〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.252 2013/11/30 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その7) トマス・ブラッドワーディンの『連続体論』をさらに見ていきたいと思い ます。前回、テキスト収録本の解説に従って、ブラッドワーディンが反論 している仮説が大まかに四つあることを挙げておきました。そのうち、最 初の二つ、つまり(1)連続体が直接的に隣接する不可分のもの(粒子) から成るとする仮説への反論、(2)連続体が有限個数の不可分なものか ら成るとする仮説への反論、については、前回取り上げた議論で一応の議 論がなされていたように思います。今回は続く(3)不可分なものは無限 個数存在するという議論への反論、について見ていくことにしましょう。 ちなみに(4)連続体とは別に不可分のものが存在するとする仮説への反 論は、この収録テキストではカバーされていないようなので割愛します。 粒子の存在を仮定した場合、二つの線分を比べることはそれらを構成する 粒子同士の数の比較に帰されます(結論115)。粒子が有限個数あるとす るなら、たとえば同じ長さの線分が二つあるときには、粒子も同数でなく てはなりません。ところが無限個数の場合には少々事情が異なります。仮 に無限個数の粒子の集合体があったとすると、それは別の無限個数の粒子 の集合体と「同数」であることになりますが、一方でその集合体同士はど ちらかがより大きい、より小さいということがありえます(結論129)。 これは不整合を表していることになります。 速度とのからみでも同じような議論が示されています。一つの瞬間を取っ た場合、あらゆる運動は不可分の粒子一個分を動くと考えられます(結論 29)。したがって何か二つのものが一定時間動いた場合、瞬間の数が同 じなら動いた距離(つまり移動分の粒子の数)も同じになると考えられま す。したがって両者の速度は同一ということになります。ですがこれは敷 衍すると、すべての運動の速度は同一ということになってしまいます。こ れまた都合が悪いですね。 さらにブラッドワーディンは幾何学的な図を用いた論証も行います。数も 同一、長さも同一の直線からなる図形(たとえば正方形)が二つあれば、 その面積は互いに同一ですが、どちらかが、数は同じでも長さが長う直線 からなるなら、そちらが大きくなるのは当然です(結論133)。ここで粒 子の考え方からすると、大きな辺にはより多くの粒子が含まれていなけれ ばなりません。ではここで次のような例を考えてみましょう。正方形の上 下の線はそのままに、側面の二つの辺を平行にずらして平行四辺形にした とします。このとき、不可分の粒子の考え方からすれば、長い辺はより多 くの粒子から成ることになり、結果的にそこに含まれる粒子の数は正方形 よりも平行四辺形の場合のほうが多いことになります。とするなら、結果 的に平行四辺形のほうが面積も大きくなければなりません。しかしながら ユークリッドの『原論』第一書命題37から、もとの正方形と平行四辺形 の面積は同一であることが示されており、粒子の数の議論とは矛盾します (結論135)。 もう一つ例を挙げておきましょう。ある円の内部に、直径が半分の別の円 があるとします。ユークリッド幾何学からは、その内部の円の面積は外の 円の4分の1であることが証されています。ところが粒子論の考え方から すると、内側の円の直径が半分なのですから、それを構成する粒子の数も 半分ということになり、それが集まってできたその内側の円は、外の円に 対して粒子は半数ということになり、したがって面積も半分でなければな らないことになります。三角形の内側に高さが半分の三角形を相似的に置 いた場合でも、同じような議論ができます(結論136)。 こうしたいくつかの具体例から、ブラッドワーディンは、連続体が無限個 数の不可分の粒子から成るとは考えられない、と結論づけます(結論 138)。この一連の義論は「ヘンリーとリンカーンの議論」への反論だと されています。テキストに仏訳者がつけている注釈によれば、このヘンリ ーというのはハークレイのヘンリーのことで、リンカーンというのは、ロ バート・グロステストのことだとされています。グロステストはリンカー ンの司教をしていたことからそう呼ばれていたのだといいます。ブラッド ワーディンによれば、ハークレイは連続体が中間物をもたずに並ぶ無限個 数の粒子から成ると考えていたといいます。またリンカーンことグロステ ストは、連続体が中間物を伴って並ぶ無限個数の粒子から成ると考えてい ました。両者に対し、ブラッドワーディンは粒子が無限個数あるとしたと きの矛盾を指摘して斥けているわけですね。 ブラッドワーディンのこのテキストには実にたくさんの幾何学的な議論が 登場しています。数学者としての面目躍如という感じですが、一方でそれ 以外にも、主著として『ペラギウス派に対する神の原因について』という 大部な神学的議論もあります。そのあたりについても、次回に少しだけ触 れておきたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その13) 今回からは二八章を眺めていきたいと思います。身体に注入されるのは新 しい魂なのか古い魂なのかという問題を取り上げています。さっそく見て いきましょう。 # # # XXVIII Inquirit utrum nova anima infundatur corpori vel antiqua Sed videtur quod potius corpori sufficienter apto ad recipiendum animam rationalem prius debeat ei infundi anima antiqua quam anima nova creari et ei infundi; et hac ratione. 