〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.246 2013/09/07 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その1) 今回からこのシリーズでは、一四世紀の無限論を扱ったアンソロジー本を もとに、その数学思想の拡がりを眺めてみたいと思います。無限論といえ ば、中世盛期においては「神は無限である」ということが盛んに言われて いました。つまり無限というのはもともと神学的な概念だったわけです が、これが一四世紀ごろになると、論理学や数学の発展に絡んで、新たな 考え方、新たな諸相が付け加わっていくようです。ここではそのあたりの ことを、当時の各論者(学僧たち)のテキストを部分的に見ながら巡って いきたいと思います。 メインの参照本となるアンソロジー本というのは、ジョエル・ビアール& ジャン・スレレット編『神学から数学へ−−一四世紀の無限論』("De la theologie aux mathematiques - L'infini au XIVe siecle", Joel Biard et Jean Celeyrette (ed), Les Belles Lettres, 2005)です。このアンソ ロジーでは、ドゥンス・スコトゥスから始まって、アダム・ヴォデハム、 トマス・ブラッドワーディン、オートルクールのニコラ、リミニのグレゴ リウス、ニコル・オレーム、ジャン・ビュリダン、リパのジャンが取り上 げられていきます。各章は、それぞれの学僧についての簡単な導入的解説 と、具体的なテキスト(仏訳)の抜粋から構成されています。 初回の今回は、一四世紀初頭に晩年を迎えるドゥンス・スコトゥスから見 ていきます。まず解説部分から要点を抜き出しておきましょう。スコトゥ スが属していたオックスフォードのフランシスコ会は、ロジャー・べーコ ンの影響により、数学に多大な関心を寄せていました。そうした環境で教 育を受けたスコトゥスは、神学や哲学においても「数学的理性(rationes mathematice)」を開花させます。そしてなによりもその功績は、形而 上学における刷新にありました。存在についての考え方に、現実態として の存在者だけでなく、可能態としての存在者(存在する可能性が排除され ないもの)も含めるというのが、その核心的な点でした。それは後に形而 上学の新しい展望を開き、アリストテレスの自然学を脱する契機にもなる のでした。で、「無限」もそうした文脈において位置づけられます。無限 であるもの(すなわち神)は、有限であるものを通じて知りうるのだとい うことを、スコトゥスははっきりと規定します(とはいえ、無限そのもの についてスコトゥスが多くの議論を展開しているわけではないようで す)。 スコトゥスによれば、神の無限は「形相的な無限」であるといいます。ど ういうことかというと、無限であることは神の存在様式そのものに属する のだというわけです。一方で神に関しては、神がもつ属性もまた無限だと されます。たとえば無限の善性などです。それらもまた「形相的な無限」 だとされます。ただしその場合、たがいに区別できる複数の無限の事象 (存在様式の無限と別の善性の無限など)が存在するわけではありませ ん。神の属性の本質は神そのものの本質から現実的に区別できるものでは なく、ただ「形相的な理拠」による区別があるのみだからです。 こうした基本前提を踏まえて、同書はスコトゥスの二つのテキストを提示 しています。いずれもパリでの自由討論集からのもので、一つは問五「原 因の関係は形相的に無限か」、もう一つは問七「神の全能性は、自然かつ 必然の議論により論証しうるか」です。最初の問五が扱うのは、三位一体 でいうところの位格(父、子、聖霊)の関係です。父と子の間には「父子 の関係」があり、また父と聖霊の間、子と聖霊の間には「吹発の関係」 (聖霊が父と子から発出すること)があり、これらをスコトゥスは「原因 の関係」と称しています。それらは賢慮や善性といった本質に関わる属性 とは異なり、位格特有の属性をなしているとされます。そこで問われるの が、「原因の関係」というその属性もまた無限なのかどうかという問題で す。 問五は三部構成になっており、第一部で神における無限概念を扱います。 その後第二部で複雑な議論を経て、スコトゥスは「原因の関係」が形相的 に無限ではないという見解を示し、第三部で異論への反論を行っていると いうのですが、同書に収録されているのはさしあたり第一部のみです。そ れが神における無限概念を検討した重要な部分だからです。 というわけで、私たちもその問五の第一部を見ていくことにしましょう。 話は次のように展開していきます。ある数量を取り上げる場合、それは必 ず有限な数量となることから、アリストテレス『自然学』においては、無 限は「可能態としての在り方」しかありえず、有限な数量はそうした潜在 的な無限を全体と見た場合の部分でしかないとされます。ですがスコトゥ スは、そうすると無限は閉じた全体にならず、必ずそれ以上の何かが存在 することになってしまうと指摘します。