そこでの本当の関心事は「高等教育の世俗による独占状態をつき崩 すこと」だったといいます。そのため異教の作家たちの書は教科書や手引 き書という二次的な地位に貶められ、キリスト教の文献を主たるものとし て扱っていたというのですね。ヴィヴァリウムもしくはカッシオドルスの 図書館で作られたことが確認されている写本は、もっぱらキリスト教関係 のもので、古典のテキストは含まれていないのだとか。 さて、自由七科に関しては、その著書『聖なる学・世俗の学の教育 (Institutiones Divinarum Saecularium Letterarum)』にその記述が あります。これもラテン語のテキストがhttp:// www.documentacatholicaomnia.eu/04z/ z_0484-0585__Cassiodorus__Institutiones_Divinarum_Saecularium _Letterarum__LT.pdf.htmlからダウンロードできます。二巻本から成る 書で、初学の修道僧を対象にした学問の手引き書です。例によってイルス トロ・アドの研究書も見ておくと、「世俗的な学問の価値はひたすら聖書 の理解のためにある」というのがこの書の基本精神だったとされていま す。そんなわけで、第一巻では旧約・新約の聖書の概要と、主な注釈者た ち(聖人たち)の紹介がまとめられ、第二巻が自由七科に当てられていま す。 第二巻の各章はそれぞれの学科の概要についてまとめられています。文 法、修辞、論理学、算術、音楽、幾何学、天文学という順番です。この順 番についての理由付けはとくに記されてはいないようなのですが、算術を 扱った第四章の第一節には、算術が音楽・幾何学・天文学の基礎となるの で、まずはそれが学ばれなくてはならない、といったことが記されていま す。また、末尾の結論部分の第一節には、そうした世俗の学問は、魂が地 上の事物を離れ、高次の世界(つまり天上世界の)へと至るための訓練で あるということが記されています。アウグスティヌスやカペラと同様、こ こでも新プラトン主義的なビジョンが根底にあることが窺われます。 ちょっと古い論文ですが、レスリー・ウェバー・ジョーンズ「カッシオド ルス『教育』の文体と語彙に関する覚え書き」(Leslie Webber Jones, Notes on the Style and Vocabulary of Cassiodorus' Institutione, in "Classical Philology" Vol. 40, No.1, 1945)(http://www.jstor.org/ stable/266232)という文章に、この書で扱われている七科のソースも しくはプログラム(出典であると同時に、学ばれるべき書でもあります) について手短にまとめられている箇所があります。まず三科ですが、文法 についてはドナトゥス(四世紀のローマの文法学者)がベースになってい ます。修辞学はキケロの『構想論(De Inventione)』やフォルトゥナ ティアヌス(やはり四世紀の文法学者)など、論理学はアリストテレス 『範疇論』、偽アプレイウス『解釈論』、マリウス・ウィクトリウス(四 世紀の新プラトン主義の哲学者)の著作、さらにボエティウスによるポル フュリオスの『エイサゴーゲー』訳などが挙げられています。 ちなみにアドによると、カッシオドルスのほかカペラも同じような著者を 挙げているといいます。論理学に見られるそうした読書のプログラムは、 セビリャのイシドルスによって再録され、それを通じて後に「旧論理学」 (logica vetus)と呼ばれるようになった、とアドは記しています。 ジョーンズの論文に戻ると、四科については、まず算術は基本的にソース となる文献が不明だとされています。ボエティウスの『算術論』などはご く小さな扱いなのですね。音楽についてはガウデンティオスの音楽書のラ テン語訳がとりわけ推奨されています。幾何学や天文学については、同じ くソースは不明です。これは1945年の論文ですが、その後にソースをめ ぐる研究にどういう進展があったのかは寡聞にしてわかりません。また、 実際のところ、カッシオドルスのその書が中世においてどれほど普及した かも疑問です。アドが指摘するように、あるいはイシドルスがその普及役 になったのかもしれません。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その12) グレゴリウスによる結論部の論証は次回取り上げた箇所までで、続いてテ キストでは結論部への異論が示され、さらにグレゴリウスによる異論への 反駁が展開されていきます。この異論の部分はとりあえず訳出せずに、ま とめを付ける形にしたいと思います。というわけ今回からは異論への反駁 の部分を見ていくことにします。 まず第一の結論への異論ですが、それは六つほどあります。今回の取り上 げる箇所はその六つのうち最初の異論への反駁です。「悪しきものとは実 体ではない」(第一の結論)に対して、悪は善の中にあるものだ、という のが最初の異論です。