〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.243 2013/07/06 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その17) ボエティウスが弁論術の弁証法的議論を、幾何学の論証的議論に対置して いたことを前回見ました。これを受けて、私たちも幾何学に目をやってみ ることにしましょう。再びワーグナー編『中世の自由七科』から、ロン・ シェルビーによる幾何学の章を見てみます。 一二世紀前半、西欧の学僧たちはアラブから流入した学知の翻訳・伝達に 精を出していたわけですが、中でも重要だった人物の一人にサン・ヴィク トルのフーゴーがいます。フーゴーは自由七科を、神学を学ぶための準備 段階として評価し、そのために七科について『ディダスカリコン』という 有名な書を著しました(本メルマガでも最初期の頃に読んでみました)。 ですがそれとは別に、学知についてのより専門的な書をもいくつか記して います。その一つに『実践的幾何学』(Practica geometriae)があり ます。シェルビーによると、フーゴーはそこで、推論をベースとする理論 的幾何学と、器具を用いた実測を扱う実践的幾何学を分けています。そし てその後者を重視し、さらにそれを高さの実測、平面実測、世界実測に三 分割しています。フーゴーによる理論的幾何学と実践的幾何学の区別、そ して実践的幾何学の三分割は、後世にいたるまで広く採用されることにな ります。 もう一人、傑出した重要人物として挙げられるのがドミニクス・グンディ サリヌスです。その主著『哲学の区分について』では、ほかの著者たちと はまた違った分類が示されています(たとえば数学は七つの科に分かれま す)。興味深いのは、その分類される学科のそれぞれに、理論的学知と実 践的学知の区別を立てていることです。幾何学については基本的にフー ゴーを踏襲しているといいますが、実践的幾何学を行使する職務を、さら に測量士と工芸家とに分けています。前者は様々な計測を行うだけです が、後者は別の何かを構築する目的で計測を行う者と捉えられています (これを踏まえて、シェルビーは幾何学の中世における実質的な下位区分 として、「理論的幾何学」「実践的幾何学」のほかに「建設的幾何学」を 設けることを提案しています)。 さしあたり、私たちはこの理論的幾何学と実践的幾何学の対比について見 ていかなくてはなりません。そこで再び歴史を遡ります。ローマ帝国末期 の文化の衰退期、ボエティウスはギリシアの学問的遺産のラテン語訳に着 手しますが、そこにはエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』も含ま れていました。帝国の崩壊とともにエウクレイデスやアルキメデスの幾何 学の書そのものは失われてしまいますが、ラテン語訳は一部もしくは部分 訳としてかろうじて残ります。古典的学識を重んじる伝統は存続し、また 幾何学の探究も受け継がれていきました。というのも、幾何学には別筋の とりわけ強力な伝統が存在していたのです。 それはローマの測量士たちの伝統です。ローマ時代において、エウクレイ デスなどの理論的な幾何学はすでにしてあまり顧みられておらず、尊重さ れたのはむしろ応用数学としての測量術でした。まさしくこれが、サン・ ヴィクトルのフーゴーが後に実践的幾何学と称したものに呼応します。 ローマが誇った建築の分野などで、実践的幾何学の需要は絶えず存在して いました。測量士たちが書き記した手引き書も残っているといいます。 シェルビーによると、それらには具体的な問題への幾何学的・算術的解法 が示されているものの、解法は教条的に示されるばかりで、解が正しいと いう証明は与えられていないということです。その意味で、彼らの実践的 幾何学はギリシアの伝統的幾何学とは実質的に異なるものでした。 測量士たちの伝統は中世世界へと伝えられていきます。そのため幾何学 は、マルティアヌス・カペラなどの著書に概略的に記されたギリシア伝統 の幾何学と、ローマ伝来の実践的幾何学との二種類が併存していたと考え られているようです。エウクレイデスやアルキメデスが記した書は、ラテ ン語への翻訳はあったものの、中世初期のほとんどの学僧たちには手に負 えないものだったようです。ようやく一〇世紀になって、以前触れたゲル ベルトゥスなどが中心となって、ボエティウスのものとされる幾何学書 や、ローマ時代の測量士たちの手引き書などが編纂されるようになりま す。エウクレイデスの書は不完全な形でしか残っていなかったにせよ、数 学に関心を寄せる学僧たちは、手持ちの書からできる限りの努力でもっ て、古来の幾何学を再構築しようと取り組んでいたらしいのです。 エウクレイデスの『原論』は一二世紀に「再発見」されるのですが(バー スのアデラードなどによる翻訳です)、ほぼ同時期に(一一世紀ごろか ら)測量士たちの実践的幾何学も再び大いにもてはやされるようになりま す。都市の繁栄と商業活動の活性化により、土地などの正確な測量や商品 の大きさ・重量の正確な計測がますます重視されるようになったからだと いわれています。そのため、ラテン語で書かれた測量士たちの手引き書も 需要が増していきました。一三世紀になると、それらの著書は俗語に訳さ れるようになり、読者の裾野も広がっていったようです。 では、それら二つの幾何学の伝統が融合することはなかったのでしょう か。実はそれを事実上成し遂げた人物がいました。フィボナッチことピサ のレオナルドです。数多くの数学論を著しているフィボナッチですが、そ の中に『実践幾何学(Practica Geometriae)』(フーゴーのものと同 タイトルですね)があります。そこではエクリレイデスの理論と測量士た ちの実地の測量問題とが結びつけられているといいます。ただしこの書 は、実地の測量士たちが扱うよりもはるかに理論的な問題を扱ったり、一 方で学者たちが興味を抱くような哲学的・数学的な問題の枠組みから外れ ていたりしたため、反響を呼ばずじまいになってしまったのでした。