するとそれは完全性にも至らず、 したがって、そのまま神の概念に適用することは難しくなってしまう、と いうのです。 ここでスコトゥスは、そうした可能態としての無限から、そこにあたかも 現実態としての無限があるかのような考え方に転換しなくてはならないと 唱えます。そのためにはどうすればよいのでしょうか。有限な部分をいく ら積み重ねていっても無限にはいたりません。でも、それは時間的な継起 として有限な部分を次々に考えているからではないでしょうか。そうでは なく、様々な部分を同時に、一挙に考えることで、いわば「みなし無限」 とでもいうような(これはスコトゥスの用語ではありません(苦笑))、 現実態としての無限を想像できるのではないか、というのです。そうする ことで、想定上の全体としての無限が浮かび上がり、しかもそれは完全性 を備えることもできるようになります。様々な部分を継ぎ足して構成され るようなものではない無限は、つまり内部になんらの部分ももたない全体 として思惟されるものです。スコトゥスはこれを「(数量で表せない)強 度をもった無限」と称し、これこそが存在者としての無限、すなわち神な のだと考えています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その7) ブランドの『霊魂論』二二章「理性的魂について」の続きです。理性的霊 魂を非物体とする見解と、物体と見る立場とを並記した後、ブランド自身 のスタンスが示され、異論への反論へと入っていきます。ではさっそく見 ていきましょう。 # # # 303. Solutio. Dicimus quod anima est substantia incorporea. Et ad primam obiectionem. Dicendum est quod quand anima metitur spatia terrarum vel spatia firmamenti per imagines eorum ad quas ipsa se convertit, tunc sunt ipsae imagines repositae in cellua memoriali, quae corporea est, et non in ipsa anima. Solae enim imagines intelligibiles reponuntur in anima. 304. Ad aliud. Dicendum est quod cum anima habeat esse in corpore ut in eo acquirat suam perfectionem per adeptionem virtutum et scientiarum semper convertit suas intentiones ad imagines repositas in corpore quae assimilantur rebus extra, ut per intuitionem earum ratione mediante sibi aquirat scientias et virtutes. Nec oportet quod anima sit ibidem sita ubi illa sita est imago quam ipsa intuetur, sicut si videam parietem, propter hoc non sum in pariente. Unde quamvis anima sentiat in extremitate corporis stimulum pungentem, propter hoc non est anima ibidem existens secundum essentiam in extremitate illius corporis. 303. 解決。私たちは、魂は非物体的な実体なのだと述べよう。そして第 一の異論に対してはこう述べなくてはならない。魂が土地の大きさや天球 の大きさをそれらの像を通じて計り知るとき、魂が向き直るそれらの像は 身体的なものである記憶の小房に置き直されるのであり、魂そのものに置 き直されるのではない。というのも、魂のうちに置かれるのは知解対象の 像のみだからである。 304. 別の異論に対しては、こう述べなくてはならない。魂はおのれの存 在を身体のうちにもち、そこにおいて徳や知識の感得を通じおのれを完成 に至らしめる。ゆえに魂は、身体に置かれて外的事物と同一視される像へ とおのれの注意をつねに向け、おのれを介してそれらの原理を省察し、そ のことを通じて知識や徳を会得する。魂が省察する像の置かれるその場所 に、魂が置かれる必要はない。たとえば私が壁を目にする場合でも、その ために私がその壁のなかにいる必要はない。したがって、魂が身体の端部 で生じる刺激を感じるとしても、そのために魂が本質に即してその身体の 端部に存在していることにはならない。 