〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.248 2013/10/05 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その3) 参照している『神学から数学へ−−一四世紀における無限』で、スコトゥ スの次に取り上げられているのはアダム・ヴォデハムです。以前にもちら っと出てきましたが、ヴォデハムはオックスフォード系のフランシスコ会 士で、オッカムの支持者としても知られています。同書が取り上げている のは『連続体の構成について、ハークレイのヘンリーおよびウォルター・ チャットンへの反論』という文章です。タイトルが示すように、ここでハ ークレイとチャットンへの反論という形で展開されているのは、連続体が 不可分の点から成るという議論への反論です。 まず、本文に先立つ解説部分からまとめておくと、ハークレイのヘンリー もウォルター・チャットンもいわゆる「不可分」論者です。連続体という ものは、それ以上分割できない点(原子)から成るというのがその主張で すが、ハークレイとチャットンの違いはというと、ハークレイが連続体を 構成する不可分の点は無限個あると考えているのに対し、チャットンは点 は有限個しかないと主張しているのですね。ハークレイのほうはヴォデハ ムの前の世代にあたり、一方のチャットンは同時代人です。チャットンは ヴォデハムの師匠だった可能性もあるようですが、いずれにしてもチャッ トンはオッカムの批判者でしたから、擁護派の先鋒を切っていたヴォデハ ムとは対立点も多く、連続体の構成問題も主要な対立点の一つだったよう です。ヴォデハムのこの批判文書は、1320年から1330年ごろまでの間 に書かれたとされています。 では、そのヴォデハムのテキスト(仏訳)を見ていくことにしましょう。 テキストは四つのパートに分かれています。第一のパートはアリストテレ スの議論(とアヴェロエスの注解)を取り上げ、連続体は不可分の点から 成るのではないという古典的な議論を改めて取り上げます。第二のパート では、それに対するハークレイのヘンリーとウォルター・チャットンの説 が要約されます。第三のパートでは不可分論の主要な議論をリストアップ し、第四のパートでそれらへの論理学的な反論を加えるという構成です。 具体的に見ていきましょう。まず最初はアリストテレスの説についてで す。ヴォデハムは『自然学』六巻から「不可分のものに不可分のものを加 えても、広がりにおいてより大きなものとなるわけではない」という一節 (231a21-29)を引いています。不可分のものが不可分のものに加えら れたときに、それがもとの大きさより大きくなるためには、不可分の点同 士が連続体になっているか、もしくは隣接しているかしていなくてはなり ません。連続体であるとするなら、両者の端部は一つになっていなければ なりません。ですが端部が一つになっているような連続体は、端部と、端 部を有する部分とに分割できなくてはなりません。ところが点は不可分で あるというのが前提なのですから、端部と端部を有する部分とには分割で きないことになり、矛盾します。点同士が隣接すると考える場合も同様で す。隣接の場合、両方の端部が一つになるわけなのですが、その一つの点 はやはり端部と端部をもつ部分とに分割できなければなりません。ですが それもまた点を不可分とする前提に反します。 こうして、不可分の点が連続することはそもそもありえないという結論が 導かれます。また別筋の議論もあります。不可分の点が連続体を構成する には、それらの点が互いに接触しなくてはなりませんが、その場合、点全 体として接触するか、あるいは接触面のみで接触するかのいずれかです。 点同士が全体で接触するのだとすると、同じ地点に二つの点が同時に存在 することになってしまいます。点同士は重なり合って、結局アリストテレ スの言うとおり、大きさを増やしたりはしないことになります。一方、接 触面のみで接触すると考えると、その点は接触面とそれ以外の面とに分割 できることになってしまい、点が不可分だとする前提に反します。 このほか、直線は常に等しい二つの部分に分割できるという原理を持ち出 して、不可分の点によって直線が構成されているとしたら、三つ点で構成 されている直線の場合、等分に分割できない云々といった議論も取り上げ られていますが、やはり主要なものは上の二つと言ってよいでしょう。い ずれにしても、ヴォデハムはこのように不可分論には様々な問題点がある とし、不可分論側の議論は不十分だとして、同時代的な不可分論の代表と してハークレイとチャットンを取り上げてみせます。 ハークレイは、不可分の点同士は同じ場所で、もしくは隣接する形で付加 できると主張します。点と点が同じ場所で重なる場合には連続体の全体の 大きさは変わりませんが、隣接する場合には大きさが増すとしているので すね。チャットンも同様の議論をしますが、上でも触れたように、連続体 を構成する不可分の点は有限個であるとする点が異なっています。チャッ トンは、一定の量が無限の部分に分割できることを認めた上で、アリスト テレスが「連続体は不可分の点から成るのではない」と述べた真意は、連 続体が「現実態としての」不可分の点から成るのではないということであ り、「潜在態としての」不可分の点から成ることまで否定したのではない と解釈します。