むし ろほぼ同時代の数学者、ネモレのヨルダヌスが記した機械学のテキスト (これに幾何学が応用されているのですね)などは、学者向けの理論的幾 何学を扱い、はるかに多く流布したと言われています。こうして幾何学 は、後にロバート・グロステストやロジャー・べーコンによって注目され る光学など、他の分野における学術への関心を高める一助にもなっていく のでした。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その4) 「植物的魂、感覚的魂、理性的魂は一つの魂か」という問いに対する、ブ ランドの見解をまとめた箇所です。 # # # 40. Solutio. Dicimus quod hoc nomen 'anima' significat genus animae vegetabilis et animae sensibilis et rationalis; et in homine est una sola anima a qua est vegetatio, sensus et ratio. Et anima sensibilis est genus subalternum, quia anima sensibilis est genus animae rationalis et species animae vegetabilis. 41. Ad hoc quod quaeritur ab aliquo, utrum anima secundum sui generalem intentionem sit substantia corporea vel incorporea. Dicendum est quod est substantia incorporea et incorruptibilis, quia omne universale est incorruptibile. Nec tamen quaelibet anima est incorruptibilis, ut est anima vegetabilis quae est in arboribus, et anima sensibilis quae est in brutis: hae enim secundum suum esse speciale corrumpi possunt, sed non secundum suum generale esse secundum quod sunt substantiae incorporeae. Et hoc contingit quia suum esse speciale salvari non potest nisi in corpore organico; unde destructo organico corpore destruitur et esse et esse ipusius animae, quae simplex est, vegetabilis vel sensibilis. 40. 解答。私たちはこう述べよう。この「魂」という名辞は、植物的魂、 感覚的魂、理性的魂の類を表している。また人間においては唯一の魂があ るだけで、そこから生長、感覚、理性が生じる。感覚的魂とは下位の類で ある。なぜなら、感覚的魂は理性的魂にとっての類であるとともに、植物 的魂にとっての種でもあるからだ。 41. この点については、一般的な意味における魂とは物体的な実体である のか、それとも非物体的な実体であるのかと問う向きもある。それは非物 体的で不滅的な実体であると言わなくてはならない。あらゆる普遍は不滅 だからだ。しかしながら、どのような魂も不滅だというわけではない。た とえば木々の中に宿っている植物的魂や、獣の中に宿っている感覚的魂な どのように。それらは種的な魂である場合には滅することがありうるが、 非物質的な実体である限りの、類的な魂である場合にはそうではない。そ うしたことが生じるのは、種的な魂は肉体的な器官に存してはじめて保た れうるからだ。したがって、器官が滅びればその存在も滅び、単一である ところの植物的ないし感覚的な魂の存在も滅ぶのである。 42. Item quaeritur. Cum intellectus et imaginatio sint virtutes animae sicut ratio, quare potius rationalitas sit differentia perfectiva speciei animae quam intelligibilitas vel imaginabilitas. 43. Ad hoc dicendum est quod imanigatio et intellectus a rationalitate procedunt, et imaginatio nihil apprehendit nisi quod prius fuit in sensu; et ideo contingit quod neque potentia imaginandi neque potentia intelligendi differentiae perfectivae sunt specierum, quia sunt concomitantes ipsas differentias. 44. Item. In genere non est perfectio, ut dicutum est. Ergo cum anima vegetabilis sit genus, non erit aliqua anima quin ipsa sit sub aliqua specie specialissima ipsius generis. Ergo cum in arboribus et plantis sit anima vegetabilis, est ibi aliqua species animae vegetabilis abundans ab anima vegetabili per aliquam differentiam substantialem. Sed quae sit illa differentia non videtur posse ostendi, cum illa neque sit haec differentia 'rationalis' neque 'sensibilis'. Et ita videtur quod anima vegetabilis non sit genus. 