〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.250 2013/11/02 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その5) 引き続きヴォデハムのテキストから、列挙されている不可分論の議論とヴ ォデハム自身による反論の概略を駆け足で見ていくことにしましょう。煩 雑になってしまうので、主要なものを中心に大まかに見ていくだけとしま す。まず不可分論側の第四の議論です。「球体が平面に接するときには点 で接する」という前提のもと、その球体が平面上を転がる場合を考える と、接する点も次々に別の点へと移っていくことになりますが、それはつ まり、球体が次に接するのは前の点に直に接する次の点ということにな る、というわけです。これについては、アリストテレスの議論がそのまま 反論をなしているとされます。一つには、モノの運動の一断片を取り出し てみると、その断片的な運動における始まりと終わりとがいずれも部分的 に含まれている状態になっているはずだとアリストテレスは考えます。と ころが不可分なモノにあっては部分を含まないがゆえに、そうした運動は できないことになってしまうというのです。 また、同じくアリストテレスによれば、何らかのモノが外因でもって運動 する場合、動き始めにはそのモノは自分よりも小さい何か(変化や移動) を得、動き続ければ得るものはそのモノと同等となり、ついには自分より も大きなものになる、とされます。たとえば直線上の移動を考えれば、ま ずは動くモノはみずからよりも小さな部分(空間上の)を移動し、次にそ の移動部分は動くモノと同等の部分になり、やがてはそれよりも大きな部 分になるわけです。ところがそのモノが不可分であると想定すると、そう はならないことになってしまいます。不可分のものより小さなものはない のですから、動き始めにみずからよりも小さな何かを得るということが不 可能になってしまい、結果的に不可分のものは動かされない、ということ になってしまいます。 第五の議論はチャットンの主張で、無限定的に分割が可能だと想定する と、アワの一粒にも天球と同じだけの部分が存在することになってしまう が、それはありえないというものです。比較のためには分割がどこかの時 点で終わらなくてはなりませんが、そのためには有限個の不可分な点から 成るのでなければならないというわけです。ヴォデハムは、アワの一粒と 天球は「同じだけ」の部分、すなわち同じ有限個の部分にいくらでも分割 できると反論し、一方では天球がアワの一粒とは比較できないほどより多 くの部分を有することは間違いないと主張します。分割は必ず最初の分割 がなければならず、要するに起点が限定されています。その後の分割が無 限に開かれている場合、開かれたもの同士では比較はできなませんが、起 点の側から任意の分割までを考えるなら比較が可能になります。 これはそのまま時間の分割問題に重なります。たとえば修道院の九時課 (午後三時頃に行われる聖務日課)から始まった無限の時間と、晩課から 始まった無限の時間とを比較することはできる、とヴォデハムは言いま す。両者は起点が異なりますが、現時点(両者より後の任意の時間だとし ます)から見たそれら以後の時間は開かれていて、そちら側だけ見れば、 両方ともいくらでも部分をもつことができ、比較は無理ということになり ます。ですが起点の側を見れば、九時課と晩課からの累積時間の比較がで き、どちらが時間的に長いかは歴然としている、というわけです。このよ うに分割の無限は、必ずしも比較を妨げないというわけですね。 時間に関してはさらに第七の議論でも扱っています。そこで問題にされて いるのは「瞬間」の考え方です。瞬間は有から無へと移りゆき中間物はな いことから、それは不可分で互いに隣接している、というのが不可分論側 の議論です。瞬間が消える(過去のものとなる)場合、別の瞬間が続くと 考えなければ不整合が生じる(消えた瞬間が依然存在するか、あるいは中 間物があることになってしまう)からだというのですが、ヴォデハムはア リストテレスを援用し反論します。瞬間が消えるとすればそれは瞬間に生 じており、もとの瞬間が消える別の瞬間がなくてはならず、しかもそのた めにはもとの「瞬間」なるものが一定の時間存続しなくてはならないこと になります。でも、するとそれ自体分割可能だということになってしまい ます。 神学的な議論、とりわけ神の全能についての議論が絡んでくる項目もあり ます。第八の議論では聖母マリアが原罪を免れたのは瞬間においてかどう かが問われています。ヴォデハムは白くないものが白くなる場合の喩えで 対応します。白くないものが白くなるとき、それはいずれかの部分から白 くなっていくはずだけれども、白くなり始める瞬間そのものは措定できな いとされます(部分は無限に分割可能だからです)。同様に、聖母が無原 罪に転じた瞬間そのものは措定できないというのですね。第九の議論は、 天使二者がそれぞれ瞬間的にのみ存在すると仮定する場合(論理的に矛盾 がないので、神はそれを実現できるとされます)、両者が不整合なく存在 するには瞬間が隣接していなくてはならない、と不可分論側は言うのです が、ヴォデハムはこれを第七の「瞬間」をめぐる議論に帰着させて一蹴し ています。 第八で示された漸進的な変化という考え方は、第一〇の議論でも取り上げ られています。そこでは、筒を通して向こう側の対象物を眺める場合、一 部が連続的に見えている対象物を捉えている視覚は、瞬間ごとに継起して いると考えられる、というのが不可分論側の言い分です。ヴォデハムはこ れに対して、見えている対象物は部分ごとに視界から消え、また部分ごと に視界に入るのであって、不可分の瞬間ごとに成立するのではないと反論 します。この場合の部分というのは対象物の部分ということであって、視 覚そのものの部分ということではないとされています。ヴォデハムは、視 覚自体の広がりは分割できないが、対象物の大きさやその強度においてな ら分割可能だと述べています。 