〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.256 2014/02/08 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その11) オートレクールのニコラによる原子論ベースの議論を見ています。点が量 をもつと考えられるとする前回の議論に続いて、ニコラは反原子論側が提 唱する「無限の分割可能性」に反論していきます。ニコラの議論をとりわ け特徴づけているのが「外部」という観点を持ち込んでいることです。輪 郭が確定している物体(連続体)がそのようなものと認識されるのは、そ の物体とその外部とが明確に見て取れるからです。逆に無限に広がる連続 体であれば、そうした外部はまったくありえないことになります。また物 体が「分割可能」だという場合の「分割」の概念も、その物体のある要素 を他の要素から、外部のものとして分離することを意味します。何かが無 限に分割できるという場合、ある要素が他の要素に対して外部をなす、と いう関係が無限に存在しなくてはならないことになります。 ここでニコラは次のような複合三段論法(複数の三段論法から成る命題) を考えます。まず次のような前三段論法があるとします。「無限に分割で きるものであれば、ある要素が他の要素の外部をなす関係が無限にある (大前提)。ところで連続体は無限に分割できる(小前提)。よって連続 体では、ある要素が他の要素の外部をなす関係が無限にある(結論)」。 次にこの結論部を前提とする三段論法として次のようなものを考えます。 「ある要素が他の要素の外部をなす関係が無限にあるものは、広がりにお いて無限である(大前提)。ところで連続体においては、ある要素が他の 要素の外部をなす関係が無限に存在する(小前提)。したがって連続体は 広がりにおいて無限である(結論)」。ですがニコラは、この後者の三段 論法の結論は偽であると考えます。連続体は必ずしもすべてが無限ではな く、上に見たように有限な連続体は明らかに存在し認識されもします。 ではその複合三段論法のどこに問題があるでしょうか。ニコラは、複合三 段論法を遡って前三段論法にまで立ち返ります。ある要素が他の要素の外 部をなすという関係が分割の条件をなしているのだとすると、全三段論法 の大前提は問題ありません。とすると、どうやら問題は小前提「連続体は 無限に分割できる」にありそうだとわかります。これが偽であるために、 前三段論法の結論が偽になり、ひいては続く三段論法も偽になってしま う、というわけです。このように論理展開の議論を通じて、ニコラは「連 続体は無限に分割できる」ということを否定してみせます。これもまたニ コラの独特なアプローチです。 ニコラはまた、平面と球とがどう接するかというお馴染みの問題も取り上 げています。ここでもちょっと面白いことに、幾何学的に論証された「球 と平面は一点で接する」というテーゼと、アリストテレスによる「不可分 の粒子が動くとき、それはまず自分に等しい距離を移動してからより大き な距離を移動し始める」というテーゼを組み合わせて用いています。球体 が平面上を移動することを考えているのですね。球と平面とは一点で接し ているとするなら、球が平面の上を移動するとき、まずはその接する一点 分の距離を移動することになります。この移動は、その次も一点分の距 離、その次も一点分の距離……というふうに続いていくと考えられます。 結果として移動は一点分ずつということになり、平面は全体として点でで きていなければならないことになります。こうして「連続体は点から成 る」ことが示されるというわけです。 ありうる反論として「もし連続体が点から成るなら、その点の大きさを基 準にして四角形の対角線と1辺とが通約できる関係(割り切れる・整数の 比で表される関係)でなくてはならないのではないか、しかしながらそう はならないことが、エウクレイデスの『原論』で論証されているではない か」という議論が挙げられています。無理数の話ですね。ニコラはこれに 対して、そう反論する人は対角線と辺の関係を出発点と見なしているので あって、実際にはそれが他の考察によって導かれた結論だということを理 解していない、と反論します。つまり、「対角線が点から成るなら、それ は有限の数の点から成る」と反論者が考えるとき、その者は壁か何かに描 かれた対角線を考えているのであって、その対角線が計算上、無限の点か ら成りうることが看過されている、というのです。 ですがそうすると、前回見たような、点は位置と境界をもっている限りに おいて量的な広がり(延長)をなすという考え方との齟齬はないのでしょ うか。ニコラ自身も、上の議論に対する再反論として、無限の点から構成 されている連続体は無限の大きさをもつのではないのか、また、そもそも 上の無限の分割を否定する議論の拠り所は、無限の広がりの否定ではなか ったか、という問題を取り上げています。 ニコラはここで、感覚もしくは想像力に示される任意の大きさは無限の点 から成りうる、と譲歩しています。その上で、ただしその任意の大きさを 分割する行為自体が行き着く先は、それ以上分割できない点なのであっ て、無限の分割ではないと主張します。さもないと分割する行為そのもの が完結しない、というのがその理由です。どうやらここでは「感覚もしく は想像力に示される」というのがミソで、物体として存在しているモノに 関しては、それが有限の原子から成り有限の大きさをもつのに対して、そ うではない精神的な対象物に関しては、たとえば上で見たような、対角線 が計算の上で整数比にならない件なども含め、無限の点から成ると考えら れる場合がありうる、というのがニコラの見立てのようです。連続体が無 限の点から成っていると考える可能性と、無限に分割できる可能性とは、 一緒くたにはできない別の話なのだ、ということなのでしょう。 前回の運動の議論でもそうでしたが、ニコラの議論はどこか独特で、かつ 周到・巧妙に組み立てられていることがわかります。