305. Sed obicitur. Illa potentia percipiendi qua anima percipit et intuetur passiones in extremitate corporis constitutas et in cellula cerebi, aut est in anima ut in subiecto, aut in corpore ut in subiecto. Si in corpore ut in subiecto. Contra. In corpore est potentia recipiendi illas impressiones et in corpore est potentia easdem percipiendi. Ergo qua ratione dicitur de corpore vere quod ipsum percipit illas passiones, de corpore postest dici vere quod ipsum percipit easdem. Ergo vel ipsum corpus est ipsa anima, vel frustra est ipsa, cum corpus posset exercere easdem operationes quas anima exerceret. Si potentia percipiendi sit in anima ut in subiecto, et potentia recipiendi passiones extra sit in extremitatibus corporis, quaeritur qualiter anima possit percipere passiones illas cum in illa non sit ibi praesens. 305. しかしながら次のような異論もある。身体の端部や脳内の小房に出 来する現象を、魂が知覚し省察するもととなっている知覚の潜在性は、基 体としての魂にあるか、または基体としての身体にあるかのいずれかであ る。基体としての身体にあるとするなら、次のような反論がありうる。身 体には、そのような印象を受け止める潜在性があり、またそれらを知覚す る潜在性がある。ゆえに、身体がそうした現象を知覚すると言われる根拠 をもって、身体はそれらを知覚できると言うことができる。よって身体も 魂がなす同じ働きをなすことができるのであるから、身体は魂であるか、 あるいは魂は不要かのいずれかとなる。もし知覚の潜在性が基体としての 魂にあり、外部の現象を受け止める潜在性が身体の端部にあるのだとする なら、魂はそれらの現象が出来する場所にないのに、どうやってそれらの 現象を知覚できるのかが問われる。 306. Similiter quaeritur, cum corpus omnino vegetur ab anima, qualiter totum corpus habeat vegetationem ab ipsa nisi ipsa distendatur per illud totum. 307. Ad hoc diceret forte aliquis quod hoc est per transmissionem spirituum vitalium. Contra. Illi spiritus aut sunt corporei, aut incorporei; aut animati, aut inanimati. Si animati: ergo habent animam; et ita occurrit praecedens dubitatio de ipsis. Si inanimati: ergo vitam confere non possunt, vel vegetationem. Si sunt non corporei, aut sunt substantitae, aut non. Si sunt substantiae, qualiter transmittuntur nisi vitam habeant, et etiam locum obtineant. Si non sunt substantiae: ergo accidentia sunt: ergo transmitti non possunt, quia accidentia non possunt permutare suum subiectum. 306. 同様に、身体がすべて魂によって生命を得るとすると、魂がその身 体全体に広がるのでないなら、いかにして身体全体が生命を得るのかも問 われる。 307. これに対してある者は、それは生命をもたらす精気の付与によると 言うだろう。だが次のような反論がありうる。その精気は物体的か、非物 体的かのいずれかである。(物体的なら)生命をもつか、もたないかのい ずれかである。もし生命をもつなら、それは魂をもつことになる。する と、そこにおのずと前述の問題が生じることになる。生命をもたないな ら、生命もしくは生命活動を付与することはできないことになる。精気が 物体でないないなら、それは実体であるか、そうでないかのいずれかであ る。実体であるなら、あらかじめ生命をもち場所を確保していない限り、 いかにして生命を託されうるのだろうか。