〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.238 2013/04/20 *お知らせ いつもご購読いただきありがとうございます。本メルマガは原則隔週の発 行ですが、例年通り5月の連休はお休みとさせていただき、次回の発行は 5月11日を予定しています。よろしくお願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その12) 前回はゲルベルトゥスが数の学を重視していたという話でしたが、それは どうやら、ゲルベルトゥス本人が取り込んだアラブの諸学においてとりわ け数の学が重視されていたからにほかならないようです。というわけで、 数学を中心に少しだけですがアラブ世界のほうにも目をやっておくことに しましょう。参考にするのは、ロシュディ・ラシド編『アラビア科学の歴 史』第三巻("Histoire des sciences arabes", dir. Roshdi Rashed, vol. 3, Seuil, 1997)から、ジャン・ジョリヴェによる一章「諸学の分類」 (pp.255-270)です。 まず最初に取り上げられているのはアル・キンディ(九世紀)の学問分類 です。キンディはアリストテレス哲学の体系をもとに学問の分類を行って います。現存する数少ない著作の一つに、『アリストテレスの著作順序に 関する書』または『アリストテレスの著作数および哲学研究に必要とされ るものについての書簡』と題されるものがあるといい、そこでそうした分 類を試みているといいます。ジョリヴェは同書の内容についても大まかに 紹介してくれています。それによるとキンディは、まずはアリストテレス の著作を列挙していき、それに続いて初学者がまず数学、つまり算術、幾 何、天文学、音楽の順に学んでいくことが必要だと説いているようです。 神学以外の人間に関する学において、知の対象となるべき事象とはすべて 実体と属性から成るものをいい、それを条件づけるのが量と質だとされ、 したがってそれらが哲学を構成する基礎なのだ、とキンディは述べている のですね。量は算術(量を扱う学)や音楽(調和の学、数比の学)、質は 幾何(不動の質についての学)や天文学(動的な質についての学)に関係 するとされます。さらに、学ぶ順番は扱う対象の複雑さに応じて決まりま す。 こうして初学として数の学を学んだ後に、論理学、自然学、形而上学、倫 理学へ、つまりは広義の哲学へと進んでいくことをキンディは奨励してい ました。アリストテレスの著作への準備として数学を位置づけているわけ なのですが、そこでは不思議と文法や修辞学は不在になっています。いず れにしてもキンディの場合、学知は一つの教育的な体系として捉えられて おり、修得する順番は揺るぎないもので、その進展は人類全体の発展の諸 段階にも対応しているとも考えられていたらしいのです。とはいえこのあ たり、やや曖昧さも残るようです。なにしろ現存する著作が少なく、学問 分類に関してはその書(書簡)のみという状況だからです。 それに比べ、キンディの後継者とされるファーラービー(一〇世紀)はよ り全体像がはっきりしているようです。学知の分類に関しては『諸学の列 挙』という著書があります。その序文では学問(人間の学)は五つに分類 され、それに神学が加えられて六つになっています。順に、言語の学、論 理学、数の諸学、自然学、神学、政治学です。政治学は厳密な意味での政 治学ではなく(そのようなものはアラブ世界にはなかったといいます)、 キンディが挙げている倫理学と重複するものです。ファーラービーのこの 分類は、教育のための序列づけというよりは当時の諸学のスケッチのよう なものと考えられているようです。最初に挙げられている三つ(言語の 学、論理学、数の諸学)は西欧の自由学芸に相当しますが、続く自然学、 形而上学、政治学(倫理学)はキンディの列挙と順番も同じです。 とりわけ興味深いのはやはり数の学が細分化されていることでしょう。数 の諸学は算術・幾何のほか、光学、天文学、音楽、重量学、技術学へと下 位区分されています。光学は幾何と同じように事物の大きさや形状を扱い ますが、それが「どのように現れるか」という観点から扱う点が異なりま す。重量学はいわば重量に関する計測学のようなものらしく、また技術学 は、ほかの数学の諸分野で論証された知を、自然の物体に適用するという 応用学の位置づけです。代数(応用としての)、建築学、各種の計測学、 天文学の器具や楽器の設計、武器の製造、光学器械の製造などがこの技術 学に含まれます。 技術学に括られる代数(方程式などの解法を扱うものですね)は、九世紀 にアル・フワーリズミーが考案し、ファーラービーと同時代のアル・カラ ジーによって発展を遂げた比較的若い学問でした。