〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.253 2013/12/14 *お知らせ 今年も本メルマガをご愛読いただき、誠にありがとうございます。早いも ので、もう年末です。本メルマガは原則隔週での発行ですが、例年、年末 年始はお休みとさせていただいておりますので、今年も年内は本号が最後 になります。年明け後の発行は1月11日からの予定です。来年も引き続 き、緩い歩みながらぼちぼちとやっていきたいと思いますので、どうぞよ ろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その8) トマス・ブラッドワーディンの主著『ペラギウス派に対する神の原因につ いて』は、1344年に出された900ページもある大著で、同時代のペラギ ウス派、つまり人間は自由意志でもって、自然の手段を用いて救済を得ら れるという異端的な思想に対しての壮大な反論をなしています。それは一 七世紀のジャンセニズムをめぐる論争においても引用されるほどの、息の 長い文献になったのでした。 参照しているアンソロジー『神学から数学へ』での解説によると、ブラッ ドワーディンには同書において、未来の偶然性をめぐる議論に際して必然 の理論の確立に貢献したという功績もあります。必然と過去、偶然と未来 を結びつけるアリストテレスの議論から離れ、ボエティウス的に「絶対的 必然」と「結果的必然」とを区別するブラッドワーディンは、必然・偶然 の区別は過去や未来といった出来事の時間性とは関係ないことを論じてい るといいます。そのような考え方に立つことで、神の摂理でもある必然 と、人間がもつとされる自由とが両立できることになるわけですね。この あたりの話もとても面白そうですが、ここではとりあえず置いておき、無 限に関する議論を見ていきましょう。 『ペラギウス……』からアンソロジー本に採録されている無限に関するテ キストは、第一書第一章一五節の結論部分で、「世界に始まりはない」と する哲学者たちの議論に、ブラッドワーディンが反論している箇所です。 そこでは「無限」という概念そのものについての考察が展開していきま す。解説によると、これは一三世紀後半からパリ大学を騒がせてきた世界 の永続性をめぐるの議論の延長線上にあるといいます。当時の議論は、世 界の創造を擁護する神学的な立場と、アリストテレスに代表される世界の 永続性についての哲学的擁護論とをなんとか両立、もしくは対置する議論 が中心だったといい、無限そのものについての考察は中心テーマではなか ったようなのですが、ブラッドワーディンの義論では、無限の概念を足が かりに「世界の永続」論側を批判していくというスタイルを取っていま す。 さっそく見ていくことにしましょう。まずブラッドワーディンは、アリス トテレス(およびアラブ世界でのその継承者としてガザーリーが挙げられ ています)への批判を述べています。世界が永遠だとするなら、そこに住 まう被造物や人間も無限に生まれることになり、さらにその魂も無限で、 なんら秩序立てられることがなくなり、したがって神の本性にも自然の本 性にも反することになる、としています。さらにブラッドワーディンは、 無限よりも有限の多数性こそが完全なのではないかと推論します。完全数 や円、球、立方体、2で割って偶数になる数字・奇数になる数字などとい ったものは、すべてそれ自体は有限であるがゆえに完全であるとされるか らです。無限のものでは、そうした特徴的な配置はできないというのです ね。形あるものはすべて有限であり、無限なるものは無形でしかなく、秩 序に与ることができないのだ、と……。 その論証として、ブラッドワーディンは数学的議論(幾何学的議論)を援 用します。魂が無限に存在し、肉体もまた無限に存在し、両者が一対一対 応になるように配置するとします。配置は想像上で行えばよく(あるいは 神が配置すると考えてもよいでしょう)、また配置の形式はどんなもので もよいでしょう。ここで魂の無限集合をA、肉体の無限集合をBとしま す。AとBのそれぞれの要素を順次相互にあてがっていくのだとすると、 全体の配置が完了するならば、どの項目同士も対応する項目があることに なります。ですがそのためにはどこかで配置作業が完了しなければなりま せん。ですが、もし完了するのだとすると、その完了の時点でAもBも有 限だということになってしまいます。これは大きな矛盾です。無限では対 応関係の配置を完了できないのです。 また類似の例として次のような話も挙げられています。無限個数の同じ大 きさの物体の集合Bがあるとします。その物体をどこかを起点として並べ ていく場合、起点から一定の方向へ(たとえば起点から西のほうへ)と無 限に連なっていくはずです。このとき、その連なりは長さにおいて無限だ ということになります。また、配置の仕方を変えれば、西の方向だけでな く、東の方向にも連ねることができます。