一四項目のうちの主要なものはこんな感じでしょうか。ヴォデハムの反論 は時間や運動といったテーマに引き寄せての議論が多い印象です。準拠し ているのがアリストテレスだからというのもありますが、無限の問題自体 が、空間や静止物よりも、時間や運動といったテーマのほうによりいっそ う馴染むからという理由もありそうです。そちらのほうが無限を想像しや すいのでしょう。とりあえず前回の分も踏まえてまとめると、ここでのヴ ォデハムの主張のポイントは、(1)点というものは数量をもたず(対す る直線その他には数量がある)、(2)運動は漸進的・連続的な変化を言 い、(3)瞬間(時間)もまたなんらかの数量を伴う概念である、といっ たところに集約されそうです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その11) 『霊魂論』第二三章の続きです。早速見ていきましょう。 # # # 323. Contra. Esse est a perfectione rei; ergo non-esse est ab imperfectione. Sed ut habemus ab Aristotele et ab aliis auctoribus, anima est creata imperfecta et perfectibilis a scientiis et virtutibus. Sed tantummodo verorum est scientia. Ergo quanto aliqua sunt veriora, tanto verior est illorum scientia. Ergo purae veritatis quae summe ac primitus est incommutabilis, est pura virtus et summa scientia. Cognitio igitur purae veritatis sine qua nulla virtus est, est summa perfectio animae. Ergo cum veritas et falsitas sint opposita, intuitio purae falsitatis est animae imperfectio. Anima igitur quae falsitatem intendit respuendo veritatem summam tali erronea intuitione est imperfecta. Sed ab imperfectione est non esse; sic ergo cum possibile sit animam sequi falsitatem, possibile est animam non esse, et ita possibile est eam mori, quoniam in intuitione falsitatis declinando a bono exsequitur viam falsitatis, et sic remanet imperfecta et non ens omnino. 324. Solutio. Ad hoc dicendum quod anima duplex habet esse; unum a sua prima perfectione, scilicet a prima creatione, et illud est immortale et eo privari non potest; secundum eius esse est ab acquisitione scientiarum et virtutum, et hoc esse potest ipsa privari, ut si ipsa puram veritatem resputat et falsitatis viam intendat; sed propter hoc esse non debet ipsa dici mortalis, immo commutabilis et passibilis. 323. 異論。存在は事物の完全性に由来する。ゆえに非在は不完全性に由 来する。けれども、私たちがアリストテレスやほかの権威から知るよう に、魂は不完全な状態で創られ、知や徳によって完全なものになる。ただ し、真理に与るのは知のほうである。ゆえに何かがより真正であるとする なら、いっそう真正であるのは知のほうだということになる。それゆえ、 純粋な徳と最上の知は純粋な真理に属し、それは最上かつ第一で不変なも のなのである。したがって、純粋な真理、それなしには徳が存在しない真 理の認識は、魂の最上の完成なのだ。ゆえに、真理と虚偽は対立関係にあ ることから、純粋な虚偽の直観は魂の不完全性を意味する。したがって、 かかる誤った直観ゆえに最上の真理を斥け虚偽へと向かう魂は不完全なも のなのである。しかしながら不完全性からは非在が生じる。ゆえに、魂が 虚偽に従うことがありうるなら、魂には存在しないこともありえ、さらに は魂が死することもありうることになる。虚偽の直観にあっては魂は正し い道から逸れて虚偽の道に付き従い、不完全なもの、十全な存在ではない ものにとどまってしまうからだ。 324. 解決。これに対してはこう言わなくてはならない。魂には二つの存 在がある。一つはその第一の完全性、すなわち最初の創造に由来する存在 であり、それは不死で、失われることはありえない。二つめの存在は知や 徳の獲得から生じる存在であり、こちらはたとえば真理を拒み虚偽の道へ 向かうなどすれば、失われることがありうる。だがこの存在のために、可 死であるとか、さらには可変、可滅であると言ってはならない。 