〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.236 2013/03/23 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その10) セビリャのイシドルスは初期中世に広く読まれた著者でした。たとえば一 世紀半後のアルクイン(735頃〜804)などもその熱心な読者でした。 ヨークで学び、後にシャルルマーニュの宮廷に仕え、教育制度の再建を進 めるなどしてカロリンガ・ルネサンスの一躍を担った人物ですね。アルク インはイシドルスのことを、「スペインで彼以上に輝かしい人物はいな かった」と評しているといいます。これはアンドリュー・フレミング・ ウェストの古典的著書、『アルクインとキリスト教学校の台頭』 (1892)で紹介されているコメントです。同書の第一章が自由七科の略 史に割かれているのですが、その章の末尾にそう記されています。この ウェストの著書はPDFなどのフォーマットでダウンロードできます (http://archive.org/details/alcuinriseofchri00westiala)。 同書に引用されているイシドルスへの評価は、もともとアルクインの書簡 に記されていたものです。アルクインの書簡は、『モヌメンタ・アルクイ アーナ』(Monumenta Alcuiniana, ed. Philipp Jaffe, 1873)という書 籍にまとめられています。引用元は同書所収の書簡115です。このテキス トも同じくネットからダウンロードできます(http://archive.org/ details/monumentaalcuin00wattgoog)。いきなりアルクインの話に なってしまいましたが、そこにいたる歩みも簡単に振り返っておきましょ う。 六世紀末から、大グレゴリウス(グレゴリウス一世)はその特使カンタベ リーのアウグスティヌスを通じて、イングランドへのキリスト教の普及を 行いました。その基本は修道院を開設して、修道僧を教育することにあり ました。すでに五世紀からキリスト教が伝わっていたアイルランドには、 大陸の学問的伝統も温存されていました。そんなわけで、イングランドに 修道院が出来ると、だいぶ限定された形ではあったようですが、大陸の学 問の一端もアイルランド経由で伝えられていくようになります。そのよう にして文化的な風土が熟成していくなか、イングランドはやがて尊者ベー ダ(673〜735)を輩出します。ベーダは教育に熱心で、イングランドに おける修道院の拡大に伴い、修道院に付属する学校の制度化に尽力したよ うです。ベーダもまたイシドルスを愛読していたらしいのですが、ベーダ が尽力していた修道院学校では、カリキュラムとして自由七科が確立され たということはなかったようで、学生は必要な技能を徒弟として身につけ ていったとされています(以上は、ケンダル編『ケンブリッジ版ベーダ必 携』2011の、第七章冒頭部分の要約になります)。結局、自由七科の復 活にはアルクインを待たなくてはならないようです。 八世紀末、シャルルマーニュは荒廃したローマの公立学校の惨状を目に し、教育制度の再建に着手します。その際に宮廷に顧問として呼ばれたア ルクインは、修道院、宮廷、教会などの図書館の拡充を図り、みずからも 宮廷人たちの教育に従事します。と同時に、学問的な手引き書などを記 し、天文学(占星術)を含む(これがとりわけ特徴的とされます)教科の 確立にも貢献したようです。 上のウェストの研究書によれば、アルクインの学識は基本的に、イシドル スのほか、ボエティウス、カッシオドルス、そしてベーダの著書などに立 脚していました。マルティアヌス・カペラの本も、アルクインが学んだ ヨークの図書館にあったといいますが、アルクインはカペラに一度も言及 していないようです。当時のキリスト教の教育においては、聖書の解釈と それにまつわる教父たちの著書が主体だったことから、おそらくは異教的 な香りのするカペラの寓意詩などは直接には取り上げられなかったので しょう。そのほうが無難だったわけですね。ある意味、そのあたりに、ア ルクインの思想的な限界があったのかもしれません。たとえば(ちょっと 反則気味な文献紹介ですが……苦笑)、ジョゼフ・マッカーシー『ヴァン サン・ド・ボーヴェの教育思想における人文主義的力点』(Joseph M. McCarthy, Humanistic Emphases in the Educational Thought of Vincent of Beauvais, Brill, 1976)という本に、序論的な形でアルクイ ンの評価が記されています。