〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.247 2013/09/21 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その2) 前回見たように、スコトゥスは無限を量化して考えることを斥け、「強度 をもった無限」「形相的な無限」という形で積極的・肯定的に捉えようと します。つまり無限を単なる無規定なものとしてではなく、「限界がない こと」という規定性を備えたものとして肯定的に捉えようとするのです ね。自由討論集の問五の第一部の続きを見ると、その規定性はもろもろの 属性よりも深いところにあって、本質的(内在的)なものだとされていま す。「その存在性から属性や属性に準じるものを取り除いたとしても、そ の場合ですら無限性は取り除かれず、むしろそれは存在性そのものに内包 されている」とスコトゥスは述べています。ここでダマスクスのヨハンネ スの言として「限界も限定もない、実体の大海」という言葉が引用されて いるのも興味深いところです。 次いでスコトゥスは問五が本来扱っている問題へと戻ります。三位一体の 位格の関係は無限なものか、というのがその問題なのでした。そもそも関 係というものは形相的な無限でありうるのか、とスコトゥスは問います。 ここで問われているのは、関係という存在性の本質をなすような無限はあ りうるかということです。こう問う場合、たとえば「神性は無限である。 父子の関係は神性である。よって父子の関係は無限である」という三段論 法は成立しないとスコトゥスは主張します。 これは小前提の部分が問題だからです。小前提では「父子の関係」が「神 性」とイコールで結ばれているのですが、それが真となるのは、父子関係 に同一性(父と子の同一ですね)という属性が適用される(父子関係が同 一性の範疇に属する)場合に限られる、とスコトゥスは言います。つまり ここでの神性はその関係の本質的にイコールとはされず、付帯的・偶有的 にしか成立しないとスコトゥスは述べているのです。大前提が必然でも小 前提が偶有なら、得られる結論も偶有のものでしかありません。したがっ て「父子の関係は無限」という結論も、本質的な言辞とはならないという のです。 さらにスコトゥスは言い方を変え、次のように論じます。上の三段論法の 大前提と小前提に共通する項(いわゆる中項)、すなわち「神性」は、大 前提では何性(何であるかということ、つまりは本質)を表しているの に、小前提では個別の事例(父子関係が同一性の範疇に入る場合)を表し ていることになります。そうするとこの論法で導かれる結論は、父子の関 係一般というものは端的な無限ではありえず、むしろ場合により無限でも ありうる何かである、となります。このあたり、前にも出てきたことがあ りますが、後の論理学的議論で重要になる、自立的意味、共義的意味の対 立を彷彿とさせます。その予兆といってもよいかもしれません。 * * さて、私たちが眺めているアンソロジー本で次に取り上げられているの は、同じくスコトゥスの自由討論集から問七「神の全能は自然および必然 の議論で論証できるか」です。ここにも無限についての議論が見られま す。同章の冒頭においてスコトゥスは、「神の全能は自然の議論で論証で きる。なぜなら神の無限は自然の議論で論証できるからであり、よって神 が全能であることも自然の議論で論証できる」という論法を検証すると宣 言しています。この論法では、前段部(「神の無限は自然の議論で論証で きる」)はアリストテレスの自然学第八巻から、神が無限の時間にわたっ て運動を与えられることが根拠だとされています。続く結論部(「神の全 能も自然の議論で論証できる」)については、無限であるような潜在力は いかなる他の潜在力によっても超越されえない(さもないと、それは無限 ではなくなるからですね)という前提に立ち、仮に全能でないならば、そ の潜在力は全能であるような他の潜在力によって凌駕されてしまうという 論拠をもって、この論法は正しいとされるのだといいます。 スコトゥスは問七の第三項で、この議論を実際に検討しています。まず前 段部のアリストテレスにもとづく議論はどうでしょうか。スコトゥスはあ えて異論を挙げて、それに反論してみせます。異論とは「アリストテレス の文面から導かれるのは、第一動者としての神は強度をもった無限の潜在 力だということではなく、あくまで無限の時間において運動をもたらすこ とができるというだけだ」というものです。これに対してスコトゥスは、 無限であるとはそもそも大きさをもたないことだとし(これまた、スコト ゥスのいう「強度をもった無限」ですね)、『形而上学』九巻や『天空 論』一巻などをもとに、時間のうちで永続するものは形相的に必然として あり、よってそれは能動的な無限の持続の潜在力をもつ、と論じます。