ですがそうした場合も、やはり その連なりに終わりを設けることはできません。終わりを設ければそこで Bは有限個数だということになってしまうからです。それでは当初の無限 個数の想定に反します。 視点を変えるならば、全体の大きさ(ここでは長さです)が決まっている なら、それがどんな大きさであるにせよ、それに相応する有限個数の物体 が見いだせることになります。とすると、世界を満たすために必要なのは 無限なものがあることではなく、有限なものが多数あることだということ になります。有限は無限を作り出せますが、逆は真ではないわけですね。 ブラッドワーディンは、有限個数の極小の物体を寄せ集めさえすれば、無 限を作りだすことができることを、上の例などからの推論で示していま す。こうして、世界は無限なものから成り立っているという議論(デモク リトスなどの)は誤りであるということになります(とはいえ、ここでは デモクリトスの原子論そのものを論駁しているのではありません)。 ブラッドワーディンが展開する議論にはもう一つ、神の無限の力をめぐる 議論がありますが、これはまた次回にまとめることにします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その14) 前回見た二八章の続きです。では見ていきましょう。 # # # 365. Ad aliud dicendum quod ratio et intellectus sunt vires ipsius animae per quas potest ipsa anima discernere bonum a malo et servare voluntatem suam in rectitudine et a bono non declinare. Si ergo ipsa bonum cognoscens malo adhaereat, cum ad ipsum non sit coacta, immo sponte bonum contemnens malo se submittat, non datur ipsa post separationem eius a corpore suo iterum alii corpori ne ipsa declinet a bono iterum, sicut prius declinavit. Melius est ergo ei novam animam infundere mundum a labe, praeterquam ab originali peccato, ut ipsa, utens ratione et intellectu, rationis arbitrio rectitudinem suae voluntatis conservet propter ipsam rectitudinem. Tunc autem conservatur voluntas in rectitudine quando solum vult homo illud quod Deus vult ipsum velle. 365. もう一つの議論に対してはこう述べなくてはならない。理性と知性 は魂本来の力であり、それを通じて魂は善と悪を見分け、おのれの意志を 正しく保ち、善から逸れないようにできるのである。したがって、もし魂 が善を認識しつつ悪に与するなら、魂に対して無理強いはされないのだか ら、自発的に善を軽んじ悪に従属していることになり、魂が肉体から離れ た後に別の肉体が与えられても、それは前に善から逸れたように、再び善 から逸れる以外にない。したがって、肉体に新しい、原罪以外に汚れのな い世界霊魂を注入するほうがよく、そうすればその魂は理性と知性を用 い、おのれが正しくあるために、理性的な判断にもとづきおのれの意志の 正しさを保持するようになる。そうなれば、人は神が人の望みであれと望 むことのみを望み、意志を正しく保つことになろう。 366. Item. Quaeritur, utrum animam exuta a corpore possit intellectu uti actualiter. Quod non, sic videtur. Cum anima intelligit, ut habetur ab Augustino et ab Aristotele et ab aliis auctoribus, ipsa intelligit per imaginem in ea constitutam repraesentantem ei rem illam, cuius similitudo est illa imago, et anima convertens aciem animi ad illam imaginem coniungit et copulat eam cum re cuius est