325. Item. In constitutione hominis duo sunt, scilicet corpus et anima. Sed quoad corpus per resolutionem contingit fieri reversionem humanae naturae in prima corpora elemetaria, scilicet in sua principia, post segregationem corporis et animae; pari ratione reliquum componentium, scilicet animam, contingit reversi in suum principium; sed animae principium nihil aliud est quam divina praeconceptio quae fuit in divina providentia. Sic ergo contingit fieri reversionem animae in suum principium. Sed facta huiusmodi reversione non dicetur tunc anima hominis actu esse, sicut nec post reversionem corporis humani in eius elementa dicetur corpus humanum esse. Cum igitur anima ante reversionem illam fuerit, et post eam non erit, anima est mortalis. 326. Item. In homine duo sunt constituentia eum, quorum unum est corporale, reliquum spirituale. Sed illud quod corporale est contingit reverti in sua principia prima elementaria; pari ratione illud quod, spirituale est erit resolvere in sua prima principia spiritualia; sed sua prima principia sunt in divina providentia, quoniam Deus ab aeterno praevidit animam esse. Sic ergo, ut prius, in illa reversione erit anima mortalis. 325. 同様に、人間の構成要素には二つ、すなわち肉体と魂がある。肉体 と魂との分離の後、肉体が解体することにより、肉体の第一の基本要素、 すなわちその始まりへの人間本性の回帰が生じるが、それと同じように、 残る構成要素、すなわち魂もまたその始まりへと回帰することになる。だ が魂の始まりは、神意のもとにあった先取概念以外のなにものでもない。 ゆえに魂の始まりへの回帰も生じるのである。だが、かかる回帰がなされ てしまえば、その時分においてもそれは現実態の人間の魂であるとは言え なくなる。人間の肉体が元素に回帰した後に、それが人間の肉体であると は言えないのと同様である。したがって、回帰前の魂は存在し、回帰後の 魂は存在しなくなるのだから、魂は可死である。 326. 同様に、人間を構成するものは二つあり、一つは物体的なもの、も う一つは精神的なものである。だが肉体的であるものには、基本的な第一 の原理への回帰が生じる。同じように、精神的であるものにもその精神性 の第一の原理への回帰が生じるだろう。だがその第一の原理とは神意のも とにある。なぜなら神は永劫の時間から、その魂の存在を予見していたか らだ。したがって上の議論と同様に、その回帰において魂は可死となるの である。 327. Si forte aliquis ita concederet, secundum hunc modum procedendi contingeret quod, sicut ante creationem mundi omnia erant in divina providentia, similiter contingeret omnia adhuc iterum reverti ad divinam providentiam, et nilil esset actu praeter solum Deum. 328. Solutio. Dicendum est quod non contingit reversionem humanae naturae quoad animam sicut quoad corpus. Revertitur enim corpus humanum in elementa prima, quia prima elementa conveniunt in eius constitutione et salvatur virtus eorum in ipso et materia eorum. Sed ita non est de anima, quia neque divina essentia neque divina providentia est pars animae; quia tunc esset anima omnino incommutabilis et nullo modo demereri posset. Contingit autem fieri reversionem ad Deum per intuitionem divinae essentiae et eius cognitionem; ab ipso enim processit ipsa anima et ad ipsum est reditura, nisi per eius contemplum fuerit impedita. 327. 仮に誰かがそれらに譲歩するなら、上の議論から次のような帰結に いたる。世界の創造以前にすべては神意のもとにあったのと同様に、すべ て再び神意のもとへの回帰が生じることになり、神ただ一者を除き、現実 態は何一つなくなってしまう。 328. 解決。こう述べなくてはならない。人間本性はその魂においても肉 体においても、回帰は生じない。