アルクインは教育的な空隙を埋め、新たな独 自のカリキュラムを作成したとされていますが、一方で独創的な思想家で はなかったとも述べています。 ウェストもマッカーシーも触れていますが、アルクインにはいくつか教育 に関わる著作があります。三科に関係した代表的なものとしては、『文法 について』『正書法について』『修辞と徳について』『弁証法について』 などがあり、四科のほうでは、暦法関係の書『月の運行・満ち欠けと閏日 について』などが挙げられます。これもマッカーシー本からの孫引きにな りますが、『文法について(De Grammatica)』(これは師と弟子との 対話篇で、二部構成になっており、前半は学問の方法論や学生の義務など を説き、後半が本来の文法についての議論になっています)には、次のよ うな一節があります。「それら(七科)は、あなたが求め、その高みに登 ろうと熱意を燃やすと同時に好奇の目でもって眺めている階梯です。すな わち、文法、修辞、論理、算術、幾何、音楽、天文学です。哲学者たちは それらによって余暇を過ごし、またそれらに労力を費やしてきたのです。 われらが聖なるカトリック信仰の博士たちや擁護者たちも、それらによっ て、公の討議の場において異端の者たちに勝ってきたのです」。アルクイ ンはこのように、自由七科を高く評価していました。しかも、初期のキリ スト者たちのようにそれらを聖書解釈に役立つ補助的な学知とは考えず に、むしろ神学を修める上での必須の学知と評したといいます(pp. 85-87)。そこに、アルクインの「独自性」が見て取れるのかもしれませ ん。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その14) 今回は第三と第四の異論に対する反駁部分です。第三の異論は、「善を欠 いて大きな悲しみを感じる者よりも、善を欠きながらも悲しみを感じない 者のほうが悪を被る度合いが低いのは、不条理なのではないか」というも のです。また第四の異論は、「博士たちの一般的な区別に反して、すべて の苦しみは劫罰の苦しみであり、感覚的な苦痛ではないということになる のではないか」というものです。ではさっそく見ていきましょう。 # # # Ad tertium concedo quod, si quis privaretur illo bono et non haberet tristitiam, non minus malum haberet nec minus male sibi esset quam si simul cum illa privatione magnam tristitiam haberet, dummodo per illam tristitiam nullo alio bono vel gradu boni privaretur. Et hoc ideo, quia ipsa nihil amplius sibi noceret, ac per hoc nec detriorem faceret. 第三の異論に対しては、私は次のように応じよう。善を欠き、それでいて 悲しみを感じない者の場合、善を欠き大きな悲しみを感じる者よりも悪を 抱く度合いが少なく、本人にとって悪しきこととなる度合いも少なくな る、というわけではない−−その悲しみによって、ほかの善あるいは善の 度合いが減じない限りにおいてだ。そうした悲しみは、本人をそれ以上害 することもないだろうし、それゆえにさらなる悪をもたらすこともないだ ろう。 Ad quartum dicendum quod ista locutio 'poena damni' potest esse intransitiva, ut sit sensus: Poena quae est damnum. Et sic loquuntur doctores, cum distinguunt de poena damni et sensus, per poenam damni intelligentes ipsum damnum seu privationem alicuius boni, per poenam autem sensus aliquod sensibile nocivum. Alio modo illa locutio potest esse transitiva, ut dicatur poena damni poena causans vel inferens damnum seu quam consequitur damnum. Potest ergo consequens illud tripliciter accipi: Uno modo sumendo poenam damni