〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.249 2013/10/19 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その4) アダム・ヴォデハムの『連続体の構成について』から、前回の続きの部分 を見ていきましょう。ハークレイやその他論者による不可分論(一種の原 子論ですね)の議論としてヴォデハムが挙げている項目は一四あります。 テキストでは最初に一四項目が一挙に示され、それからまた反論が列挙さ れるのですが、ここでは各項目の議論と反論を個別に見ていこうと思いま す。 最初のものと二番目は「神の全能の観点」からの議論です。まずは最初の 項目です。神はその全能ゆえに、連続体を構成するあらゆる点を目にでき るとされるわけなのですが、ならば「最初の点」とその後の「あらゆる 点」との間に中間点を目にできるかのか、という問いが投げかけられま す。もし中間点が目にできない、すなわち中間点がないなら、そららの点 は隣接していることになり、したがって連続体が点でできていることが証 される、という寸法です。 不可分論側の議論は、このように最初の点とそれに続く二つめの点との間 には中間点を目にできない、という話にもっていこうとします。直線上 で、最初の点と、神が目にするほかの任意の点との間に中間点があるとす る場合、その点は連続体上にあって、しかも最初の点ではないのだから、 それ以外の任意の点の一つである。したがってそれは中間点ではない(し たがって神はその中間点を目にできない)……。ヴォデハムはこれに対し て、まず言葉の使い方があいまいだと指摘します。「神が目にするその直 線のいずれかの点」と「最初の点」との間ならば、中間点はその線上のど こかに見出されうると推測できます。ところが不可分論側の議論では、そ の中間点は最初の点ではなく、ほかの任意の点に含まれるのだから中間点 ではないと強弁します。ヴォデハムはこれを詭弁だと批判します。「ほか の任意の点」という配分詞つきの複数形が、被限定語のように扱われてい るのが問題だというのですね。 最初の点をAとします。「ほかの任意の点」は集合的な意味、あるいは分 割的な意味で考えることができます。集合的な意味に取る場合、「ほかの 任意の点」はひとかたまりのブロックとなり、点Aとそれの間に中間点は ないことになります。分割的なものだとするなら、「ほかの任意の点」は 諸点の連なりということになり、それらのいずれかの点とAとの間に中間 点を仮構するのは可能になります。集合的な意味で「ほかの任意の点」を 考える場合でも、現実問題として、それで点Aが実際に「ほかの任意の 点」というブロックと隣接するというのは偽になります。その「ほかの任 意の点」のいずれの各点とも点Aが隣接するわけではないからです。二つ の要素の間に中間点がないことと、二つの要素同士が隣接していることと は、このように必ずしもイコールにはなりません。つまり、連続体が点で できていることを中間点の有無によって証すのは無理だということになり ます。 ある意味、当たり前の議論ですが、論証という手続きを踏む以上、言葉で の説明が煩雑になってしまうのは仕方ありません。ヴォデハムはこのあた り、いくつかの論理学的な例を挙げて説明しているのですが、煩雑になる のでとりあえずそのあたりは脇へ置いておきましょう。いずれにしても、 この最初の議論への反論はほかよりも長く、論理学的な整合性を重んじる ヴォデハムの基本的な立場をよく表していると思われます。 続く二つめの議論では、点と線(ないし線分)は別ものかどうか、点を取 り除いても線が残るかどうかが問われます。残らないとなれば、線は点か ら成ることになるわけです。ですがヴォデハムは、点を取り除き、代わり の点を据えないとしても、その取り除かれた点において、あたかもその点 は存続しているかのように線分は終止してしまうと指摘します。 第三の議論もこれに関連しています。直線を二つの線分に分け、その分か れた線分同士を再びくっつける場合、線分の端の点同士は中間点を介する ことなく隣接するが、その場合の点は分割によって作られたわけではな く、したがって点はあらかじめ存在していなくてはならない。するとそれ らの点はあらかじめ隣接していたことになり、さらにその線分内の端部の 点の隣にも別の点があることになり、線は点から成ることが証される、と いうものです。これに対してヴォデハムは、分割は点と点との間で起きて いるのではなく、同じ場所を占める点があって、それが分割により破壊さ れ、新たな端部の点が分割によって作られるのだ、と反論しています。 第二の議論への反論もそうですが、ヴォデハムは、分割とはいずれかの一 点を破壊する、あるいは取り除くことで、分割された二つの線分のそれぞ れの端部に新たな点が出来ることだと考えているのですね。すなわち、点 と線は別ものだということです。この点の考え方は、球と直線とが接する 場合などについても適用されるようなのですが、それはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その10) ブランドの霊魂論、今回からは続く第二三章を見ていくことにします。そ こでは「魂は可死か不死か」が問われています。ブランドはもちろん不死 説を支持しているわけですが、どういう形で論証されているのでしょう か。そのあたりに注目して、早速テキストを見ていきましょう。 # # # XXIII Utrum anima sit mortalis vel immortalis Sequitur videre utrum anima sit mortalis vel immortalis. Quod sit immortalis sic ostenditur. 317. Omne illud quod in quantum ipsum est se ipso est aliquale, se ipso erit tale semper, ut triangulus, in quantum ipse est, habet tres angulos aequales duobus rectis: unde triangulus necessario habet tres angulos aequales duobus rectis. Cum ergo anima, in quantum ipsa est anima, se ipsa vivat, anima non potest non vivere. Ergo anima necessario vivit; ergo anima est immortalis. 