〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.239 2013/05/11 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その13) アラブ世界における学問分類の話をもう少しだけ見ておきましょう。 ファーラービーについては、数学を自然学や神学の前に置き直した点にそ の独自性があったとされていますが、その同じジョリヴェの論考は、独自 に学問分類を再考した人物としてさらに11世紀のイブン・スィーナー (アヴィセンナ)を挙げています。 スィーナーが学問分類を扱った書は主に二つあるようです。一つは大著 『治癒の書』の第六書です。アリストテレスの『分析論後書』を扱ったそ の書は、訳者たちによって「論証」というタイトルが付けられていて、そ の第二部第七章が諸学の関係性について論じた箇所になります。いわば諸 学の分類の「理論」をまとめている箇所だといいます。学問は扱う主題に よって分かれるとともに、同じ主題を扱うものでも扱い方で分かれます。 前者はさらに、扱う主題が類と種に分かれる場合と、共通部分と差異とに 分かれる場合が下位区分されます。さらに前者は……というふうにさらに 細かい下位区分されていくのですが、このあたりはちょっと煩雑なので、 ここでは割愛します。 そうして得られた全体図では、末端の個々の諸学がより大きな階層に従属 するという構図になります。全体図が自覚されてこそ、諸学はそれぞれ、 共通部分、主題、個々の問題などにおいて連携を図ることもできるように なる、というわけですね。この、諸学が関係を結びネットワークを構成し ているという発想こそが、キンディやファーラービーともまた一味違う スィーナーの独特な学問観と言えるらしいのです。 ところがスィーナーにはもう一つ、やはり学問分類について述べた文書が あります。『知的学問の分割に関する書簡』というもので、そちらはアリ ストテレスの議論を直接的に下敷きにした分類を提唱しています。哲学を 出発点とし、理論の学と実践の学を分け、前者に自然学、数学、形而上 学、論理学を含め、後者に倫理学、経済学、政治学などを含めるというも のです。それぞれはさらに下位区分され、主たる学問と派生的学問とに区 分されます。 たとえば数学では、主たる学問は算術、幾何、天文学、音楽の四つで、そ のそれぞれの下に派生的学問が従属します。算術にはインド式算術や代 数、幾何には測定術、工学技術、重量・平衡学、機械学、光学など、天文 学には天文表の技術や暦学、音楽には諸楽器の扱い方などの派生的学問が あるとされます。ジョリヴェも指摘していますが、この分類はアリストテ レス色が強く、挙げる順番もそれに倣っています。数学の主たる学問の順 番をみても、ピュタゴラスなどの順番ではなく、アリストテレスが挙げた ものに準拠しています。ジョリヴェはこの点について、ファーラービーの ほうがアリストテレスへの批判の度合いが高いと指摘しています。 ですが派生的学問の区分に関してはスィーナー独自の分類がなされていま す。その区分を設けたことにより、従来の四科に含まれないもの(代数、 光学、機械学など)をうまく分類できています。では、この分類と、上に 挙げた『治癒の書』での分類理論との関係はどうなっているのでしょう か。一部の学問については両者は互いに呼応しているようですが、一部で は齟齬も生じているように見えます。 たとえば医学が自然学の下に、視覚論が幾何学の下に分類されているのは 両方の書で一致していますが、たとえば音楽の扱いには違いがあります。 『治癒の書』では音楽は、主に自然学に関係するものとして扱われてると いいますが(ちょっとこのあたり微妙に錯綜している感じですけれど)、 『書簡』ではそれはもろに数学の下に置かれています。ジョリヴェによれ ば、その不一致は見かけにすぎず、自然学の主題と数学の主題は、いわば 類とその類の下に置かれた種の偶有との関係にあるとされています。数学 は量の様態を扱いますが、そもそも量とは自然学が扱う物体に宿る偶有だ というわけです。で、音楽はそういうものの一部をなすというわけです ね。アリストテレスの分類法を突き詰めることが、結局は両者の不一致を 解消する鍵になっている、と論文著者は述べています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その17) 異論への対応部分も今回でラストです。今回は第二の結論への異論です。 第二の結論というのは「悪はそれ自体で実体ではないが、なんらかの実体 に存する」というものでした。これに対する異論として次のようなものが 挙げられています。(1)「(善である)実体の全否定は悪ということに なるが、創造される前の可能態としての被造物がそっくり否定される場合 は事実上、悪とはいえない。一方、より大きな善の否定はより大きな悪と なる。また失われるものが多ければいっそう大きな悪となる(たとえば賢 慮だけが失われる場合よりも、賢慮と正義が失われる場合のほうが大きな 悪である)。ならば全否定は最大の悪となるはずだ(ゆえに上と矛盾す る)」、(2)「非存在は、しかるべき偶有的善の欠如よりも回避すべき ことである。追求すべきは善であり、悪こそ回避すべきことなのだか ら」、(3)「善の否定は悪であり、実体の否定は実体のもとにはない (よって悪は実体のもとに存しない)」。では、リミニのグレゴリウスに よる反駁を見ていきましょう。 # # # (Ad obiectiones contra secundam conclusionem) Ad argumenta contra secundam concluisionem respondeo. Ad primum nego antecedens pro parte secunda. Ad primam probationem dico quod non quaelibet 'maioris boni negatio est maius malum', immo aliqua non est malum, ut ex dictis patet, sed negatio maioris boni debiti inesse, constantia subiecti supposita, sicut non quaelibet negatio maioris boni est maius vitium vel maior difformitas, utpote quae non supponit constantiam subiecti debentis habere tale bonum, immo talis nec vitium nec difformitas est, quamvis minoris boni negatio in subiecto, cui debet inesse, et vitium et difformitas sit. / (第二の結論への異論に対して) 第二の結論への議論に対して私はこう答えよう。第一の異論に対しては、 二つめの部分の前提を私は否定する。最初の証明に対しては、「より大き な善の否定はより大きな悪である」とは必ずしもいえないと述べよう。そ れどころか、すでに述べたところからも明らかなように、任意の善の否定 が悪なのではなく、基体の一貫性を前提とする場合の、内在するより大き なしかるべき善の否定が悪なのである。したがって、そうした善をもつし かるべき基体の一貫性を前提としない限り、より大きな善の否定がより大 きな悪徳、あるいはより大きなゆがみをなしているわけではない。それど ころか、そのようなことは悪徳でもゆがみでもない。だが基体に内在して しかるべき善の否定は、それがどれほど小さかろうと、悪徳であり、ゆが みでもあるのだ。/ Ad secundam probationem nego consequentiam. Et si in consequente accipiatur proprie privari, patet quod implicat impossibilita; nam, cum privatio proprie accepta supponat constantiam subiecti, impossibile est aliquid privari quin sit, et per consequens habeat seu sit aliquod bonum. Si vero accipiatur improprie, ita quod significatum subiecti ipsius consequentis sit id ipsum quod nullum bonum habere seu esse, adhuc non tenet consequentia propter causam dictam, scilicet quia esse malum et similiter esse peius vel pessimum supponit constantiam subiecti. / 第二の論証については、私はその結論部を否定しよう。結論において「失 われる」を本来の意味に取るなら、そこにありえないことが含まれること は明らかだ。本来の意味での「欠如」は、基体の一貫性を前提とするので あるから、そこに存在しない何かが失われることはありえないし、結果的 にそれがなんらかの善を有していたり、善であったりすることはありえな い。さらに、本来の意味でなく取るならば、その結果基体の意味は、いか なる善ももたない、あるいはいかなる善でもないということになり、その ため、先に言われていた原因に対する結果は成立しないことになる。つま りそれは、悪しき存在と同様、より悪しき存在、あるいは最も悪しき存在 も、主体の一貫性を前提とするからである。/ Unde sicut non sequitur, ut innuit Augustinus in De natura boni, quamvis id, quod in eodem tempore, minus movetur, sit tardum, et quod adhuc minus, sit tardius, non tamen sequitur id, quod nullatenus movetur, sit tardissimum vel maxime tardum. Et similiter, si aliquid luminosum aliquo gradu sui luminis privetur, ipsum fit obscurum. Et si adhuc alio tanto gradu privetur, ipsum fit obscurius. Si tamen omni gradu luminis privetur, non fit obscrissimum, immo nec obscurum, sed tenebrosum. Et hoc ideo, quia tarditas nonnis ei, quod movetur, et obscuritas nonnisi ei, quod habet aliquid lucis, inest; et sic in proposito, quia malum seu malitia nonnisi existenti inest. したがって、アウグスティヌスが『善の本性について』で示したように、 一定の時間においてわずかに動くものは遅く、さらに小さく動くものはさ らに遅いものの、だからといってまったく動かないものが一番遅いとか、 あるいは非常に遅いということにはならない。同様に、光輝くものがある 程度においてその光を失うとそれは暗くなり、また失う程度が高ければそ れだけいっそう暗くなりはする。しかしながら、すべての光が失われた場 合、それは最も暗くなるのではなく、それどころか暗さですらなく、闇と なる。これはつまり、遅延は動くものにのみ内在し、暗さは光をもつもの にのみ内在しているからなのだ。同じように目下の命題でも、悪もしくは 悪徳は、存在するものにのみ内在しているのである。 