実体でないなら、それは偶有だ ということになるが、ゆえに生命を託されることはありえない。なぜな ら、偶有はその基体を変化させることはできないからだ。 # # # ブランドの基本的なスタンスは303節に記されている通りです。そこでの 「記憶の小房」は305節では「脳内の小房」と言い換えられています。お そらくは当時の解剖学的な知見も踏まえて、記憶を司る器官は脳内にある と見なされていたことがわかります。ちなみにもっと古い時代には、知的 (または心的)機能や情感はいずれも心臓が司ると考えられていたといい ます。先日ブログの方で紹介した論文(シメ・デモ「ラテン語が病になる とき:雅俗混交体狂詩における医学語の揶揄」)によると、今日のように 知的活動を脳に、情感を心臓にと、局部をきっぱりと分けるのようになる のは17世紀を待たなくてはならないのですが、それでも知的活動を脳に 位置づける考え方は、早い段階で市民権を得ていることが世俗的な文芸作 品の諸表現からもわかるようです。 303節では外的事物の像と、知解対象の像とが分けられています。さしあ たりこれも、可感的形象と可知的形象という二つのスペキエスのことだと 理解しておいて問題はなさそうです。で、可感的形象が置かれる場所(す なわち身体の器官)と、魂が置かれる場所とは異なっていて問題ないとい うわけですね。 304節はその補足、305節以下は各種の異論が示されています。305節の 異論は、知覚の機能は魂の側にあるのか、身体の側にあるのかという問い かけです。魂の側にあるとするなら、それがいかにして身体に生じる現象 を知覚するのかを考えないいけないが、身体の側にあるとするなら、非物 体としての魂は不要になるのではないか、というわけですね。306〜7節 の異論は、魂の影響力が身体全体に広がるという前提に立つ場合、それが いかにして可能なのかと問うています。で、その一つの説明として精気 (spiritus)の付与(transmissio)が引き合いに出されていますが、こ れは斥けられています。その場合の精気は、物体か非物体か、物体なら生 命をもつのかもたないのか、と仮定を整理した上で、そのいずれの説を採 用しても問題が生じることを指摘し、結局この精気説そのものが成り立た ないとしています。この後、ブランド自身の立場によるこの問題の解決が 示されますが、それは次回の分となります。 さて、この箇所との関連で、ブランドが下敷きとしていると思われるアヴ ィセンナの議論も見ておきたいと思います。『魂について』(木下雄介 訳、知泉書館)第五部第二章でアヴィセンナは、知性的能力が「限定され た量と場所と配置、および以前に述べられた他のものを知解対象から剥奪 する」(p.247)と述べています。これはつまり、知解に際して知性的能 力(すなわち魂)は、知解対象の抽象化を行うということでしょう。その 上でアヴィセンナは、「我々は(……)形相がどのように配置を剥奪され ているかを見なければならない」(同)とし、その形相(可知的形象) が、外部の事象と知解する実体(魂)のいずれの側にあるのかと問うてい ます。そして、知性の中に可知的形象が存在するときにのみ、その形象 (形相)は配置や場所から離在すると断じています。 アヴィセンナはまた、もし知性的能力が物質的な器官を通じて知解を行 い、その器官のみで知解の作用が完結してしまうなら(これは上の305節 で取り上げられている、知覚の潜在性が身体の側にある場合に相当しま す)、その知性的能力が自分自身を知解することも、器官そのものを知解 することもないだろう、と述べています。なぜかというとその場合、知性 的能力と自分自身の間には、知解を完遂させる器官がなく、また知性的能 力と器官そのものとの間にも知解を完遂させる器官がないからです(p. 250)。知性的能力(つまり魂がもつもの)は自分自身も、器官も、さら には自分が知解したこともすべて知解しているのですから、知性的能力は 器官にあるのではなく、それ自体に(つまり魂のうちに)あるのだという ことになります。アヴィセンナの見解では、器官による知覚(感覚的知 覚)と知性的能力による知解の根本的な違いは、そうした内省性、再帰性 にあることになります。 アヴィセンナはさらに、成長の完了後、身体の感覚的諸能力は衰弱しはじ めるのに対し、知解対象を知覚する能力(知性的能力)はひたすら強くな ると述べ、感覚的能力と知性的能力は互いに相反するものだと論じていま す。このことからも、肉体によらなければ魂の作用は完遂しないという議 論を、アヴィセンナは斥けています。このあたり、上の304節の議論とは 少しニュアンスが違っている印象を受けます。304節では、魂は感覚器官 そのものに置かれる必要はないものの、それは身体の中において知識や徳 を感得する(つまり魂の作用を完遂する)とされています。いずれにして も、アヴィセンナにおいてもブランドにおいても、ここで一番大きな問題 が残されています。つまり魂はどのような形で感覚器官を利用するのかと いう問題です。それについてはまた次回に改めて取り上げましょう。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------