これが技術学に入れら れているのは、商業その他の外的事象に即した問題の解法を探る学問だっ たからでしょう。ですがそれは解法の原理を探る学問でもあったはずで す。ファーラービーは学芸(ars)と、その規則を成すものとして学知 (scientia)を区別していたといいます。いわば基礎理論と応用編です。 数学に関する限り、算術や幾何もある意味で応用ともいえますし、代数な どは規則を志向する意味で基礎理論ともいえます。そういう観点から見る と、数学の下位区分はいくぶん錯綜している感じもあります。ですが、い ずれにせよ当時は数学が著しい飛躍をとげていたようで、著者によれば、 光学、重量学、技術学といった区分は、それらが当時体現していた学術的 な進展具合を反映しているのではないかといいます。それらの諸学が重宝 されていたことの現れだというわけですね。かくして本来のアリストテレ スの分類では自然学の後に置かれていた数学は、順番(序列)で自然学の 前に躍り出ることになったのではないか、と論文著者は考えています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その16) 今回は第六の異論に対する反論部分です。第六の異論というのは次のよう なものです。「もし、善の本性のみを持つ天使が創造され、しかる後に堕 罪した場合、それは罪によって悪をなしてはいるものの、善の本性そのも のは欠如していないのではないか。同様に、死に値するほどの大罪の中で 生きる者が新たな罪を重ねる場合も、すでにあらゆる善を欠いているのだ から、以前よりもさらに善を欠くことにはならないのではないか。そうで あるなら、悪は必ずしもしかるべき善の欠如ということにはならないので はないか」。この異論に対してグレゴリウスが答えます。 # # # Ad sextum dicendum quod tam angelus ille quam etiam homo privaretur bono aliquo. Utrique enim sicut et cuilibet rationali creaturae bonum est esse naturaliter habilem ad bonum virtutis; et esse magis habilem est magis bonum. Hoc autem bonum in quocumque peccante minuitur per peccatum; nam per peccatum fit magis habilis ad vitium et minus habilis ad bonum. Et haec habilitas secundum aliquos est illud bonum ordinis seu ille ordo naturalis, cuius corruptionem dicit Augustinus esse malum in libro De natura boni, cum ait: "Malum nihil aliquid est quam corruptio vel modi vel speciei vel ordinis naturalis". 第六の異論に対してはこう言わなくてはならない。かかる天使も人間と同 様になんらかの善を欠く場合があるだろう。どちらにとっても、またいか なる理性的被造物にとっても、徳の善に本性的に適していることが善なの であり、そうした適性が大きければそれだけ善も大きい。だがこの善は、 罪をなすあらゆる者において、その罪ゆえに減じてしまう。罪のせいで、 悪徳への適性が増し、善への適性が減じるのだ。何人かの論者たちによれ ば、この適性は秩序の善、あるいは自然の秩序であり、アウグスティヌス はその堕落が悪なのであると『善き自然について』でこう述べている。 「悪とは、自然の様態、形状、秩序の堕落にほかならない」。 Ad propositum dico quod tam angelus ille quam homo privaretur bono huiusmodi ordinis seu habilitatis naturalis, non quia postea non essent habiles, sed quia minus essent habiles quam prius. Adhuc potest dici quod uterque privaretur bono naturalis ordinis sumendo talem ordinem juxta sententiam Augustini 22 Contra Faustum. Vult enim quod ordo, qui naturaliter esse debet in homine, est ut corpus sit subditum animae, inferior pars superiori, utpote sensualitas rationi, et iterum "actio rationis contemplationi sive per fidem operanti sicut quamdiu 'peregrinamur a domino', sive per speciem, sicut quando erimus aequales angelis dei". 