Ad secundam concedo antecedens, et nego consequentiam. Ad probationem dico quod falsum assumitur; nam et aliquid non malum est fugiendum, utpote cuius oppositum est appetendum. Esse vero utique appetendum est. Ad tertium etiam respondendum est negando consequentiam. 第二の異論に対しては、私は前提は譲歩し、結果について否定しよう。論 証に対しては、誤りを犯していると述べよう。回避することは悪ではな い。それというのも、その対立物は追い求めることだからだ。そして存在 とは、少なくとも追い求めることに等しい。 第三の異論に対しては、結論を否定すると答えなくてはならない。 # # # 今回の箇所に関しては、これまでに出てきた話の繰り返しという感じでも あるので、とくにコメントしなくてもよいかと思われます。むしろここで は、テキストとすっかり離れてしまった参考文献読の読み(苦笑)を進め たいと思います。前回に引き続き、ゴードン・レフの論文から後半部分の 要点をまとめておきましょう。後半部分で扱われるのは神学についてのグ レゴリウスの立場です。とりわけ重要なのは学知全般との神学の関連性で す。グレゴリウスは聖書に含まれた知識のみが神学的言説に値すると考 え、それ以外の自然学的な学知とは明確に一線が引かれるとしています。 その上で、神学は信仰とただちに同義ではなく、むしろ啓示と自然本性的 理性とを架橋しうるものと捉えています。 ただし信仰は神学的知識へと アプローチできる唯一の方途とされます。 グレゴリウスにとっての神学とは、人が聖書の意味を知る拠り所となるハ ビトゥス、そして真実から別の真実を論証・推論する上でのハビトゥスだ といいます。また、それによって到達した結論に信者が同意・確信すると いう意味合いも含まれているとされます。このことが神学的知識の特殊性 をなしています。つまり、前者だけなら、それは合理的思考にもとづくも のであり、自然な知識と共存できるかのように思えるのですが、後者の同 意・確信という意味合いがあるがために、それは自然な知識一般とは相容 れないものになってしまいます。信と知識は同じ対象に向けられることは 通常の学知ではありえませんが、神学は両者が独特な複合体をなしてい て、それこそが神学の特徴だということになります。かくして神学的な真 理は排他的に屹立していることになります。 神学は信仰に立脚しつつ、その上でそこから合理的に推論できる命題を含 む……そう考えるグレゴリウスは、まずは「神学的真理は非神学的な基盤 から多様なプロセスでアプローチできる」とするペトルス・アウレオリに 反対します。グレゴリウスの考えでは、信が出発点になければ、神学は壮 大な臆見にすぎなくなってしまうからです。また「信仰の真理は単に信じ られているのみならず、知として理解されている」とするマルキアのフラ ンシスクスにも反対します。信仰の対象は、信じられることそれ自体にお いて自明なものとして推論・論証されているわけではない、というのがグ レゴリウスの立場です。さらには、神学をより高次の認識に照らして知ら れる従属的な学知(光学が幾何学に従属するように)だとするトマス・ア クィナスの立場も斥けます。グレゴリウスからすれば、神学は最初に知ら れる原理なしに獲得することのできる、それ自体で独立した学知なのです ね。 グレゴリウスはさらに、そもそも学知の各々それ自体、他に従属している ものなどないと主張します。論証しえない原理から論証された結論への跳 躍は、あらゆる学知に含まれている、というわけです。神学的知識が他の 自然学的知識から区別されるのは、そこに主題の区別があるからです。主 題は、命題の中での項を意味すると同時に、その項が表す当のものをも意 味します。心的な項とそれが表す外的な事物といってもよいでしょう。そ れらは知られる対象をなすとともに、命題が派生する実際の知識をなして もいます。それは命題の結論や前提、述語などから独立して存在します。 このあたりは前にも見たグレゴリウスの知識論に呼応しています。 これが神学に適用される場合、つまり神を神学の主題として据える場合で すが、上のグレゴリウスの神学観から、神の主題に取り組む全体として見 た神学と、神を主題に据える個別の命題を検討する神学とが区別されるこ とになります。かくしてグレゴリウスは、ドゥンス・スコトゥスのよう な、「第一主題(神)はあらゆる真理が派生する直接的な諸命題を含み、 それに続くあらゆる知識の源泉である」という立場にも与しません。それ がわかればすべてが知れるといったものではなく(そもそも神学的主題と しての神は、人知を越えているわけなのですから)、知は複合的に、また 多様性をなして成立しているとグレゴリウスは考えているようなのです。 * * * このあたり、詳しく見れば論点・問題点がいろいろあることはレフの論考 からも窺えますが、とりあえずグレゴリウスの神学観の大まかなところは 以上です。これで、命題をめぐる意味論、数学的議論、学知や神学の捉え 方などをざっとですが眺めてみたことになりますね。ただ、それらが互い にどう結びついてグレゴリウスの思想全体像を作り上げているのかはまだ 十分に見えていない気がします。ですが現段階では、これは今後の課題と して掲げておくしかありません。とりわけ数学的議論は当時のより広い見 地からのアプローチが改めて必要かなと思っている次第です。そんなわけ で、未消化感を多く残したままですが、ひとまずグレゴリウスの概括を終 え、次に進んでいきたいと思います。次回からは13世紀前半に活躍した 神学者、ジョン・ブランド(ヨハネス・ブルンドゥム)による霊魂論を取 り上げたいと思います。今度はあまりテキストから離れず、議論を追って いきたいと思っています。お楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月25日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------