〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.242 2013/06/22 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その16) 前回は弁論術(修辞学)について概観しましたが、その弁論術の地位を脅 かす存在となっていったのが論理学でした。というわけで、今回は中世初 期から盛期への自由学科の変遷を、論理学を題材として見ていくことにし ましょう。具体的には、ワーグナー編の『中世おける自由七科』から、エ レノア・スタンプ「論理学」の章を追ってみます。 これまでにも何度か出てきたように、論理学といえばボエティウスが有名 ですが、実はそこで言われる論理学というのは、ある意味限定された議論 の方法を言うものなのでした。それは、たとえば幾何学で用いる議論(論 証的議論)とは異なります。幾何学の場合、真理であることが自明とされ るなんらかの公理から出発し、厳密な推論を重ねて、主題についての新し い情報を含む結論へと至ります。これが論証的議論で、ボエティウスはア リストテレスに準拠し、知識(学知)を生み出せる議論とは論証的議論の みであると断じます。論証的議論は真理に達することが保証された議論だ というわけです。 一方、論理学において用いられる議論をボエティウスは「弁証法的議論」 と規定します。これは対話相手を説得することを目的とした議論の方法 で、真理を導くことは必ずしも目されておらず、「真理に達することもあ りうる」という程度でした。真理の獲得をめざす論証的議論では、相手の 説得は容易ではなく、説得においては弁証法的議論のほうが有益であると されます。ボエティウスによれば、論理学の肝というのは、容易に信じる ことのできる議論を「見出す」(発見する)ことにあるといいます。ただ しそれは、必ずしも推論的(論理的)に健全な議論とは限りません。そこ が論証的議論とは大きく異なる点なのですね。とはいえボエティウスは、 弁証法的議論が論証的議論よりも劣っているなどとは考えていません。両 者は議論の二つの方法にすぎず、それぞれ目的が異なっているのです。 ボエティウス以前の学知においては、論理学はやや別様に受け止められて いました。つまり、論理学は弁証法とイコールであるとされ、弁証法的議 論は広い意味を担っていたのですが、徐々にボエティウス的な狭い意味へ と代わっていきます。その流れははるか先まで続き、かくして一一世紀前 半のガルランドゥス・コンポティスタの『弁証法』(Dialectica)、一二 世紀のアベラールの同名著作である『弁証法』(Dialectica)などでは、 弁証法は論理学のごく一部をなすにすぎないと見なされるようになりま す。一三世紀から一四世紀にかけての標準的な学習用テキストとなったペ トルス・ヒスパヌスの『論理学』は、弁証学は広範な論理学の専門的な支 流をなすにすぎないとしています。 さて、論文著者のエレノア・スタンプはこの狭義の「弁証法」の変遷を取 り上げていくのですが、論理学全般の変化についても概観をまとめていま す。それによると、一一世紀ごろまでの論理学は主にアリストテレスの 『範疇論』『命題論』とボエティウスをベースにしていて、これが後のス コラ学者たちによって「旧論理学」(logica vetus)と称されていまし た。上のガルランドゥス・コンポティスタなどがその代表です。一方、一 二世紀ごろからはアリストテレスのほかの論理学関連の著書、つまり『分 析論前書』『分析論後書』『トピカ』『詭弁論駁論』が入手可能になり、 とりわけ詭弁的論法についての関心が高まります。これが「新論理学」 (logica nova)と言われるものです。アベラールはまだ旧論理学の圏内 ですが、新論理学は一二世紀後半以降の潮流となっていきます。一二世紀 後半からは「近代的論理学」(logica moderna)と呼ばれるものも始 まっていきます。これは唯名論的な名辞説を中心とする革新的考察で、一 三世紀の前半にはこれが支配的な論理学になっていきます。ペトルス・ヒ スパヌスなどもこちらに属します。 こうした全体的な流れの中で弁証法の位置づけも変化していきます。とり わけ新論理学を導いたアリストテレスの論理学系の著書の再発見によっ て、弁証法には新たな光が向けられます。一三世紀後半には『分析論後 書』への関心が高まり、そうした中で、ボエティウスが規定した論証的議 論と弁証法的議論との性質・区別の基準などが改めて盛んに議論されるよ うになっていくのですね。それは一四世紀以降の因果関係論・仮言的推論 の理論に吸収されるまで続きます。 論文著者はとりわけガルランドゥス・コンポティスタを取り上げ、それが ボエティウスの議論とどう異なっているかを明らかにしています。一一世 紀に書かれたその『弁証法』には、後の時代の論理学の先取り・萌芽が見 られるといい、とりわけガルランドゥスが仮言的推論に多大な関心を寄せ ている点が特徴的だとされています。とりわけそこに『トピカ』の扱いを めぐる両者の違いが鮮明に見いだせるのだとか。ガルランドゥスはボエ ティウスの『様々なトピカについて』を参照しているわけですが、ボエ ティウスはアリストテレスの『トピカ』にもとづいて同書を著していま す。ボエティウスにとって『トピカ』の重要性は、なによりもまず弁証法 的議論がもつ、発見のための手段という役割にあるのですが、ガルラン ドゥスにとって重要なのは弁証法的議論のもう一つの役割、つまり「確 認・追認」のための役割なのでした。つまり、推論の正しさ・有効性を保 証するものとしての弁証法というわけです。 一二世紀になると、ボエティウスの『様々なトピカについて』の注釈書も 数多く書かれ(さしあたり一五編ほどが確認できるのだとか)、さらには 逸名著者たちによる様々な論理学書も残されています。