そこでの「現実態」とは実際に分割して取り出せるという ことだ、とヴォデハムは記しています。つまり実際に切り出せるわけでは ない(なにしろ連続体は無限の部分に分割できるのですから)にせよ、不 可分の点を連続体の構成要素として考えることまで否定されてはいない、 というのです。 いささか強弁な気もしますが(笑)、ヴォデハムによれば、チャットンが 考える「点」はそもそも「部分として何かを構成するもの」を指してはい ないといいます。その意味で、「連続体は点から成るのではない」はごく 当然のことだというのですね。ヴォデハムはこの後、ハークレイの説を詳 しく紹介するという形で、不可分論の側の主要な議論を一四項目にわたっ て列挙していきます。そしてそれらに対して反論を加えていくのですが、 そのあたりはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その9) 今回はブランド『霊魂論』二二章の末尾部分です。さっそく見ていきまし ょう。 # # # 312. Item. Anima sensibilis est substantia corporea, ut dicit Respondens, et distenditur per totum corpus hominis. Sed aliud est corpus quod est vegetatum, et aliud anima sensibilis, quae est dans sensum; et anima vegetabilis quae est vegetans est aliud. Ergo cum tam anima sensibilis quam anima vegetabilis sit substantia corporea, quae est in corpore sensato, vel sunt ibi diversa corpora simul in eodem loco circumscripto, vel unum corpus aliud corpus subintrat. Sed duo corpora in eodem loco simul non sunt; hoc est notum in principio intellectus in naturalibus; ergo unum corpus aliud subintrat. 313. Quod dicet forte. Dicet enim quod anima secundum quod est corporea et vegetabilis subintrat corpus in quo est; sed illud corpus in quo illa anima subintrat non omnino dividitur in illa subintratione, quoniam secundum hoc esset divisio in infinita facta, et ita illud corpus omnino divisum periret. Relinquitur ergo quod ibi non est omnino divisio facta. Ergo est ibi aliqua pars corporis subintrat in qua particula nulla est particula animae subintrans, et illa pars corporis subintrati habet longum, latum, spissum, et ita in eius medio nulla erit vegetatio nec aliquis sensus propter defectum animae vegetabilis et animae sensibilis, et ita illud corpus erit purum corpus, non vegetatum; erit ergo secundum hoc solummodo vegetatio et sensus in contiguatione et in continuatione animae cum corpore. 312. さらに次のような議論もある。異論者が述べるように、感覚的魂は 物体的な実体で、人間の身体のすべてに広がっているとしよう。だが活気 をもった身体と、感覚をもたらす感覚的魂とは別ものであり、また、活力 を与える植物的魂も別ものとされる。したがって、感覚的魂も植物的魂と 同様に、感覚を有する身体の中の物体的な実体であるとするなら、複数の 物体が同時に境界で隔てられた同じ場所にあるか、あるいは一方の物体が 他方の物体に入り込んでいるかのいずれかとなる。だが二つの物体が同時 に同じ場所にあることはない。このことは自然学の知的原理において知ら れている。したがって一方の物体が他方の物体に入り込んでいることにな る。 313. すると異論者は次のように言うかもしれない。つまり、魂は物体的 かつ生命をもたらす限りにおいて、それが宿る物体に入り込む、と。だ が、魂が入り込む当の物体は、その入り込みにおいてすっかり分割されて しまうわけではない。