determinate primo modo tantum; alio modo ut sumatur poena damni determinate secundo modo tantum; tertio modo ut sumatur communiter ad primum et secundum modum. Si sumatur primo modo, neganda est consequentia; et similiter, si secundo modo sumatur. Si vero tertio modo capiatur, supposito quod omnis poena sit malum, concedendum est consequens quantum ad istam partem 'omnis poena est poena damni'. Sed pro alia parte, qua videlicet dicitur quod 'nulla est poena sensus', neganda est consequentia; nam poena sensus etiam est poena damni, id est quam consequitur vel comitatur damnum. 第四の反論についてはこう言わなくてはならない。「劫罰の苦しみ」とい うその言は、「劫罰であるところの苦しみ」という場合の意味で、自動詞 的でありうる。劫罰の苦しみと感覚的な苦痛とを区別する場合、教会博士 たちが述べるように、「劫罰の苦しみ」は劫罰そのもの、もしくはなんら かの善の欠如と解され、一方の「感覚的な苦痛」は、なんらかの感覚的な 害と解される。他方、その言は別の意味で他動詞的でもありうる。「劫罰 の苦しみ」が、劫罰を生じせしめるかもしくは招き入れる苦しみ、ないし は結果的に劫罰を伴う苦しみを意味する場合である。 したがって、結果的にそれは三重の意味に取ることができる。一つめは 「劫罰の苦しみ」をその第一の意味(自動詞的な)に限定して解釈する場 合である。二つめは「劫罰の苦しみ」を第二の意味(他動詞的な)に限定 して解釈する場合である。三つめは、第一と第二の共通の意味で解釈する 場合である。第一の意味に取る場合、結論は否定されなくてはならない。 第二の意味に取る場合も同様である。第三の意味に取る場合、つまりあら ゆる苦しみは悪であるとする場合、「すべての苦しみは劫罰の苦しみであ る」という部分については結論は認められなくてはならない。ただしもう 一つの部分、すなわちそれをもとに「いかなる苦しみも感覚的な苦痛では ない」と言われる部分については、論理的帰結は否定されなくてはならな い。感覚的な苦痛が劫罰の苦しみであるということは、劫罰に帰結もしく は付随するからである。 # # # 意味論的な区分を通じて問題を整理するというのは、すでにして論理学的 な常道とも言えますが、ここでもその手法が用いられています。劫罰の苦 しみ(poena damni)という場合、その「劫罰の」という句を「苦し み」の同格と取るか、あるいは目的語的に取るかで、意味を分けて考えよ うというのですね。同格と取る場合(自動詞的)、苦しみ即イコール劫罰 とは必ずしもならないのであれば、前半部分の全称命題(「すべての苦し みは劫罰の苦しみである」)は偽となります。目的語的に取る場合(他動 詞的)、苦しみが必ずしも劫罰を引き入れないとすれば、前半部分はやは り偽となります。次にグレゴリウスが示唆している、これら両者に共通す るという三番目の意味というのは何でしょうか。おそらく上の二つの意味 をANDで結ぶのではなく、ORで結んだ場合を指すでのはないかと思われ ます。そうすることで、苦しみをすべて網羅できるのであれば、前半部分 の全称命題が真であるということになるでしょう。しかしながら、感覚的 な苦痛であることを全否定する後半部分は偽となる、とグレゴリウスは論 じています。 * * * さて、今回もまた、リチャード・クロスの論考「無限、連続、構成:リミ ニのグレゴリウスの寄与」(http://www.medievalists.net/ 2010/10/15/infinity-continuity-and-composition-the-contribution- of-gregory-of-rimini/)に即して、グレゴリウスの連続体論について見 ていきましょう。前回も見たように、リミニのグレゴリウスは大きさが点 のような不可分のものから成っているとは考えていません。その代わりに どういうモデルを想定しているかというと、それは大きさが「応分の部 分」から成るというものです。