〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.261 2014/04/19 *お知らせ いつもメルマガをご購読いただきありがとうございます。本メルマガは原 則隔週での発行ですが、例年、連休の週はお休みをいただいております。 そのため今年も次号は5月10日の発行を予定しています。ご了承のほど、 お願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その16) ニコル・オレームの議論を前回は見ました。取りこぼしている議論が少し ありますが、全体からすればそれほど重要ではないかもしれないので、こ こではあえて先に進むことにしようと思います。というわけで、続く論者 としてジャン・ビュリダン(1300頃〜58または61)を見ていきましょ う。オレームの先生にあたる人物ですね。ビュリダンはパリ大学で学んだ 後に、同大の学芸部の教師になり、終生を大学人として過ごしました。大 学を代表して外交的なミッションに加わることはあったようですが、神学 者になることはありませんでした。当時最も著名な学者(哲学者)だった とも言われます。 これまで見てきたように、無限の問題は一四世紀において、数学的なアプ ローチを手段とする新たな考察の対象になったわけですが、底本としてい る『神学から数学へ』では、ジャン・ビュリダンはそうした概念装置をあ る意味完成へと導いた人物として取り上げられています。同書の解説によ ると、一つのポイントとなっているのが、前にも出てきた「共義的意味」 での無限と「自立的意味」での無限との区別です。復習しておくと、前者 は「究極にはいまだ達していない状態としての無限」を、後者は「それ以 上はない究極としての無限」を意味するのでした。解説によると、ビュリ ダンはその二様の意味を詳細に展開するとともに、ほかの論理・言語的分 析の概念とも組み合わせて用いているようです。そして何よりも重要なの が、ビュリダンが無限を(同時代的な一部の論者たちとは一線を画す形 で)現実態として肯定する方向には行かないといいうことです。アリスト テレスの現実態・可能態の区別を、ビュリダンは自立的意味・共義的意味 の区別に重ね合わせ、新たな表現形として刷新しているのだといいます。 同書に採録されているのは、『自然学の諸問題』第三巻の問一六と問一八 です。さっそく見ていくことにしましょう。まず問一六ですが、これは 「らせんは無限であるか、その場合の「無限」は自立的意味に取ることが できるか」という問題を検討しています。ビュリダンはこの問題を、一定 の比で直線を分割する例をもとに考えています。たとえば全体を二分の一 に分割し、その残りを二分の一に分割し、またその残りを……というふう に繰り返していく場合です。するとそれは、いつまでたっても「残り」部 分が存在し、その分割作業には終わりがありません。分割は共義的意味で 無限だということになります。 なんらかの長さの円柱Bがあるとします。その一方の端(底面の円周上の 一点)をA、もう一方の端(もう一つの底面の円周上の点)をCとします (AとCは円柱の長さ方向に直線で結ばれるとします)。上の一定の比 (二分の一)での分割を適用するなら、その円柱はその都度半分ずつ無限 に分割できることになります。その円柱上をAからCに向かって、らせん 状に線が描かれていくものとするなら、その線は、上の分割の議論と同様 に、円周に巻き付く形で無限に描かれうることになります。また、円柱の 長さ二分の一の点をDとするなら、そこからA方向に無限、C方向にも無 限であることになります。したがってそれは両方向に無限だということに なります。このあたりは先に出てきたオレームの思考実験と同様ですね。 ここでは無限を共義的意味に取っています。これはまた運動の問題として 言い換えることもできます。ある動体がBの表面上をCからAに向かって 動くとします。するとその動体は、最初の二分の一の地点に到達しなけれ ば次の二分の一の地点に到達できず、それが限りなく繰り返されるので、 結局Aにはたどり着けないことになってしまいます(有名なアキレスと亀 のパラドクスの変形ですね)。 ですがビュリダンはこれに対してもう一つの議論を対置します。B上をA からCに向かうらせん状の線は、無限ではありえないと言う議論です。C にたどり着いてしまうなら、それは有限だということにほかなりません。 またCにたどり着かないのであれば、Cにたどり着く場合よりも小さいと いうことになります。ですが、有限(Cにたどり着く場合)よりも無限が 小さいということはありえません。したがってその場合でもらせん状の線 は有限だということになります。らせん状の線はCを越えて描かれること はないわけですから、上の二つのケースにいずれかしかありえません。よ ってそれは無限ではありえないということになります。この議論では、無 限を比較の対象として自立的意味に取っています。 運動で考えるならどうでしょうか。動体が最初の二分の一の地点に到達す るとは、二分の一の残りの部分に「接し始める」というふうに言い換える こともできます。この「始める」という動詞に注目すれば、そこに二つの 時点があることが想定できます。動体がまだその残りの部分に接していな い時点と、動体がその残り部分に接している時点です。この二つの時点は 直接的に隣接し、一つの連続体をなしているとも考えられます。前者を休 止の時点、後者を運動の時点とするならば。動体(たとえば石)は、まず はその休止の時点において残り部分に接していない状態から、その直後の 運動の時点においてその部分に接する状態へと移行することになります。 これは前に見た、オートレクールのニコラによる時間の考え方を彷彿とさ せます。 ですが、ニコラとは逆に、時間はいくらでも分割可能だという議論を適用 すると次のようになります。動体が物体B上を動いていくとすると、それ は常になんらかの「二分の一」の部分を動いてくわけですが、任意の二分 の一の部分にさしかかるとき、それ以前と以後、すなわち休止の時点も運 動の時点もそれぞれいくらでも分割でき、そうした無限の時間の中で動体 はその部分に「接し始める」ことになります。するといつまでたっても動 体は進んでいかないことに……?これもまたパラドクスです。ですがビュ リダンはここでも、上のらせんの場合と同様の対論を示します。「接し始 める」というのは、休止の最後の時点と運動の最初の時点を言うのであっ て、それは「いまだ〜でない」(共義的意味)として無限に分割されるよ うな時間に位置づけられるものではない、というのです。