たとえば腐敗は悪とされるが、なんらかの実体の中 にあるではないか、実体でないものが実体の中にあることはできないでは ないか、というのです。では反駁を見ていきましょう。 # # # (Ad obiectiones contra primam conclusionem) Ad primam dicendum illas locutiones et universaliter omnes alias auctorum significantes privationes aliquas esse in rebus quibuscumque non esse accipiendas in sua proprietate, sed ad sensum quem auctores habebant, qui non intendebant significare aliquas entitates esse in quibusdam aliis entitatibus, sed potius eas non inesse quae inesse debebant, et ideo, cum malum aliquod dicitur esse in re aliqua, non aliud significatur, nisi quod aliquod bonum illa non habet, quod ipsa deberet habere. (第一の結論への異論に対する反論) 最初の異論に対しては、こう述べなくてはならない。ある種の欠如は事物 のうちにあるという、彼らやほかのあらゆる権威者たちに広く見られる議 論は、すべてその字義通りの意味としてではなく、それら権威者たちが言 おうとしていた意味で理解されるべきである。彼らは、任意の実体に別の 実体が存在すると言おうとしていたのではなく、むしろ、内在してしかる べきものが内在していないと言おうとしていたのである。したがって、な んらかの事物に悪が存在すると言われる場合、事物が持ってしかるべきな んらかの善を持っていないということを言おうとしているにすぎない。 Hoc docet Augustinus in De Genesi ad litteram imperfecto, super illo verbo "Et tenebrae erant super faciem abyssi", dicens: "Revera qui diligenter considerat quid sunt tenebrae, nihil aliud invenit quam lucis abstentiam. Ita igitur dictum est: 'Tenebrae erant super abyssum', ac si dictum esset: 'Non erat lux super abyssum'". Et sicut hic de verbo essendi, sic etiam de verbo habendi docet esse intelligendum in libro De vita beata capitulo 3, ubi dicit quod "locum aliquem habere tenebras nihil aliud est quam lumen non habere" et habere stultitatem vel egestatem non est aliud qam non habere sapientiam. Et "quamobrem" inquit ipse, "ut quod volo explicem sicut possum, ita dicitur 'Habet egestatem', quasi dicatur: 'Habet non habere'". Ex his patet quod ex talibus locutionibus non potest concludi quod mala aut aliquae privationes sint ullae entitas Simile in sententia ex toto ponit Anselmus De casu diaboli capitulo 41 et De conceptu virginali capitulo 5 このことをアウグスティヌスは『創世記逐語解』において説いており、 「そして深淵の上面に闇があった」という一文について、こう述べてい る。「実際のところ、闇とは何かを敢えて考察する者は、それが光の欠如 以外の何ものでもないことを見てとる。だからこそ、《闇は深淵の上に あった》と言われているのは、《深淵の上に光はなかった》と言われたの とほぼ同義なのである」。また、ここでの「ある」という動詞についてと 同様に、「持つ」という動詞についても理解されなくてはならないと、ア ウグスティヌスは『至福の生』第三章で説いている。アウグスティヌスは その箇所で、「場所が闇を持つという文言は、光を持たないということに ほかならない」と述べ、また愚かさ、不足を持つとは、知恵を持たないこ とにほかならないとも述べている。