ときにはいくぶん詭 弁的さえあるほどに、なにやらアクロバティックに隘路を見出して展開す る感じですね。その肌理の細やかさといい、危うさと表裏一体になった魅 力を醸している気がします。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その17) ブランドの霊魂論も、いよいよ大詰めです。とりあえずここで取り上げる ものとしては最後のテーマに入っていきますが、ここでちょっと訂正があ ります。これまで読んできた部分を、うっかり二八章と記してきました が、正しくは二五章です。大ボケをかましてしまい、失礼いたしました。 お詫びして訂正いたします。今回の箇所はその続きの部分で、身体に宿る 魂は、どの部分に宿っているのかという問題を扱っています。 # # # In qua parte corporis sit anima Restat ut videamus, cum anima sit in corpore et non in qualibet parte corporis essentialiter, ut prius ostensum est, in qua parte corporis humani sit anima essentialiter. 376. Quod sit in corde sic videtur posse ostendi. Ut habemus a pluribus auctoribus, ex constrictione cordis provenit dolor, ex dilatatione provenit gaudium. Sed in anima est dolor propter cordis offendiculum, quia ipsa tenetur regere. Similiter gaudium est in anima. Indicium ergo est animam esse in corde, quia ex constrictione cordis provenit dolor et ex dilatatione gaudium. 377. Praeterea. Ab Aristotele habemus quod ira est ascensus sanguinis circa cor; unde cum ascendit sangis circa cor, tunc est ira. Sed plura sunt membra corporis vegetati ab anima quam cor; potius videtur ergo animam esse in corde quam in alio membro. 魂は身体のどの部分にあるか 次に見るような問題が残っている。先に示したように、魂が身体のもとに あり、しかも基本的に身体のどの部分にもあるわけではないとすると、基 本的に人間の身体のどの部分に魂があるのかが問われる。 376. 心臓のもとにあるということは次のように示されると思われる。苦 しみが心臓の収縮からもたらされ、喜びがその弛緩からもたらされるとい うことを、私たちは複数の権威者たちにもとづき知っている。だが魂にお ける苦しみは心臓(の説)にとってのつまづきの石となる。というのも魂 は、(苦しみの感覚を)統御できるとされるからだ。魂における喜びも同 様である。したがってそのことは、魂が心臓にあるという証左となる。心 臓の収縮から苦しみがもたらされ、その弛緩から喜びがもたらされるのだ からだ。 377. 付論。怒りとは心臓の周囲に血液が上昇することだということを、 私たちはアリストテレスにもとづき知っている。したがって、血液が心臓 の周囲に上昇するとき、怒りが生じるのである。だが、心臓よりも魂によ って活力を得る身体の各部は多く存在する。ゆえに魂は、ほかの身体各部 よりもむしろ心臓のもとにあると考えられる。 378. Contra. Anima est in corpore humano ad regimentum corporis humani; cor autem est unum principalium membrorum hominis: unde si contingat per aliquod accidens fieri timorem in homine fugit sanguis ad cor propter ipsum consolandum, ne ipsum deficiat propter nimiam timiditatem. Regit ergo sanguis ipsum corpus in hoc casu. Est ergo hoc indicium quod anima debens regere corpus humanum sic sit essentialiter in sanguine quia ipse sanguis est nutrimentum totius corporis, et ita est ipse eius consolatio. 379. Quod autem anima sit in cerebro potest haberi per hoc quod cuiuslibet sensus perfectio est in cerebro, et cuiuslibet alterius apprehensionis, ut eius quae fit per imanignationem, vel per aestimationem, vel per memoriam. Cum ergo apprehensio sit ab anima, et in cerebro per immutationes ibi receptas fiant apprehensiones, indicium est quod potius est anima in cerebro quam in alia parte corporis humani. Quod bene concedimus dicentes quod non est in corde. Multi tamen auctores videntur velle animam secundum se totam esse in qualibet parte corporis, sicut Deus ubique est secundum se totum. 