362. Facilius est existens in effectu accipere et illud dare quam novum facere et illud accipere et illud dare. Ergo, cum aptatum fuerit corpus a natura ut ipsum per animam vivificetur, facilius est ei animam iam factam infundere quam novam facere et ei eam infundere; et ita illa anima quae fuit unius hominis potest esse alterius hominis. 二八章 身体に注入されるのは新しい魂なのか古い魂なのかを検証する だが、理性的魂を受け取るに十分適した身体であるなら、そこに新たな魂 を創造し注ぎ入れるよりも、まずは古い魂を注ぎ入れるべきであるとも考 えられる。その理拠は以下の通り。 362. 実際に存在しているものを受け取って与えるほうが、新しいものを 作り、受け取り、与えるよりも容易である。ゆえに、身体は自然により、 魂から活力を得るに適したものになる以上、新しい魂を作って肉体に注ぎ 入れるよりも、すでに作られた魂を注ぎ入れるほうが容易となる。また、 以前に人間と結びついていたそうした魂は、ほかの人間にも結びつくこと ができる。 363. Praeterea. Anima existens in corpore meretur et demeretur. Bonum est autem animam salvari, malum autem animam damnari; et bonum est appetendum, malum autem respuendum. Bonum est ergo infundere corpori organico potentialiter viventi animam antiquam mole peccatorum oppressam, ut ipsa existens in corpore mereatur purgando se a peccatis suis et summum bonum sibi acquirat; malum autem est ipsam remanere a corpore separatam et non mereri, nec perfecte purgari, sed ad mortis poenam perduci. Melius est ergo animam prius factam corpori infundere, ut in eo possit mereri per scientiarum et virtutum inquisitionem, quam novam animam corpori infundere. Sed Creatoris est ita bene agere quod melius non potest fieri; ergo dat potius corporibus animas antiquas, ut ipse et mereantur et purgent se a vitiis, ut aeternam vitam habeant, quam novas eis conferat animas et ne animae veteres, quae possent per coniunctionem ipsarum cum corporibus mereri, damnentur. Et ita ut prius. 363. 加えて、身体のうちにある魂は、価値が高まったり低くなったりす る。魂を救うことは善であり、魂を罰することは悪である。また善は求め られるべきものだが、悪は拒まれるべきものである。ゆえに、潜在的に活 気を得ることのできる器官的身体に、罪の重みに苦しむ古い魂を注ぎ入れ ることは善である。その魂は身体のうちに存することによって、おのれの 罪を浄化し価値を高め、おのれの善の極みを手にするからだ。一方、魂が 身体から離れたままにとどまり、価値が高まらず、完全に浄化されること もなく、死の苦しみへと導かれることは悪しきことである。したがって、 以前に創られた魂を肉体に注ぎ入れ、そこにおいて知と徳の探求により価 値を高められるようにするほうが、新しい魂を肉体に注ぎ入れるよりもよ いことになる。ここで、創造主にとっての善き所作以上の善きことはあり えない。したがって、身体には古い魂を与え、その魂が価値を高め悪徳を 洗い流し永遠の生を持つようにするほうが、新しい魂をあてがって、肉体 との合一によって価値が高まるような古い魂を罰するよりもよいことにな る。あとは上述の議論と同様である。 364. Solutio. Ad primum dicendum est quod non est facilius ipsi creatori animam prius creatam infundere quam novam creare et illam infundere; sicut si lignum aliquod habilitetur per caliditatem et siccitatem sufficienter ut upsum igniatur, nova confertur et igneitas et non transfertur in ipsum vetus igneitas prius existens in alio corpore. Creando autem animam Deus eam infundit corpori organico potentialiter viventi. Si autem non sit in eo organum cum aptitudine vitam recipiendi non infundit ei animam. Non enim dat animas nisi secundum praecendens naturae ministerum et competentem praeparationem