大前提についてはこう述べよう。その天使が人間同様になんらかの秩序も しくは自然の適性の善を欠いているとすれば、それは後に適性がなくなる からではなく、以前よりも適性が減じるからなのだ。それに加えて、どち らも自然の秩序の善を欠く場合があると言うことができ、その際の秩序と はアウグスティヌスの『ファウストゥス論駁』二二書の文言での意味にお いてである。アウグスティヌスはこう論じている。秩序とは人間に本性的 に備わってしかるべきものである。肉体が魂に従属するように、また下位 の部分が上位の部分に、つまりは感覚が理性に従属するように。さらにそ れは、「『私たちは主から遠いところをさまよう』限りにおいての実践的 な信仰による、あるいは私たちが神の天使と同等となる場合にはその姿に よる、観想する理性の働きでもある」。 Hic autem ordo potest attendi secundum actum et secundum habilitatem, et utroque modo quoddam bonum est. Si enim bonum est ut homo sit taliter ordinatus, bonun etiam est esse habilem taliter ordinari. Ista autem habilitas in quolibet peccante minuitur; nam quilibet homo ex peccato redditur minus habilis ad hoc, quod ratio dominetur in ipso sensualitati, et contemplatio actioni. Similiter angelus redditur minus habilis ad hoc, quod eius actio seu activa vita contemplationi subdatur, et sic in ipso bonum minuitur. このような秩序は行為や適性に即して拡張されうるが、どちらにせよなん らかの善をなしている。人間がかように秩序づけられていることが善であ るとするなら、そのように秩序づけられる適性を持つことも善である。し かるにその適性は、なにがしかの罪によって減じる。いかなる人間も罪ゆ えに、それに対する適性が減じてしまう。つまり理性はみずからの感覚性 によって支配され、観想は行為によって支配されるのだ。同じように、天 使にあっても善への適性は減じうる。観想的生がその行為ないしは行動に 従属してしまい、かくしてみずからの善が減じてしまうのである。 # # # 異論は、罪の悪と本性の善は別ものではないか、あるいは罪によって善が 一気に帳消しになってしまうのではないかという議論ですが、繰り返し出 てきているようにグレゴリウスは悪の本質はしかるべき善の欠如であると 考えており、さらにここでは、善の本性は端的に失われるのではなく、罪 によって減じるのだと説いています。しかるべき善(善性)というのを、 改めて善への適性と規定しなおし、それが漸増・漸減するという考え方で す。これまで見てきたところで、悪は相対的なもの(備わってしかるべき 善性の欠如)とされてきましたが、これの裏返しであるかのように、善へ の適性は増減しうるものとされています。 本文中で言及されているアウグスティヌスの『ファウストゥス論駁』は、 408年から410年頃に書かれたもので、ファウストゥスは当時のマニ教の 司祭だった人物です。このアウグスティヌスの書からファウストゥスの思 想を再構築しようという論文もありますね(山田庄太郎「ファウストゥス のマニ教理解について」『宗教研究』2010)(http://ci.nii.ac.jp/naid/ 110007989433)。その論考でも触れられていますが、『告白』の中で アウグスティヌスは、ファウストゥスの弁舌と人柄を讃えてはいるようで す。ちなみに『ファウストゥス論駁』もPDFをダウンロードできます (http://www.documentacatholicaomnia.eu/04z/ z_0354-0430__Augustinus__Contra_Faustum_Manichaeum__MLT.p df.html)。