もし分割されるのだとすると、その分割は無限にな されてしまうことになり、すっかり分割されたその当の物体は滅してしま うだろうからだ。ゆえにここでは、すっかり分割されてしまうことはない ということになる。したがって、ここでは物体の任意の部分が、入り込む 側の魂の部分ではないような部分に入り込んでいることになり、物体側の その部分には長さや幅、厚みなどがあり、しかもその中間部では、植物的 魂も感覚的魂もないためにいかなる生長も感覚も生じず、さらにその物体 は純粋な物体であって、活力を宿してはないことになる。したがって、こ れに従えば、生長と感覚は魂と身体が隣接し連続する場合にのみ生じるこ とになる。 314. Item. Si anima sensibilis et vegatabilis sint corporae, illa anima et corpus in quo sunt, aut contiguantur, aut continuantur. Si continuantur; tunc est diversarum rerum continuatio, quod est contra Aristotelem in Physicis. Si contiguantur; tunc contingit quod ex una parte erit corpus purum et ex alia erit anima, quia contingua sunt quorum termini simul sunt. Non erit ergo in illo corpore puro vegetatio vel sensualitas nisi in contiguatione solum, quia qualiter sentiret ipsum corpus in medio puncto sui, cum anima sit contiguata ei extra. 314. さらに次のような議論もある。感覚的魂、植物的魂が物体的である なら、それらの魂とそれらが宿る身体は隣接するか連続するかのいずれか である。連続するのだとすれば、異なる事物が連続することになり、これ は『自然学』のアリストテレスの言に反することになる。隣接するのだと すれば、一部分は純粋な物体で、一部分は魂であるようなものが居合わせ ることになる。というのも、隣接するとはその端部同士が同時に存在する ことだからだ。したがってその純粋な物体に活力または感覚が宿るのは隣 接部分においてのみ、ということになる。魂が外部から身体に接するのだ とすると、いかにしてその身体は中間点において感覚を覚えるのか、とい うことになるからだ。 315. Forte dicet aliquis, quod ab anima transmittuntur spiritus vitales et spirituales, et quod a vitalibus est vita, a spiritualibus est sensus. 316. Contra. Illi spiritus aut sunt corporei, aut incorporei. Si corporei; eadem erit obiectio quod prius. Si incorporei; Contra, ut dicit Avicenna in Metaphysica, omnis substantia aut est corpus, aut non est corpus. Si non est corpus; aut est pars corporis, aut non. Si est pars corporis; aut est materia, aut forma. Si non est pars corporis; aut est tale quid quod habet ligationem cum corporibus ut moveat illa, et dicitur anima; aut est tale quid quod non habet ligationem cum corporibus ut moveat illa, et est substantia separata, et dicitur esse intelligentia. Si igitur spiritus ab anima transimissus per totum corpus sit substantia incorporea, ipse aut erit pars corporis, aut non. Non erit pars corporis, quia ipse nec materia neque forma; ergo erit vel anima vel intelligentia. Redibit ergo prior obiectio. His ergo obiectionibus et rationibus habetur quod nulla anima est corporea. 315. おそらくこう述べる人もいるだろう。魂から生命的・霊的な気息が 送られ、生気を与えるものから生命が生じ、霊気を与えるものから感覚が 生じるのだと。 