「発見」の機能か 「追認」の機能かという対立関係も継承されていくようで、中世盛期から 後期にかけての論理学の深化には、この『トピカ』をめぐる議論が大きく 関係しているようなのです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その3) 「植物的魂、動物的魂、理性的魂は同じ魂か」という設問の章の二回目で す。前回は、それらは同じだという議論が示されていましたが(これを仮 に霊魂一元論としておきます)、今回はそれに対する異論(霊魂非一元論 としておきましょう)が示されます。これに続く箇所で著者ジョン・ブラ ンドの自説が展開することになります。では早速見ていきましょう。 # # # 38. Quod autem sint diversae animae sic ostenditur. Si anima vegetabilis et anima rationalis sint eadem anima, ergo cum anima ratoinalis sit incorruptibilis, et anima vegetabilis erit incorruptabilis; quia eadem sunt per se accidentia rerum eiusdem speciei. Ergo destructo corpore animato, ut arbore aliqua vel animali aliquo, ut assino, remanet eius anima perpetua habens esse necessario. Et ita secundum hoc, sicut anima rationalis potest separari a corpore habens perpetuitatem essendi, et ita anima vegetalis, et sensibilis similiter. 38. 一方、それらが複数の魂であるとする議論は次のように示される。植 物的魂と理性的魂とが同一の魂であるとするなら、理性的魂は不滅的であ ることから、植物的魂も不滅的であることになる。なぜなら、同じ種の事 物の偶有(的特性)はおのずと同一になるからだ。したがって、たとえば 木や、ロバのような動物など、生き物の身体が破壊されても、その魂は必 然的に存在を有し、永劫的に存続することになる。またこのことゆえに、 理性的魂は永劫的な存在を有して肉体から分離しうることになる。植物的 魂も感覚的魂も同様である。 39. Item. In genere non est perfectio, immo in specie; unde non est invenire aliquod animal quin ipsum sit sub aliqua specie animalis, et nullum genus parificatur suae speciei; quia omne genus in plus est quam aliqua suarum specierum. Ergo cum omnis differentia habeat specificare suum genus, differentia specificans primo suum genus habet differentiam sibi oppositum, quae differentiae primo loco dividunt ipsum genus. Ergo cum haec differentia 'vegetabilis' primo loco specificet hoc genus 'anima' habet aliquam differentiam coaequaevam et sibi oppositam, illa differentia nec est haec differentia 'sensibilis', nec haec differentia 'rationalis', quoniam utraque illarum differentiarum posterior est 'vegetabilis'; et si hoc, tunc est aliqua species animae quae non est anima vegetablis, quod non videtur posse esse. / 39. また、類には完全(な状態)などないが、種においてはその限りでは ない。ゆえにどんな生き物も、 いずれかの生き物の種のもとに置かれる 以外になく、しかもいかなる類もその種と同等になることはない。あらゆ る類は種よりもより多くを内包するからだ。したがって、あらゆる差異は 類を種別するためにある以上、まず第一に類を種別する差異には、それに 反する別の差異もあり、それらの差異がまず最初の段階で類そのものを分 割することになる。したがって、「植物的」という差異はまず最初の段階 で「魂」という類を種別するのであるから、そこには、同じ起源をもちつ つそれに反する差異があることになる。その差異は「感覚的」という差異 でも「理性的」という差異でもない。なぜならそれらはいずれも、「植物 的」という差異よりも後に来るものだからだ。また、そうである(反する 差異がある)とするならば、植物的魂ではないなんらかの魂の種があるこ とになるが、それがありうるとは思えない。