応分の(proportional)とは、たとえば 全体を半分に、それをまた半分、それをまた半分というふうに分割して いったときの、任意の回数において得られる部分のことを言います。さら にその部分のことを、「潜在的」部分とも称します。つまり、これこれの 部分というふうに名指しできるような実体としての「何か」ではないとい うことです。 そうした潜在的部分は、実際に分割されてはいないものの、「概念的に」 (知的操作として)分割でき、数え上げることもできる、とグレゴリウス は考えています。とはいえそれは「現実的に多数である」とされ、それは 無限にあるということなので、実際には数え上げることはできないのです が、原理としては可算であるということなのだと思われます。いずれにし てもここから、大きさというものは現実に、外延をもった潜在的な部分か ら構成されているということになります。 クロスによると、一四世紀には現実的無限・潜在的無限というアリストテ レス的区別が、共義的(syncategorematic)意味での無限(任意の有限 数に対して、必ずその数より大きい数があるということ。連続体を話で言 えば、連続体を分割してできる部分の数は果てしなく大きくなるというこ と)と、自立的(categorematic)意味での無限(いかなる有限数より も大きい数があるということ。連続体の分割は果てしなく続き完了しない ということ)とを分けて考えるようになります。たとえばオッカムの場 合、連続体における「部分」の議論では、共義的意味での無限を認めつつ 自立的意味での無限を否定しているといいます。グレゴリウスの考える無 限もまずはこの共義的意味での無限なのですが、そこでグレゴリウスは、 共義的意味での無限の部分があることによって、自立的意味での無限の部 分が導かれると論じます。大きさは無限に分割できるので、外延をもった 任意の部分は、外延をもった任意の部分にさらに分けることができます。 ということは、部分が無限にあるのですから、部分を合わせた全体もまた 無限(大きさの内部において)にならなくてはなりません。 こうしてグレゴリウスは、大きさは外延をもった潜在的な無限の部分から 成ると考えます。この場合(部分が全体を構成するという場合)に悩まし いのは、不可分論に見られるような部分同士の接合(隣接)の問題です。 グレゴリウスは、各部分はほかの無限に多くの部分と直接的に「接して」 いるのだと考えます。連続体の無限の部分は、それぞれが分割可能な他の 部分を含んでいるという意味で互いオーバーラップしているとされ、その 意味で任意の部分は、もとより他の部分(多くの)と「接合して」いなく てはならないことになるというわけです。 それらの議論の一方で、グレゴリウスはそもそも、大きさの分割をプロセ ス(つまり果てしなく途上にあるもの)として考えてはいない、とクロス は論じています。分割は原理上は無限でも現実的には完了していると見な さなくてはならず、部分はすでにしてそこにあると考えなくてはならな い、とグレゴリウスは推論しているというのですね。つまり、ここにおい てグレゴリウスは、点のような不可分のものを召喚せずに、ある意味での 「不可分性」(分割の打ち止めの領域?)を持ちだそうとしているようだ というのです。おのれのうちにさらなる部分を潜在的に内包しながらも、 それ以上は現実的に分割できないものとして切り出された部分……一種の 「ミニマ・ナトゥラリア」を想定しているのでしょうか。そのような部分 は外延として大きさをもち、かつ不可分論が主張するような「点」とは異 なるものとされます。そしてそこから翻って、分割可能なものには二つの 意味があるとグレゴリウスは論じます。すなわち、一つは現実的または潜 在的に分割できるもの、もう一つは現実的に分割てきない部分をもつも の、です。 この二つの意味を使い分けることによって、グレゴリウスは分割論的テー ゼが直面する諸処の難点を解消しようとしているようなのですが(詳細は 割愛します)、グレゴリウスがそうした不可分性の想定を用いるのは、一 つには数学的分割にとどまらず現実的・自然学的な連続体の「構成」をも 考えているからかもしれません。そうした「不可分論的な想定を取り込 む」議論(構成を考える議論)は、もとより一四世紀のほかの論者たち (ヴォデハムやビュリダン、さらにはパルマのバシリウスなど)に広く見 られるスタンスのようです。このあたり、分割論と不可分論とが一部で共 有していた議論・認識(非アリストテレス的な)が浮かび上がってくるよ うで、なかなか興味深い部分です。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------