人間の肉体が第一の元素に戻るのは、第 一の元素が肉体の構成のために集積し、元素とそれらの質料に宿る力を温 存するからだ。だが魂についてはそうではない。神の本質も神意も、魂の 一部をなしてはいないからである。魂はいかなるものにも転じることはな く、いかなる形においても獲得されることはないだろう。しかしながら神 への回帰は、神の本質の直観と認識を通じてなされうる。魂がもつ見識に よって妨げられるのでない限り、神から魂は生じ神に帰するのである。 # # # 今回の箇所は霊魂可滅論の議論が少しだけ取り上げられていて興味深いと ころです。まず問題にされているのが、「魂が不完全な存在として肉体に 結びついている」という命題をめぐる議論です。肉体のうちに存在するこ とを通じてそれは完成を目指し、その具体的な手段として知と徳とがある とされています。ですがその不完全性ゆえに、魂は可滅的なものとなって いるのではないかというわけです。 底本にしているテキストの注には、323節で言う権威として、アヴィセン ナのほかグンディサリヌスが挙げられています。前にも見ましたが、確か にアヴィセンナは、魂がおのれの完成のため、つまり諸作用を獲得して本 来の自分の姿に戻るために肉体を利用するのだと述べていました(『魂に ついて』第五部第三章)。グンディサリヌスにも『魂について』という著 書があり、これは未確認ですが、おそらくは同じような議論があるのでし ょう。もちろん、だからといってアヴィセンナやグンディサリヌスが霊魂 可滅論に与しているというわけではありません。ただ、肉体を利用すると いう魂についての考え方が、ここでは可滅論側によって援用されている点 が注目されます。ですが、そのような可滅論を実際にどういう人たちが唱 えていたのかはわかりません。これはブランドの自問自答で出てきた、仮 想的な議論にすぎないのでしょうか。 そうとも言い切れないように思えます。もう少し後の時代(一四世紀)に なると、この問題に関係する議論がより先鋭化する事例が出てきます。そ の一人、パルマのブラシウスは、「魂に固有の作用(活動)があるとする なら、魂は肉体から分離できる」というテーゼを様々に検討し、肉体を離 れてそのような固有の活動があるとは必ずしも考えられないということを 示していきます(『魂について議論された諸問題』、パドヴァ、1385 年)。さらに、肉体における魂よりも、肉体から分離した魂のほうがより 完全な存在であるとは必ずしも言えないとして、だとすれば分離した魂が 滅んでしまわないという保証も(少なくとも知的な議論としては)ないの ではないかと、可滅論の可能性を示唆しています。とはいえ、神の介入が 魂の永続化をもたらすこともまた可能であると付言し、教会の教義への真 っ向からの抵触をも避けてはいます……。いずれにしても、ブランドがこ こで取り上げてみせた可滅論の議論は、その先駆けになっているもののよ うな印象を受けます。 ブランドの回答は、魂には二重の存在があるという、ちょっと苦しい (?)ものになっています。苦しいというのは、その二つの存在の関連性 が問われないままになっているからです。上のブラシウスが突いているの はまさにその点だとも言えます。またこの二重の存在という捉え方は、や や唐突にプラトン主義とアリストテレス主義をくっつけたもののようでも あります。この点、後代の議論のような細やかなものにはなっていませ ん。 今回の箇所でもう一つ取り上げられているのが回帰の問題です。肉体が滅 した後は、肉体は解体して元素に戻るとされますが、では魂もその可能 態、すなわち神におけるイデア(それは現実態ではありません)へと戻る のかどうかという問いです。可滅論的には、現実態であることを止め、可 能態の世界へと戻るのは肉体だけにとどまらないとするのが妥当とされま す。ただ、ここでの「魂」は、肉体とは真逆のものとされており、たとえ ば古代のエンペドクレス(霊魂可滅論のはるか先達ですね)が考えていた ような「ごく微細な物質」でないのは明らかです。そのため回帰する先 は、物質の場合のように第一質料とはならず、イデア(神意のもとにある 概念)の世界という、可滅論的に見るとやや苦しい議論になっています。 とはいえ、それもまた教会の教義には反することになります。そもそも回 帰はない、というのがブランドのここでの解答ですが、一方で魂は完成形 としてその本来の姿、つまり神のもとで創造された姿へと帰るのだとも説 かれています。可能態の形でイデアの世界に戻るということではなく、現 実態として神のもとに帰されるということなのですね。この点も、少し後 の時代になると、たとえばジャン・ビュリダンの霊魂論(『アリストテレ ス「霊魂論」における諸問題』)などがもう少し精緻な説明をもたらして います。ビュリダンはアリストテレスを逸脱する形で、発生による存在と 神の創造による存在とを区別し、前者が可滅的な存在、後者は不滅的な存 在に対応するとしています。その上で、創造された存在である魂は始まり をもつものではあるけれども、過去において永続的でないからといって未 来においても永続的でないとはかぎらない、と断じます。ビュリダンは、 知的魂は創造されたものである以上、不滅であると考えられるが、それは いったんは肉体のもとで生き延びるよう創造されていて、肉体が滅した後 も、感覚的像に頼らない形で思惟を続けられるようにできているのだ、と 説明します。 このように、ブランドのテキストは後代のテキストと比較してみてもなか なか面白そうです。どのテキストも往々にしてそうですが、先行するテキ ストの議論を時に換骨奪胎して取り込んでいるかと思えば、一方では後の 時代に発展する様々な議論を萌芽のような形で内包していたりもします。 なかなか侮れないものがあります。というわけで、ここでもいろいろ別の テキストも参照して比較していきたいと思っています。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月16日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------