illa imago, et sic intelligit actualiter. Sed anima cum est a corpore exuta nulli est coniuncta, nec habet ligationem animae cum corpore. Ergo mediante corpore aliquo non formatur in anima aliqua passio quae sit rei similitudo, et omnis passio quae formatur in aliquo formari habet per contactum vel per aliquam ligationem animae cum corpore quando in eo ipsa est. Sed anima exuta a corpore non habet ligationem cum corpore ut ipsa illud moveat, nec accidit ipsi contactus cum aliquo. Ergo in anima exuta a corpore non formatur alicuius rei imago. Sed si anima intelligat, per imaginem intelligit; sed a corpore exuta non habet in se imaginem. Ergo a corpore exuta non habeatur intellectum. 366. 同様に、肉体から離れた魂が実際に知性を活用できるかどうかを検 討する。 活用できないという議論は次のように考えられる。アウグスティヌス、ア リストテレス、その他の権威が述べているように、魂が知解する際には、 魂の中に作られる像を通じて知解する。像は外的事物を表し、その類似物 が像となる。魂は精神の目を像に向け、その像を、像のもととなっている 事物と結びつけ同一視する。魂はそのようにして実際に知解するのであ る。だが、魂が肉体から離れている場合には、そのような結びつきがなさ れず、肉体とのつながりもない。したがってなにがしかの肉体を介してで きる、事物の類似にほかならないなにがしかの固着的観念は魂の中に形成 されないことになる。なんらかの形で形成されるあらゆる固着的観念は、 肉体の中に魂があるときの、魂と肉体との接触、あるいはなんらかのつな がりに由来する。だが肉体から離れた魂は、たとえば魂が肉体を動かすと いった肉体とのつながりをもたず、肉体との接触も生じることがない。し たがって肉体から離れた魂には、事物の像が形成されることはない。だ が、もし魂が知解するのであれば、それは像によって知解するのである。 しかしながら離在する魂はみずからのもとに像をもっていない。よって離 在する魂は知的能力をもっていないことになる。 367. Contra. Ut habetur ab Augustino et Hieronymo et aliis auctoribus, anima in corpore existens mole carnis oppressa ita offuscatur quod uti intellectu non potest nisi sensus ministerio praecedente; unde dicit Aristoteles in principio Posteriorum: "Omnis doctrina et omnis disciplina intellectiva fit ex praeexistenti cognitione", scilicet sensitiva. Anima autem exuta a corpore libera est. Ergo potius potest tunc uti intellectu quam prius; sed quando est in corpore intelligere potest; ergo et extra. 367. 反論。アウグスティヌスやヒエロニムス、その他の権威が述べるよ うに、肉体のもとにある魂は肉体の重みで圧迫され、そのため感覚を先に 働かせなくては知性を活用できないように鈍っている。ゆえにアリストテ レスは『分析論後書』の冒頭で、「あらゆる教義、あらゆる知的教えは、 先行する認識からもたらされる」と述べているのである。それはつまり感 覚的認識ということだ。しかしながら、肉体から離れた魂は自由である。 したがってそれは、以前よりもいっそう知性を活用することができる。だ が肉体のもとにあるときでも魂には知解ができた。ましてや肉体から離れ ているならばそれ以上であろう。 # # # 365節は前回の議論の直接的な続きです。