378. 反論。魂は人間の身体を統御するために人間の身体のもとにある。 だが、心臓は人間の主要な構成要素の一つにすぎない。ゆえに、なんらか の偶然により人間のもとに恐れがもたらされると、血液は心臓のほうへと 流れてきて、心臓を強化しようとする。過度の恐怖のせいで機能不全に陥 らないようにするのだ。したがってその場合、血液が身体を統御するので ある。よってこのことは、人間の身体を統御するべき魂が、基本的に血液 にあるかのように見なしうる証左となる。なぜならその血液は身体全体の 糧をなしているのであり、また身体を強化するものでもあるからだ。 379. しかしながら、魂が脳の中にあるということも次のことから知られ うる。つまり、いかなる知覚も脳において完全なものとなり、想像力、推 測、記憶などによってなされる他の理解もまた脳において完全なものとな る、ということだ。したがって理解力が魂に由来し、脳において受け取ら れた刺激の交換によって脳における理解がなされるのであるから、ここか ら魂が人間のほかの各部よりもむしろ脳にあるということの証左が得られ る。私たちはこれに譲歩し、魂は心臓にはないと述べることができる。だ が多くの権威たちは、魂それ自体は身体の任意の部分に全体としてあると 考えている。神が遍在しそれ自体として全体をなしているように。 # # # ここでは霊魂が(1)心臓に宿る(2)血液に宿る(3)脳に宿る、とい う三つのテーゼが示されています。さらに、379節の最後では、(4)身 体の任意の部分に全体としてあるという考え方にも言及されています。基 本的に(1)はアリストテレスの立場、(3)はガレノスの立場だと整理 できます。(2)の血液は微妙なところですが、これはもしかするとガレ ノスの精気についての議論を踏まえているのかもしれません。ガレノスは 精気を精神精気と生命精気に分け(さらにここでは関係ありませんが、自 然精気もあります)、前者が脳から生じ、後者は心臓に見られ、血液(や 呼吸)によっても増大すると述べています。 この精気をめぐる議論はアヴィセンナにも受け継がれています(参考:矢 口直英「イブン・シーナーの自然精気」、『科学史研究』2012年秋号 (第51巻-No.263))。少し用語は違っていて、ガレノスの生命精気に 相当するものは動物精気と称されますが、アヴィセンナはそれが心臓に由 来するとし、その経路として動脈があると考えているようです。こうして 見ると、ブランドが挙げている、魂の所在を心臓とする議論(1)は、ア ヴィセンナが語るそれらの精気の話、それも主に生命精気(精神精気では なく)の話に重なっていることがわかります。 さて、中世の霊魂論においてスタンダードになっていたのは(4)の考え 方です。前にも少しだけ取り上げたジャン・ビュリダンの霊魂論で見てみ ると、『霊魂論注解』のある版では、知的な魂はそもそも量としての広が りをもっておらず、ゆえに身体の全体に居合わせ全体を形作ることができ るとされています。それはちょうど、神が世界の全体に居合わせ、世界の どの部分にも距離を置かず直接的に寄り添っているのと同様だとも述べて います(ロケル版、第二書問題七)。これはまさに上のブランドが記して いる議論と重なりますね。 ビュリダンの場合、そうした議論への異論とビュリダン自身の反論も記し ています。異論というのは、手と足のように離れている部位の両方に魂が 居合わせるとするなら、(1)魂は位置的に離れているということになる が、魂は分割できないのでそれはありえないではないか、(2)離れた部 位の一方が動き、一方が静止するというのはありえないのではないか、ま た(3)身体の一部が切断されるような場合、そこからは魂も失われるこ とになってしまうが、それも偽だということになるのではないか、といっ たものです。これらに対してビュリダンは、手と足が離れているという場 合、それは(量としての)広がりにおいて離れているということだが、魂 は広がりをもたない、として(1)を否定し、さらに返す刀で、同じ理由 から一方を動かしもう一方を静止させることにも問題はないとして(2) も斥けます。さらに(3)についても、部位が失われる場合、その部位に 対する形相付与が止むだけのことで、魂そのものが失われるわけではない と反論しています。 ビュリダンはまた、「魂が全体として」という場合の「全体」について、 これが部分に対する全体という意味ではなく、完成体として何も欠くとこ ろがないという意味での全体なのだ、と論じています。だからこそ、それ は神の遍在の仕方と重なるのだというわけですね。また、同じ意味論的な 理由から、身体の各部にも金太郎飴のように魂が全体としてある、という 話でもないことがわかります。同じビュリダンの『霊魂論』の別の版で は、「全体」という言葉の自立的(カテゴリマテイック)意味と共義的 (シンカテゴリマティック)意味との違いでもって、そのあたりの説明が なされています。部分に対する全体というのが共義的意味、完成体として の全体というのが自立的意味に対応するようです。 次回はブランドの霊魂論の最終回になります。全体的なまとめを記してお きたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月22日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------