318. Item. Quicquid corrumpitur, corrumpitur per eius contrarium. Ergo cum anima contrarium non habeat, nec componatur ex contrariis, anima corrumpi non potest; ergo anima est incorruptibilis; ergo anima est immortalis. 二三章 魂は可死か不死か 次に、魂は可死か不死かを検討する。不死であるという議論は次のように 示される。 317. みずからなんらかの性質をもつものはすべて、おのずとそうなるの であり、常にそのようなものであり続ける。たとえば三角形は、それがも つ性質において、合計が二つの直角に等しい三つの角をもつ。ゆえに三角 形は必然的に、合計が二つの直角に等しい三つの角をもつのである。魂の 場合には、それが魂であるためにもつ性質として、みずから生きている。 魂は生きていないわけにはいかない。したがって魂は必然的に生きている のであり、よって魂は死することがないのである。 318. 同様に、滅するものはすべて、反対物によって滅する。したがっ て、魂には反対物がなく、反対物から成っているのでもないのだから、魂 が滅することもありえない。したがって魂は不滅であり、ゆえに不死であ る。 319. Item. Ut habetur fere ab omnibus auctoribus de morte loquentibus, mors nihil aliud est quam sepratio animae a corpore. Sed anima non est corpus, nec animam habet; ergo in ipsa non potest fieri separatio animae a corpore; ergo ipsa mori non potest. 320. Item. Unicuique mutationi necesse est aliquid subici, ut habetur in fine primi Physicorum Aristotelis, quoniam omnis mutatio est in aliquo subiecto. Ergo cum mors sit corruptio, et corruptio sit mutatio, morti necesse est aliquid subici quod relinquitur actualiter post mortem existens. Ergo si anima moritur, aliquid de anima relinquitur post mortem. Illud relictum non erit corpus. Aut ergo illud erit pars corporis aut non. Si non est pars corporis, aut est anima aut intelligentia; quorum neutrum potest esse. Ergo anima mori non potest. Ergo anima est immortalis. 319. 同様に、死に関して述べているほぼすべての権威から知られている ように、死とは魂が肉体から分離することにほかならない。だが、魂は肉 体ではなく、(別の)魂をもっているわけでもない。したがって、魂それ 自身において魂と肉体の分離が生じることはありえない。したがって魂が 死することはできない。 320. 同様に、アリストテレスの『自然学』第一巻の末尾に記されている ように、どんな変化にもなんらかの基体が必要である。あらゆる変化はな んらかの基体において生じるからだ。したがって、死とは滅することであ り、滅することは変化であるのだから、死には死後も現実的に残るなんら かの基体が必要となる。したがって、魂が死するのなら、魂から何かが死 後も残ることになる。その残るものとは肉体ではないだろう。あるいはそ れは、肉体の一部か否かであろう。もし肉体の一部でないとすれば、それ は魂かもしくは知性であるだろう。 だが両者のどちらもありえない。し たがって、魂が死することはありえず、ゆえに魂は不死である。 321. Item. Haec propositio est per se nota: Omne illud quod possibile est mori anima deserere potest. Sed anima animam deserere non potest. Ergo animam non est possibile mori. Syllogismus est in secunda figura. Ergo anima est immortalis. 322. Item. Aut ipsa anima habet hoc ipsum quod ipsa est se ipsa, vel a prima essentia, quia summae et maxime est incommutabilis. Si a se ipsa, ergo interire non potest. Si a prima essentia. Contra: Essentaiae nil est contrarium. Ergo essentiae, quae primitus est et summa, nihil est contrarium. Sed constitutio speciei existendi et privatio eiusdem sunt a contrarius. Ergo cum species existendi ipsius animae sit proximo loco a pura essentia et incommutabili, si privatio et destructio eiusdem contingat esse, ipsa destructio erit ab aliquo quod erit contrarium primae essentiae. Sed primae essentiae nihil est contrarium. Ergo hoc ipsum quod est anima, destrui non potest, cum contrarii effectus a contrariis fluant causis; et ita habetur quod anima est immortalis. 