「罪の重みに苦しむ古い魂を肉 体に再度注ぎ入れ、更正させることのほうが、新しい魂を注ぎ入れること よりもいっそう善である」というのが、前回見た363節の議論でしたが、 365節はこれに反論しています。使い古した魂は再び悪に逸脱してしまう のだから、新しい魂を入れるほうがより善となるというわけです。 366節からはまた別の議論になっています。離在的な魂は知性を活用でき るのか、というのがここでの問いです。同節では、当時一般的だった「知 性は感覚的像を通じて知解する」という考え方が示されています。ここか ら、離在し感覚的な像をもちえなくなった知性は知解できない、という推 論が導かれるというわけですが、これに対してブランドが寄せる回答は、 むしろ考え方は逆だということを表しています。知性が感覚的像を通じて しか知解できないのは、知性が肉体のもとで圧迫され鈍っているからなの だ、という議論ですね。肉体の枷から解き放たれた魂は、感覚的像に依る ことのない、より十全な知性を発揮できるというのです。 前にも見ましたが、知性が感覚的像を通じて知解するという話はアリスト テレス以来のものです。それを受けてアヴィセンナなどは、魂と肉体の結 びつきを重視していました。魂は肉体の中に準備されて、その中で肉体を 司る役割を担うものなのだというわけです。そこからすると、肉体から離 れた魂は、肉体からもたらされる像を得られず、結果的に知的活動をなし えないのではないかという論点が出てくるのも当然と言えそうです。です がアヴィセンナの場合ですら、肉体を離れた後の魂はそれまでと同様の知 的活動が可能である、とされています。知的能力は本来的になんらの器官 をも必要としないとされるからです。 アヴィセンナは、魂は肉体の中で完成を目指すと述べていました。です が、この「完成」という言葉はくせ者です。『魂について』で見ても、 「完成」という語は多義的で、なかなかすっきりとは解釈できないように 見えます。ここでエドゥアール=アンリ・ヴェベールの『一三世紀におけ る人格』(Vrin, 1991)という研究書を参照してみると、西欧世界にお いても、perfectio(完成)は様々に解釈されていたことがわかります。 たとえばアルベルトゥス・マグヌスは、魂にとっての「完成」を、みずか らが完成させた質料的な基体から魂が離れて存在できること、と解釈して いるようです(同p.128)。このアルベルトゥスの解釈が広く共有されて いた可能性はありそうな気がします。上の367節にも、もしかするとその 共鳴を読み取ることができるのかもしれませんが、今のところそれを証す 論拠は手元にはありません。 もともとはアリストテレスの「エンテレケイア」の訳語だったperfectio ですが、この意味論の多様性・変遷自体にも興味深いものがあります。ヴ ェベールの同書によれば、『霊魂大全』を著したラ・ロシェルのジャンな どは、魂は「運動の原理」であるということをベースに、魂が肉体を完全 に司るようになることを完成と見なしているようです(p.103)。また、 これを受ける形でボナヴェントゥラは、肉体から広がりを得ることも肉体 に依存することもなく、ただ肉体の完成をもたらす形相、それこそが魂な のだと考えています(p.105)。これらの議論もアヴィセンナに立脚して いるということなのですが、アルベルトゥスの解釈とは大きく隔たってい ます。ロシェルのジャンやボナヴェントゥラでは、完成は肉体そのもの、 あるいは肉体と魂との複合物についての概念として捉えられています。対 するアルベルトゥスは、魂そのものの完成について述べている感じです。 両者の間をつなぐような解釈はあったのでしょうか。これはヴェベール本 にも見当たりません。だた、やはり結節点をなしているのはアヴィセンナ のようです。ヴェベール本で引かれている次のような一節があります。解 釈のゆらぎの可能性は、もしかしたらこうした箇所にも見いだせるのかも しれません。「魂は、その存在を質料のうちにもつという観点からすると 形相をなしている。また魂は、その達成として主体を成立させ、そこから 作用が流出するということに鑑みるならば、完成をなしている。ここでの 「完成」とは種(としての完成)に帰されるからである。(中略)したが って、私たちが魂を「完成」と称することができるとしたなら、それは私 たちが魂を「力」「能力」「潜在力」と称する場合以上に理にかなってい るのである」(同p.106)。(もとの引用箇所は『魂について』第一部第 一章です。邦訳ではp.11およびp.12に対応箇所らしい部分があります が、少し異なっています)。 このあたりの問題も含めて、積み残しの多い「霊魂論」の読みですが(苦 笑)、年明け後も引き続き取り組んでいきたいと思います。それでは皆 様、よいお年をお迎えください。 *本マガジンは隔週の発行ですが、年末年始を挟むため、次号は01月11 日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------