45. Ad hoc dicendum quod anima vegetabilis genus est et dividitur in duas differentias, quarum altera est 'sensibilis', altera 'insensibilis', sicut anima sensibilis dividitur in 'rationale' et 'irrationanle'. 42. また次の点も問われる。知性と想像力は、理性と同様に魂の力とされ る。ゆえに、理性は知性や想像力よりもいっそう、種的魂の完成をもたら す差異であるとされる。 43. この点については、こう言わなくてはならない。想像力と知性は理性 から生じるのであり、想像力はまずは感覚にあったもののみを把捉するの である。よって、想像力の潜在性も知性の潜在性も、種の完成のための差 異ではないということになる。それらの差異は同時的だからだ。 44. 次の点もある。すでに述べたように類に完成はない。したがって、植 物的魂が類であるなら、おのれの類のこの上なく種的な種のもとに置かれ るのでなければ、魂として存在しないだろう。したがって、木々や植物に は植物的魂があるわけだが、そこには、実体的差異によって植物的魂から 溢れ出た、なんらかの植物的魂の種があることになる。ただし、その差異 がいかなるものであるかは示すことができないと思われる。なにしろそれ は「理性的」差異でもなければ「感覚的」差異でもないのだから。それゆ え、植物的魂は類ではないと考えられる。 45. この点についてはこう述べなくてはならない。植物的魂は類であり、 二つの差異に分かれるのである。一つは「感覚的」魂であり、もう一つは 「非感覚的」魂である。ちょうど、感覚的魂が「理性的魂」と「非理性的 魂」に分かれるのと同様だ。 # # # すでに述べたように、ブランドの解答は「魂は一つで、それが順次、植物 的魂、感覚的魂、理性的魂となっていく」というものです。魂そのものは 類的存在であり、それが「植物的魂」をもたらす種差によって植物的魂と いう種になります。すると今度はその植物的魂が類の位置づけとなって、 「感覚的魂」をもたらす種差によって感覚的魂になり、さらに「理性的 魂」をもたらす種差によって理性的魂になっていくというわけです。 類が種差でもって分かれるときにはその種差とは別の種差がなければなら ない、という異論が先に出ていましたが、これは44節で再び繰り返され ています。それについてブランドは、種差は一つでもって二つの種が分け られると述べています。植物的魂は「感覚的」魂を分ける種差によって、 感覚的魂と非感覚的魂に分かれます。この非感覚的魂として現実化するの が植物などにおける植物的魂ということになるのでしょう。動物がもつ感 覚的魂も、同じように非理性的魂として現実化した(完成した)魂という ことになりそうです。 前回も触れましたが、この議論はアヴィセンナに依拠しています。アヴィ センナの見解では、あくまで一般的観念としての単一の魂があるとされ、 それは様々な諸力を併せ持ち、結びつく器官の「用意のととのい方に応じ て」能力の作用が順次現れる、というふうになっています。ブランドも、 一見基本的なスタンスは同じように見えます。ただ、そちらで特徴的なの は「類から種」という秩序のパターンに妙に拘っていることですね。 アヴィセンナの場合は、器官の準備がしかるべき魂の力の発現を促すとい うふうに述べられています。質料の側にそうした因があるという含みで しょうか。ブランドのほうはそのあたり、あまり明確に触れてはいないよ うに思われます。上のテキストに続く節では、植物的魂に見られる諸力 (栄養摂取、生長、発生)の説明に移るのですが、そこで問われているの も、そうした諸力は一つの力なのか別の力なのかという問題であって、そ うした力の発現のプロセスではないようです。総じて、アヴィセンナがど こか動的な発出のプロセスを重んじているのに対して、ブランドはむしろ 発現した現象を、ちょっと語弊のある言い方ですが「共時的に」捉えよう としているように見えます。 あるいはそれは、ブランドが一般概念(抽象)と個別(具象)という議論 を絡めているからなのかもしれません。底本にしている羅独対訳本の、訳 者ヴェルナーによる解説によると、そもそもの魂の定義をめぐって、ア ヴィセンナとブランドとの間には大きな違いが生じています。アリストテ レス的な魂の定義(身体のエンテレケイア(完成)としての魂)を重く見 ながら、プラトン主義的な見方(実体としての魂)を極力斥けるアヴィセ ンナは、「力能」「形相」「完成」などが魂の機能としてあり、そうした 機能が身体に置かれるのは偶有的なことではないとしています。 ところがブランドの場合、そこに「抽象・具象」(名辞と具体)という別 の文脈の議論を加味し、魂(という概念)は、それが具体的な意味で用い られる場合、身体と結合した「偶有的な」実体を意味していると解されま す。ブランドによれば、身体の完成といった意味での「魂」は、具体的な 実体として自然学の対象となり、一方でそうした具体性をもたない一般概 念としての「魂」は形而上学の対象になるとされています。具体的な三角 形が、名辞としては「質」を表し幾何学の対象にはならないのに対して、 具体としては「量」であり幾何学の対象となるのとパラレルだというので す(21節)。このあたりも、個別の機能から考察を加えているアヴィセ ンナと、発現(具象)と抽象(名辞)の関連で論じるブランドとでは、い かにも対照的という感じです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------