321. 同様に、次の命題はおのずと示される。すなわち、魂は死が可能な すべてのものを見放すことができる。だが魂は魂を見放すことはできな い。したがって、その魂は死が可能であることにはならない。この三段論 法は第二格である。したがって魂は不死となる。 322. 同様に、魂そのものは、みずからそのようなものである拠り所をも つか、あるいは第一の本質に依るかのいずれかである。というのも、最高 かつ最大のものは不変であるからだ。もしみずからによるのであれば、滅 することはありえない。もし第一の本質に依るというのであれば、次のよ うに反論できる。本質にはなんら反対物はない。したがって第一でありか つ最高である本質にもなんら反対物はない。だが、実在する種としての成 立やその欠如は反対物に由来する。したがって、魂の実在する種は純粋か つ不滅の本質に直接的に由来する以上、もしその魂に欠如や破壊がありう るとするなら、その破壊は第一の本質の反対物であるような何かによるこ とになる。だが第一の本質にはなんら反対物はない。したがって、魂とい うものそのものが破壊されることはありえない。反対物の効果は反対物の 原因から生じるからだ。ゆえに、魂は不死だということが導かれる。 # # # この章では霊魂不滅論の議論が列挙されていきます。個人的には霊魂可滅 論の系譜というほうに興味があるのですが(笑)、可滅論はキリスト教の 教義とは一義的には相容れないこともあって、古代末期以降、少なくとも 表面上は姿を消してしまいます。一四世紀に一部復活するようなのです が、それまでの間にどういう議論がどれほどあったのかは、なかなか見え てきません。多少は不滅論側の議論から推測できないだろうか(?)とい う期待もあるのですが……。なにはともあれ、ブランドの議論です。 今回のこの最初の部分を見ていると、ここでの議論は「定義そのものによ る議論」(317節、319節、321節?)と、基体や反対物といった「自然 学的な推論による議論」(318節、320節、322節)とに大別できそうに 見えます。まず定義からの議論では、魂の本来的性質としての「生きてい ること」や、死の定義としての「魂と肉体の分離」などから、魂は不死で あると推論されているわけですが、これはいかにも同語反復的ないし論点 先取りになってしまっています。 321節には「第二格」の三段論法が言及されています。第二格というの は、「PはMである」「SはMである」ゆえに「PはSである」というパタ ーンの推論でした。ここの例で当てはめるなら、「死が可能なものなら< 魂>は見放せる」「魂なら魂は見放せない(→魂以外なら魂は見放せ る)」ゆえに「死が可能なものは魂以外である→(魂については死は不可 能である)」となるというわけなのでしょう。ですがこれにしても、大前 提や小前提の根拠は319節と317節に依っていると思われ、結果的に論証 が成立しているようには見えません。 自然学的な推論のほうもいろいろと問題含みです。消滅などの変化には必 ず基体が必要で、それは変化の後も存続するものだが、魂においてはそん なものがないから、変化がそもそもないという320節の議論は、つまりは 物質的変化の場合なら質料が前提とされているけれども、魂はその範疇に 入らないということを述べているにすぎません。魂が物質とは異なるとい うのは当時においては常識的な考え方でした。とはいえ、フランシスコ会 系の一部の論者などは、魂もまた形相的なものと質料的なものから成ると 考えていたことが知られています。そういう構成論(というと語弊もあり ますが)的な考え方と不滅論そのものとの関連はどうなっているのかな ど、このあたりには面白そうな問題が潜んでいそうな気がします。 318節や322節では、消滅・破壊をもたらすのは反対物だという考え方を 前提にし、霊魂は反対物である肉体と結びつくからこそ可滅的になるので あって、霊魂本来は不滅なのだという議論が示されますが、これもやはり 論点先取りになっている点は否めません。一応これにはプラトン以来の長 い思想的伝統の裏打ちがあります。たとえばアヴィセンナの場合にも、そ うした自然学的な議論が大きな割合を占めています。そこではそもそも魂 の個別化(多数化)の原因が、魂と肉体との結びつきにあるという話にな っていたのでした。とはいえアヴィセンナによれば、魂の本質が肉体に存 立しているわけではなく、魂の存在そのものに肉体との結びつきがあるの ではないことから、肉体は「体液混合や合成の転化」で衰滅しても、それ にともなって魂が滅ぶわけではないのだといいます(『魂について』第五 部四章)。魂にはそもそも衰滅の可能態などない、とも述べています。 いずれにしても、こうしてみると霊魂不滅論もいろいろつっこみどころが ありそうです(笑)。宗教的制約や権威の存在感の大きさなどからか、そ れらが面と向かって批判されることは13世紀初頭ごろはまだ少なく、そ れがより広範になされるようになるにはもう少し後の時代を待たなければ ならないようですが、もしかすると、そうした批判の開花に向けた下地は このころからすでに整備されつつあったのかもしれません。そのあたりは また今度探っていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月02日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------