し たがって前段部からは、異論の言う「時間的な無限だけ」という帰結には ならず、大きさなどの量化とは別種の無限、つまりは強度をもった無限が 導かれる、と主張します(さらにスコトゥスは異論の推論の仕方にも批判 を加えていますが、これは割愛)。 次に後段の「神が全能であることも自然の議論で論証できる」という結論 部ですが、これに関してはスコトゥスは否定的で、自然の議論において神 の無限は論証できても、それが全能であるかどうかの論証はできないと述 べています。つまり、自然の議論で議論できる最上の潜在力とは無限の潜 在力であるけれども、それがいわゆる通常の意味での「全能」であること と直ちにイコールだということにはならない、というのですね。スコトゥ スは、無限の潜在力はいかなる量的な広がりにおいても凌駕されることは ないとした上で、再びアリストテレスに準拠しつつ、「全能」という場合 にはあらゆるものに直接的に関与できるという意味であり、それは原因か ら成る世界の基本秩序を破壊することになってしまうと述べています。 スコトゥスは神の全能そのものを否定しているわけではありません。神は 全能である(つまりあらゆる物事に直接的に関与できるということ)とし ても、そのこと自体を自然についての議論から導けるわけではないという のがその立場です。問題になっているのはあくまで自然の議論です。そし てその議論において導ける最も先鋭的な概念として、強度をもった無限が 位置づけられているのですね。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その8) ブランドの『霊魂論』二二章「理性的魂について」の続きです。異論を反 駁しながら、ブランド自身の立場が述べられています。 # # # 308. Solutio. Dicimus quod potentia percipiendi est in anima ut in subiecto, et potest intueri passiones corporis, licet ipsa ibidem non sit cum ipsis passionibus praesens secundum sui essentiam; quia, ut assignata est ratio superius, ipsa semper, ut suam habeat perfectionem, habet convertere suas intentiones ad immutationes formatas in corpore, et omnes illas potest intueri inclusa in corpore habens se ad similitudinem centri. Sicut enim si centrum esset oculus videret totam circumferentiam, et si esset illa circumferentia speculum, ipse oculus posset videre imagines usquequaque parte circumferentiae constitutas in speculo, et tamen non esset ipse oculus actu existens secundum sui essentiam in unaquaque parte ipsius circumferentiae. Similiter anima existens in corpore potest intueri imagines formata in ipso corpore, non tamen erit praesens secundum sui essentiam cum ipsis imaginibus. 308. 解決。私たちはこう述べよう。知覚の潜在性は基体と同様に魂のな かにもあり、たとえ魂がその本質上、身体に生じる情感と同じ場所にない としても、魂は身体の情感を観察できるのである。上述の議論(304節) で規定したように、魂はおのれの完成に至るものであり、身体に形成され る変化におのれの注意を常に向けることができ、みずからを円の中心であ るかのように位置づけ、身体の中で起きるすべての変化を観察できるから だ。もし目が中心に位置すれば、その目は周囲のすべてを見ることができ るだろうし、その周囲が鏡であれば、その目は鏡に映る周囲のどの部分の 像をも見ることができるだろう。けれども、その目が本質上、実際にそう した周囲のいずれかの部分に存在するのではないだろう。同じように、身 体に置かれた魂は、その身体で形成される像を観察できるが、だからとい って本質上、そうした像のそばに存在せずともよいのである。 