existentem in corpore. Deficiente vero debito organico corporis recedit anima ab ispo ex quo per ipsum introducebatur; et si iterum per naturam redeat eiusdem corporis organum, in idem corpus redibit eadem anima quae in eo prius fuit, et naturalis secundum hoc erit mortuorum resurrectio; sed non redibit naturaliter eiusdem corporis organum et ideo non erit resurrectio mortuorum naturalis, sed miraculosa. 364. 解決。最初の議論に対してはこう述べなくてはならない。創造主に とっては、新しい魂を創りそれを注ぎ入れることよりも、以前に創られた 魂を注ぎ入れるほうが容易なのではない。ちょうどそれは、熱や乾きによ って十分に燃焼可能となった木材に、新たな火を預け、以前から別の物体 に存在していた古い火を移しかえないのと同様である。神は魂を創造する ことで、潜在的に活気を得られる器官的身体にそれを注ぎ入れる。しかし ながらその器官に活気を得る適性がない場合には、神はそこに魂を注ぎ入 れはしない。というのも神は、それまでの自然への奉仕や、身体に存在す るための準備がどれだけできているかに応じてのみ、魂を与えるのだから だ。身体のしかるべき器官に不備があれば、魂は導き入れられた場所を通 じてみずから身体を離れる。また、自然によって再びその同じ身体の器官 がもとに戻るのであれば、以前あった同じ魂が同じ身体に帰り、それゆえ 自然に死者は蘇ることになるだろう。だが、同じ身体の器官は自然にはも とに戻らない。したがって自然に死者が蘇ることもない。それはただ奇跡 のなせる業である。 # # # ブランドは直前の二七章の末尾で、自然は器官的身体が合理的魂を受け取 ることができるよう準備をし、その準備が調えば形相付与者(dator formarum)によってそこに魂が注ぎ入れられるのだと説明しています。 形相付与者というのはアヴィセンナが用いている概念ですが、一般にそれ は形相を無から創り出す者、つまりは神にほかならない(トマス・アクィ ナスの解釈など)とされています。ブランドはおそらくアヴィセンナに準 拠する形でこの概念を用いているのだと思われますが、上の本文に見られ るように、やはり神と同一視しています。 今回見ているのはそれを受けている箇所です。注ぎ入れるのは古い魂であ るほうが理に適っている、という議論に対し、ブランドはかならずしもそ うではないと反論しています。この古い魂の使い回し(というと語弊があ りますが)の話、なにやら異教的な輪廻思想を感じさせますね。そういう 考え方が当時もあったのかどうか詳しくはわかりませんが、ヨーロッパに も古来から輪廻の考え方はあったと言われています。プラトン以前の、た とえばオルフェウス教、あるいはピュタゴラス教などでのそうした考え方 がとりわけ有名です。ある意味それらのアンチテーゼの形で、プラトンな どが魂の不滅を説いていることも知られています。そこでは魂が「使い回 される」ようなことはないわけですね。 アヴィセンナにおいても、輪廻のような発想はきっぱりと斥けられていま す。再び木下訳の『魂について』で見ておくと、前にも触れたように、そ ちらでは「注ぎ入れられる」に類する表現は用いておらず、魂は端的に 「生じる」になっています。そういう違いはあるにせよ、身体の態勢が整 うことが魂を受け入れる(「離在的な諸原因から流出する」と表現されて います)条件とされている点は共通です。 アヴィセンナは、魂がすでに存在していてたまたま肉体と結びついている のではないとし、肉体の側がそうした魂を要請したがために生じるのだと 説明しています。つまり、各々の身体にはそれに相応しい魂が宿るのであ って、身体と魂は一対一対応以外にないというわけです。そのため、輪廻 思想のように魂を使い回すなど、ありえない話でしかありません。アヴィ センナにおいては、「魂が肉体を世話する」というのが両者の結びつきの 本質だとされています(第五部第四章)。 ブランドはあえてこの輪廻的な話題を取り上げていますが、その後の時代 になると、そういう議論はほとんど見られなくなるようです。13世紀半 ばごろにラ・ロシェルのジャンがまとめたとされる、霊魂議論の諸説を集 めた百科全書的な『霊魂大全(summa de anima)』でも、ざっと見渡 した限り輪廻的な思想への言及は見いだせません。異教色が強い考え方だ けに、それらはブランドの時代(13世紀初頭)を境に消えていくのかも しれません。 ブランドは直前の二七章でもう一つ、これまた異教的な色彩の濃い説を否 定しています。それは「世界霊魂」に関する議論です(ブランドはその議 論の大元としてボエティウスの『哲学の慰め』の一節を引いています)。 ブランドの反論は、上のアヴィセンナの議論を援用したものとなっていま す。つまり、世界に霊魂があるならそれは世界のすべてに活力を与えてい るはずで、とするなら世界の一部をなす人間にも活力を与えていなければ ならず、とすると人間は、おのれに個別に宿る魂と世界霊魂の二つをもつ ことになり、一人に一つというそもそもの原則に反してしまう、というわ けです。 こうした議論からも、ブランドの霊魂論は、ある種の異教的なものが徐々 に押しやられていく過渡期に位置しているのではないかという思いが強ま ります(世界霊魂の議論は、さらに後の時代に復活したりもするようです が……)。ブランドの反論はまだ続きます。それはまた次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月14日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------