/ / Sed vegetabile est proprium animae conveniens omni animae; unde non est differentia divisiva 'animae', nec est eius perfectiva, immo est concomitans differentiam perfectivam animae. Quoniam si 'vegetabile' est differentia perfectiva essentiae animae, tunc est hic nugatio: 'anima vegetabilis', sicut hic: 'homo rationis'. Si autem 'vegetabile' esset differentia divisiva animae, tunc esset aliqua anima in corpore quae non vegetaret corpus, et aliquod corpus vegetatum quod non esset animatum. Quod etiam videtur esse consonum ei quod dicitur a quibusdam, scilicet stellas et planetas moveri ab anima. /しかしながら植物的というのは、あらゆる魂に適する属性である。した がってそれは、「魂」を分別する差異でもなければ、それを完成させる差 異でもなく、むしろ魂を完成させる差異に付随する差異ということにな る。というのも、「植物的」というのが魂の本質を完成させる差異だとす るなら、「植物的魂」は「理性的人間」と同様に(同語反復的で)無意味 な文言となるからだ。だが、「植物的」が魂を分別する差異であるなら、 身体には肉体を植物の段階にとどめないなんらかの魂があることになり、 また魂を吹き込まれていないなんらかの植物的身体があることになる。こ のことはまた、一部の論者が言う、星や惑星が魂によって動かされている ということにも合致すると思われる。 # # # 今回の箇所はちょっと話の流れが掴みにくい感じですが、一応整理してお きましょう。ここで示されるのは、個体における「霊魂非一元論」の側か らの議論です。まず38節は、魂が同一であるとすると理性的魂も植物的 魂も不滅であることになってしまうとして、それが現実的ではないことを 示しています。39節では、類が種差によって切り出されて種に分化する という「霊魂一元論」の基本前提を仮に認めて、植物的魂、感覚的魂、理 性的魂がもとは同じ一つの魂であるのだとすると、どういう不都合が生じ るのかを考察しています。 類と種は、切り出される前と後の関係にありますから、両者が完全に一致 することはありません。で、「魂」という類から「植物的」という種差に よって「植物的魂」という種が切り出されてくるのだとすれば、「植物 的」ではない別の種の状態もなければ、類と種が一致してしまうことにな り不都合です。で、仮に別の種差があるとしても、その場合の種差は、 「感覚的」「理性的」という種差ではなさそうです。時間的にそれらは後 からくるものですから、「植物的」と同一のレベルで分化させる種差とは 考えられません。ではその同一レベルでの種差とはどのようなものでしょ うか。そんな種差はありそうにないと述べられています。 「植物的」種差は、魂を完成させる差異に付随する差異だとされています が、これはつまり、魂の三態が段階を踏んで進んでいくとき、完成形へと 向かわせるそもそもの魂が別になくてはならない、ということなのでしょ う。そう考えないと、植物的な状態から先へと進むことができなくなって しまいます。別の言い方なら「肉体を植物の段階にとどめない」魂がなく てはならないということで、かくして魂は複数あるという結論が導かれま す。星々(つまりは天球)を動かす魂の話も最後に出てきますが、これも そうした完成形へと向かわせるそもそもの魂の一つとされて、そうした議 論の傍証になりえるというのでしょう。星辰を動かす魂という話は新プラ トン主義的な伝統として、中世にまで受け継がれている一つの世界観です ね。 今回の部分はアヴィセンナ(イブン・シーナー)が『魂について』(木下 雄介訳、知泉書館)において、その植物的魂の議論のところで記している ことと重なります。アヴィセンナはそこで、植物的魂には二種類の意味が ありうるとしています(p.38)。動物ではない植物に特有の種的な魂を 意味するか、それとも摂食や生殖とともに生長を行わせるという点で植物 的魂と動物的魂を包摂する一般的観念を意味するかだ、というのですね。 前者はいわば本来的に植物の種をもたらす魂、後者は比喩的な意味での 「植物的魂」ということなのですが、重要なのは、ここでアヴィセンナは 二種類の魂を区別しているのではなく、あくまで魂の「表象」(意味)の 区別をしているのだということです。 アヴィセンナは魂は一つだと考えています。そのため前者の植物の種をも たらす魂も、「一般的かつ普遍的な実現されざる何かをそなえた原因であ る」としています。その原因があれば、植物的魂はそこで完結(完成)せ ずに、動物的魂へと進んでいけるはずだというのです。そしてアヴィセン ナは、その原因とは「摂食し生長する無条件かつ類的な種化されざる身 体」だと述べています。それがあれば「別の本性になる別の種差が植物的 魂に付け加えられる」(同)というのですね。 このように、アヴィセンナは「植物的魂」に、あくまで言葉の用例におい て二つの意味があることを指摘しているにすぎないのですが(結局はそれ らは同じ魂にほかなりません)、ブランドの上の本文ではそれが、意味ば かりか霊魂そのものが二つあるという文脈、つまりは霊魂非一元論の議論 の文脈で取り上げています。ブランドも基本的には霊魂一元論を支持して いるのですから、当然この後はそちら側からの議論が用意されているはず です。ただ、多少先走りになりますが、それはアヴィセンナとも微妙に異 なる見解という感じがします。そのあたりはまた次回に見ていくことにし ます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------