アウグスティヌスはみずからこう述べ ている。「それゆえに私はできるかぎりの説明を施したいと思うのだが、 《不足をもつ》と言われるのは、《もたないことをもつ》と言ったも同然 なのである」。このことから明らかなように、そうした議論をもとに悪や なんらかの欠如が実体であると結論づけることはできない。 そうしたいっさいについて、アンセルムスも同様に『悪魔の失墜』第四一 章や『処女懐胎』第五章において、みずからの見解を語っている。 # # # リミニのグレゴリウスの反駁は、基本的にはこれまで述べてきたことの繰 り返しのようでもありますが、動詞に着目しているあたりが面白いです ね。どうしても実体を伴うように見えてしまう「ある」に対して、それを 「ない」で言い換える、つまり否定形へと開く(ちょっと変な言い方に なってしまいますが)ことで、その実体的な見かけを払拭しようとしてい ます。「もつ」も同じ構造で、実体を伴うように見えてしまうわけです が、それを否定形に開くことで、文の字義的な意味においては消されがち になる真の意味(こういうと語弊もありそうですが)が浮かび上がる、と いうことなのでしょう。 さて、複合的意味対象についての参考文献の読みもだいぶ進んできまし た。そんなわけで、このあたりでちょっと脇道に逸れ、ほかの研究論文に も目を通してみたいと思います。今回取り上げるのは、ネットで公開され ているマーク・タッカーの「リミニのグレゴリウスと未来時制の論理」 (Mark Thakkar, Gregory of Rimini and the Logic of the Future, Warburg Institute MA Dissertation, 2005)というものです(http:// users.ox.ac.uk/~ball2227/files/rimini.pdf)。修士論文ということです が、いわゆる未来時制を扱う命題に真理値はありうるのかという古来から の問題に、グレゴリウスがどう対応しているかを検討していて、なかなか 興味深いものがあります。 グレゴリウスはおそらくボエティウスを通してアリストテレス論理学を学 んでいるだろうといいます。用語の使い方などからそれと分かるのです ね。命題もいくつか下位分類されていくわけですが、未来形が問題となる のは、「未来について、事実を扱う無条件の単一命題」、しかも生じるか 生じないかのどちらに転ぶかわからない偶有的な命題に限定されます。そ うした命題について真偽を立てることはできるのでしょうか。仮に真であ るなら、それはどのように判明するのでしょうか。中世においてはたとえ ば「反キリストが到来するだろう」という命題などが問題になるわけです が、それが真であることはどう担保されるのでしょうか。 グレゴリウスは『命題集注解』第一巻三八章一の二でこの問題を扱ってい るといい、次のような結論を提示している、と論文著者は言います。すな わち、未来を扱う単一の命題のそれぞれは真偽のいずれかであるものの (未来の時点に至り、その意味内容が生じているか生じていないかで真偽 が判明する)、現在の時点ではどれが真でどれが偽であるかは知りえな い、ただ論理学的な矛盾について「これは真でこれは偽」と言うことは可 能だ(開かれている)、というのです。 前回までに見たように、複合的意味対象それ自体は「無」であるとするグ レゴリウスは、それでもなおそこに真偽を持ち込むことはできると考えて います。この論考は、そうしたグレゴリウスの考察の筋道を、より近代的 な論理学的見地から骨子として取りだそうとしています。詳細には立ち入 りませんが、グレゴリウスが依拠しているのは、やはり真理の対応理論 (correspondence theory of truth)、つまり意味内容が実在するかど うか、生起するかどうかが真偽を決定するという理論だといいます。それ を中心に全体の議論が構築されているというのですね。 もちろんそうした立場に対して、(論文著者が試みているように)未来文 は基本的に事実を扱うことはできず、したがってすべて判断文にならざる をえない、ゆえにそれは別種の評価を要する、といった批判を加えること は可能です。でもそれはそれとして、グレゴリウスの場合には、その議論 が神学的な問題(全能の神の知)や自由意志の問題に結びついていること は明らかです。論文著者も末尾で述べているように、神の目からすれば、 未来の事実を扱う命題の真偽は明らかで、また神は誰を救い誰を地獄に送 るのかも絶対的な自由意志で決めることができます。その昔にアウグス ティヌスがペラギウスの自力救済の理論に反対したように、アウグスティ ヌス思想を受け継ぐグレゴリウスは、たとえば未来が決定されおらず、救 済の責任は各自にあるとしたペトルス・アウレオリとは逆の立場を取り、 神にとっての真偽の判明、神の自由意志の見地から、実体を伴わない命題 (未来時制の命題など)についても真偽があるという議論を導いたのだと 言えそうです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------