316. 反論。それらの気息は物体か非物体かのいずれかである。物体であ るなら、これまでと同様の反論が加えられる。非物体であるとするなら、 それにはこう反論しよう。『形而上学』でアヴィセンナが述べているよう に、あらゆる実体は物体であるか物体でないかのいずれかである。物体で ないなら、それは物体の一部であるか否かのいずれかだ。物体の一部であ るなら、質料であるか形相であるかのいずれかだ。物体の一部でないな ら、それは身体を動かせるような繋がりをもっている魂と言われるもので あるか、あるいはまた、身体を動かせるような身体との繋がりをもってい ない分離した実体で、知的存在であると言われるものかのいずれかであ る。したがって、魂から身体全体に送られる気とは非物体の実体であり、 それは身体の一部であるか否かのいずれかということになる。身体の一部 ではない。なぜなら、それは質料でも形相でもないからだ。したがってそ れは魂か知的存在かのいずれかということになる。こうしてこの議論は前 述の反論へと戻ることになる。しかるに、こうした反論と根拠とをもっ て、いかなる魂も物体ではないということが導かれる。 # # # 身体と魂がともに物体であるとすると、アリストテレス的な自然学の原理 に抵触します。そこでは二つの物体が同一の空間を占めることはないとさ れるからです。あるいは、一方が他方に陥入しているような関係も考えら れますが、そうすると魂の全部が身体の全部に陥入しているのは考えられ ないので(その場合、上のテキストにもあるように身体は無限に細分化さ れてしまうことになります)、魂の一部が身体の一部に陥入しているとす るほうがよさそうです。ですがその場合でも、陥入されていない身体の部 分があることになり、そこは感覚も生長もない部分として取り残されてし まいます。ですが実際の生物においては、そんな部分が存在しないことは 明らかです。 陥入ではなく連続ないし隣接の場合はどうでしょうか(奇しくも上のヴォ デハムの話に似ていますね)。自然学の議論から、二つの異なる物体同士 は連続することはできないとされるので、ありうるとしたら隣接がせいぜ いだということになりますが、ここでも問題があります。その場合もやは り隣接部分でしか生長や感覚は生じないことになってしまい、これまた取 り残しの問題が生じてしまいます。……というわけで、これらの推論はい ずれも問題含みとなってしまうがゆえに、身体と魂がともに物体だという 仮定がそもそも間違いだという話になります。 最後に気息の話が出て、これもまた物体だとすると上述の同じ議論に差し 戻される、ということが示されています。ブランドのこの議論では、気息 もまた非物体の実体として捉えられています。ところがここで興味深い事 実があります。アヴィセンナにおいては、気息はむしろ「微細な物体」と 考えられているようなのですね。この点をめぐっては、両者の間に大きな 見解の違いがあるということ……なのでしょうか。 アヴィセンナによる気息の説明を眺めておきましょう。『魂について』か ら最終章にあたる第五部八章です。まず気息は、「孔に入り込む微細で霊 的な物体」だと定義されています(p.303)。これは魂と肉体との諸能力 を運ぶ「乗物」だとされ、運ぶ当の諸能力に応じて差異が生まれ、「特有 の混合」が生じるとしています。魂は気息を介して、まずは諸器官に送り 込まれる器官を作るのだといいます。アヴィセンナはここで医学的な発生 論を語っており、気息によって作られる最初の器官は心臓だと述べていま す。それが動物を生きさせるのだとし、「魂が最初の器官に結びつけば肉 体は魂をもつものとな」る(p.304)と述べています。 一方で、感覚の中枢とされる脳については、「魂は心臓によって動物を生 きさせるが、他の作用を行う諸能力が心臓から別の諸器官に流れ込むこと はありうる」とし、「気息の混合が完了するのは脳のなかであり、その混 合は、感覚と運動の諸能力を(……)諸器官に運ぶのに適したものになっ ている」(同)と述べています。気息はまずもって心臓を作り、次いでそ こを通じて脳へと流れ込み、その場に適した混合を果たして感覚と運動の 能力を完成させる、ということのようです。 アヴィセンナは医者なので、当時の発生論的な見識の文脈で気息概念につ いても語っているのでしょう。この箇所ではほかに脾臓や肝臓の形成など についても触れています。そうした各種臓器の形成の話はなかなか具体的 だったりします。とはいえ、気息は早い段階で説明から姿を消してしま い、あとは諸能力と諸器官の話が展開していきます。 ブランドはアヴィセンナの『形而上学』を引いたりしてもいますが、少な くとも『魂について』のこうしたアヴィセンナの気息概念からすると、ブ ランドが「こう述べる人もいるだろう」として示した議論(気息は物体だ とする考え方への反論)は、結局のところ当のアヴィセンナ本人を批判対 象に据えているようにも見えてきます。このあたり、もう少し検証が必要 かとは思いますが、少なくとも現時点では、医学的な知見をもとに具体的 な事例から語るアヴィセンナと、あくまで論理学的な検討にこだわるブラ ンドの姿勢が、なにやらとても対照的に思えます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------