引用箇所はその第二二書27章です。 * * * さて、前回までに「複合的意味対象」を中心とする意味論と、無限に関す る数学的思想をとりあえずざっと見てみたわけですが、当時の思想圏にお けるその位置づけ(といいますか、学問的な布置ですね)などは少し曖昧 なままです。ということで、そうしたグレゴリウスの立ち位置を、やはり 論考を見ながら確認しておきたいと思います。取り上げるのは、ちょっと 古いものですが、ゴードン・レフ「リミニのグレゴリウスの思想における 信と理」(Gordon Leff, 'Faith and Reason in the Thought of Gregory of Rimini', Bulletin of the John Rylands Library, 1959) (https://www.escholar.manchester.ac.uk/uk-ac-man-scw: 1m2043)という論考です。 グレゴリウスは『命題集注解』の序文で、知識論や神学の考え方について 触れています。同論文の著者はそこに三つの立脚点があると見ています。 まず一つめは経験知の重視で、知識を三段論法の結論部にのみ見るオッカ ムとは異なっています。二つめは知識と神学との線引きで、神学は信仰を 出発点とするところが単なる知識とは違っているとされます。三つめは、 そうした神学をもってしても、神そのものを識るには至れないという諦念 です。識りうるのは、啓示としての神でしかないというわけです。論文著 者はこれら立脚点のそれぞれについて詳しい検討を加えていきます。 まず一つめについてですが、知識の対象とされるのは外的な事物そのもの ではなく、心的な命題として論証されて得られる結論であるとされます。 直接的な認識はそれ自体では知識とはならず、必ずそうした論証を経なく てはならないのですね。その論証を通じて人は対象の是・非、あるいは 真・偽を判断します。そうして心的に論証・判断された命題こそが真の知 をなすとされるわけです。そしてそれは(1)言語に対応する心的な像、 (2)言語に対応しない心的な概念に分かれ、後者はさらに(2a)経験か ら生じるものと、(2b)既存の知識から生じるものとに下位区分されま す。(1)は判断(承認)や新規の知識を含まずともよく、(2a)は新規 の知識と承認を含んでいます。(2b)は知識自体は既存のものですの で、承認のみが必要とされます。こうしてグレゴリウスは、心的な命題は 必ずしも知られる対象への承認を含んでいなくてもよく、またすべての命 題が知識を構成するとは限らないと考えます。このように知識と論証(判 断)は完全に一致するわけではないことから、それらが一致すると見る オッカムの議論は受け入れられないというわけです。 知識はこのように複合的な操作によって生じるものとされます。言明(命 題)・認識・承認(認知)は、個別に析出されるとはいえ実際には「同時 的に」成立する単一の心的プロセスにほかなりません。この複合的なプロ セスゆえに、グレゴリウスのソリューションはオッカムと異なるだけでな く、論文著者によると(命題の)全体的意味(signifiatum totale)とい う新しい要素を導き入れて新しい展望を開いていくことになる、といいま す。全体的意味は、(A)任意の記号を含み、(B)真であるようなあら ゆる記号を意味することができ、(C)実在する事物を指すことは当然で きるほか、現実において無であるようなものをも意味することができます (前に見たように、複合的意味対象とはそうした全体的意味をなす当のも のです)。 命題は複合的な性格をもっており、その認識と承認は知識を得るための前 提条件ですが、それは(繰り返しになりますが)一続きのプロセスです。 得られる知識が真であるためには、まずは事象の実在が明確に知覚される (これは直接的認識と言われます)必要がありますが、それすらすでにし て理解(認識)と判断(承認)に融合し一体化しているとされます。かく して、(1)知識が真であるためには直接的認識に立脚していなくてはな らず、結果的に知識は純粋に心的な産物とされます。また(2)このプロ セスが言明(命題)と結びつく場合、知識の対象は結論部分の全体的意味 となり、主部、述部だけが切り離されることはない、とされます。さしあ たり以上が、上の論文によるグレゴリウスの知識論の骨子です。神学に関 係するグレゴリウスの立脚点のまとめはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は変則的に05月11日の予定で す。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------