309. Ad aliud. Dicendum est quod, licet vegetatio per totum corpus sit, non tamen oportet quod anima distendatur per totum corpus. Sicut si centrum circuli esset igneum, ipsum illuminaret totum circulum, et illuminatio procedens ab ipso distenderetur per totum; et tamen ipsum centrum simplex est carens quantitate et non distensum. Similiter ab anima est vegetatio in totum corpus procedens et distensa per totum, non tamen ipsa anima distensionem habet. Sol autem totum mundum illuminat, non tamen est secudndum sui esentiam ubique praesens ubi est eius illuminatio. Ostensum est autem per praemissa quod anima est incorporea substantia. 309. もう一つの異論に対して。次のように言わなくてはならない。生長 は身体すべてにわたるものではあるが、だからといって、魂が身体全体に 広がらなくてはならないわけではない。円の中心に火があるとすると、そ れで円の全体が照らされるし、そこから生じる輝きは全体に広がるが、と はいえその中心は単一で量を欠いており、広がりをもたない。同じよう に、生長も魂に由来し、身体全体で進行し、全体へと広がっていくが、だ からといってその魂に広がりがあるわけではない。さらに太陽も全世界を 照らすが、だからといって本質上、その光が届くあらゆる場所に居合わせ ているわけではない。 このことは魂が非物体的な実体であるという前提により立証される。 310. Sed forte dicet quis quod in homine tres sunt animae diversae, scilicet anima vegetabilis, qua covenit homo cum arboribus et plantis; et anima sensibilis in qua convenit homo cum brutis animalibus; et anima rationalis in qua convenit homo cum angelis et ceteris intelligentiis. Dicet etiam quod anima rationalis est incorporea, sed anima sensibilis et anima vegetabilis sunt corporeae et distenduntur per totum corpus vegetatum quod tactu utitur. 311. Contra. Demonstretur aliqua pars extrema corporis vegetati et sentiens, ut digitus. Inde sic. Hoc est corpus animatum et sensibile, quia est vegetatum et utens sensu, quia tactu et ”corpus animatum sensibile” convertitur cum "animali". Ergo cum illud corpus sit animatum, sensibile, ipsum erit animal, quia haec est definitio animalis: animal est corpus animatum sensibile. Sed illud est digitus homonis; ergo digitus hominis est animal. Sed eodem modo potest ostendi de infinitis partibus hominis, quod ipsae sunt animalia. Sic ergo essent de integritate hominis infinita animalia contiguata vel continuata ad invicem. 310. だがおそらく、誰かが次のように言うだろう。人間には異なる三つ の魂があり、一つは植物的魂で、それゆえに人間は木々や植物と一致す る。次は感覚的魂で、それにより人間は理性を欠いた動物と一致する。も う一つは理性的魂で、そこにおいて人間は天使やその他の知性と一致す る。またその者はこうも言うだろう。理性的魂は非物体的だが、感覚的魂 と植物的魂は物体的で、触覚によって用いられる、生命をもった身体全体 に広がるのだと。 311. 反論。たとえば指など、身体の末端部が生命をもち感覚をもつこと は論証されている。ここから次のように話は進む。それは生命をもつ感覚 的な身体である。なぜなら活力を与えられてもいるし、感覚を利用しもす るからだ。「生命をもつ感覚的な身体」は触覚をなすがゆえに「動物」と も言い換えられる。よって、その身体が生命をもち、感覚的であるなら、 それは動物なのである。なぜなら動物の定義とは次のようなものだから だ。「動物とは生命をもつ感覚的な身体である」。だが、それは人間の指 にも当てはまる。すると人間の指は動物だということになる。同じよう に、人間の部分が動物であるということは、人間の諸部分に無限に拡大で きる。一揃えの人間というものが、たがいに隣接もしくは連続した無限の 動物であるかのように。 # # # 308節は305節の異論に対して、また309節は306節の異論に対しての反 駁になっています。知覚の潜在性がどこにあるのかを問うた305節に対し て、ブランドは円の中心という比喩でもって、魂(それが潜在性の在処だ というわけですが、そのこと自体の議論は省略されています)が遍在する わけではなく、どこかに存在して(量や場所をもたない非物体的な実体な ので、どこにあるのかを問うことはそもそもできないということなのでし ょう)、そこから全体に注意を向けることが可能なのだということを示し ています。円の中心にいれば、周囲の全体を見渡すことができるというわ けですね。 さらに同じように円の中心からの照射に比せられる形で、魂は身体に生気 (活力)を吹き込むことができる、とするのが309節です。こ場合の円の 中心の比喩は光源によって周囲が照射されるケースを念頭に置いているわ けですが、なにやら光学系の議論を彷彿とさせますね。これはアヴィセン ナのほうにも見当たらない(?)論点で、あるいはむしろ、グロステスト やロジャー・ベーコン以来の、オックスフォード系のフランシスコ会派が 重んじる光学議論が念頭にあるのかもしれません。 さて、今回の部分に関連する箇所を再びアヴィセンナの『魂について』か ら見ておきましょう。ブランドは、前の304節でも述べているように、魂 は身体の中にあって完成をめざすのだとしています。これがどういうこと なのか少しわかりにくい気がしますが、ここでもやはりアヴィセンナが参 考になるように思われます。アヴィセンナによれば、「動物的な諸能力は さまざまな事柄において理性的魂を助けている」(p.256)といいます。 つまりは感覚が個別的なもの(出来する像)を理性的魂にもたらし、理性 的魂はそれらから普遍を抽出したり、普遍同士の類縁性を設定したり、経 験的な前提を獲得したりするというわけです。魂は「形相化と真偽判断の 諸原理を獲得するために肉体を利用し、それを獲得すれば本来の自分に戻 る」(p.257)とされています。 魂はこのように一種の自己鍛錬をして完成に至るというわけなのですが、 アヴィセンナの場合、そこで言う完成とは、どうやら魂が「自分の諸作用 を絶対的に独占して」(同)いる状態のことを指すようです。たとえ「感 覚的想像的な諸能力やその他の肉体的諸能力が魂をその作用から逸らすこ と」があっても、それすら目的のための手段にしてしまえるような状態だ といいます。ブランドのテキストの場合、そうした説明は見当たらない感 じですが、いずれにしても魂が感覚を観察し、また生気の付与に関わって いるとしていますから、そうした作用を通して完成形になっていくのだと すれば、アヴィセンナの言う完成の状態に近いものが含意されている可能 性は高いと思われます。 アヴィセンナはさらに進んで、魂が「肉体から離れて存立したことがない まま肉体のなかに実現した」ものだと主張します。肉体の生成とともに生 じるのでないと仮定すると、魂が各個人に備わるような、数の上での多に はなりえなくなるからだといいます。「魂の発生は肉体と同時である」と いうテーゼも重要そうに見えますが、それ以上に、そのテーゼが魂の「数 の上での多」というテーゼから導かれていることが重要かもしれません。 この「数の上での多」は、アヴィセンナにとってとことん譲れない一線と して掲げられているように思われます。そういう前提があるからこそ、魂 はみずからの個体化・個別化のために肉体を駆使し、その肉体に特有の魂 として実現する(完成する?)という主張も生きてくると言えそうです。 最初から肉体を離れた「剥き出しの魂」というものは、アヴィセンナはそ もそも認めていないのですね。 ちょっと先走りになりますが、アヴィセンナは、肉体が滅びた後の魂も、 それぞれの魂が「相異なる肉体に応じて魂にそなわる諸形態のちがいを、 独占的に所有する本質として存在する」(p.260)のだとしています。個 別性は肉体の消滅後も変わらないというわけですね。うーん、こうなる と、ブランドがそのあたりをどう考えているのかも気になってきます。そ れはまたこれからのテキストで探っていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------