「時点」(時間 そのものではなく)もまた無限(=永遠)ではないとうことです。 こうしてビュリダンのこの議論では、らせんは物体Bの長さを超えて描か れないことから無限とはいえず、また派生的命題として、運動における 個々の時点もまた無限(=永遠)ではありえないとの結論が導かれます。 無限が可能であるのは、それを共義的意味に取る場合ですが、それはパラ ドクスを導きます。一方で自立的意味に取るならば、その意味での無限は ありえないことになります。前者を可能態、後者を現実態と重ね合わせる ならば、ビュリダンは現実態としての無限を斥けていることになります。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ロバート・グロステストの『光について』(その4) 前回の部分は無限の比較の話でしたが、今回の箇所からまた本来の光の話 へと戻っていくようです。さっそく見ていきましょう。 # # # Hiis igitur ita se habentibus manifestum est quod lux multiplicatione sui infinita extendit materiam in dimensiones finitas minores et dimensiones finitas maiores secundum quaslibet proportiones se habentes ad invicem, numerales scilicet et non numerales. Si enim lux multiplicatione sui infinita extendit materiam in dimensionem bicubitam, eadem multiplicatione infinita duplicata extendet eam in dimensionem teracubitam, et eadem subduplicata in dimensionem monocubitam, et sic secundum ceteras proportiones numerales et non numerales. したがって、このようなことから次のことは明らかである。すなわち、み ずから増殖する光は、[極小方向と極大方向とで]整数比かそれ以外かに 関わらず、どのような比を取ろうとも、極小方向および極大方向の有限な 大きさへと質料を延長するのである。もしみずから無限に増殖する光が、 質料を二キュービット[腕尺]延長するのなら、その二倍の増殖は四キュ ービット延長することになるだろうし、半分の増殖なら一キュービットの 延長となるだろう。このように、整数比かそれ以外かに関わらず、なんら かの比にもとづいて延長するのである。 Is, ut reor, fuit intellectus philosophorum ponentium omnia componi ex athomis et dicentium corpora ex superficiebus componi et superficies ex lineis et lineas ex punctis. Nec contradicit hec sententia ei que ponit magnitudinem solum ex magnitudinibus componi, quia tot modis dicitur ex quot modis dicitur pars. Aliter namque dicitur medietas pars totius que bis sumpta reddit totum; et aliter est costa pars diametri que non aliquotiens reddit diametrum, sed aliquotiens sumpta exuberat a diametro; et aliter dicitur angulus contingentie pars anguli recti in quo est infinities, et tamen finite subtractus ab angulo recto diminuit illum; et aliter punctus pars linee in qua est infinities, et finite subtractus ab illa non diminuit illam. 私が思うに、これぞまさしく、あらゆるものが原子から成るとし、物体は 面から、面は線から、線は点から成ると述べてきた哲学での理解であっ た。それは、大きさは複合的な大きさから成るとする命題と矛盾しはしな い。なぜなら「部分」があると言われるだけ、「〜から[成る]」とも言 われるからだ。全体の半分の部分を倍にすれば、確かにもとの全体と同じ になる。一方、対角線に対する辺は、整数倍にしなければ対角線と同じに なりうるが、整数倍にすれば対角線を凌いでしまう。あるいはまた、任意 の角度は直角の部分をなすと言われ、それは無限にあるわけだが、一定の 角度をその直角から差し引くと、直角だった角度は減じてしまう。だが一 方で、点は直線の部分だと言われ、それは無限にあるけれども、一定の点 を差し引いてもその直線が減じることはない。 Rediens igitur ad sermonem meum dico quod lux, multiplicatione sui infinita in omnem partem equaliter facta, materiam undique equaliter in formam sphericam extendit consequiturque de necessitate huius extensionis partes extimas materie plus extendi et magis rarefieri quam partes intimas centro propinquas. Et cum partes extime fuerint ad summum rarefacte, partes interiores adhuc erunt maioris rarefactionis susceptibiles. したがってもとの話に戻すなら、私はこう述べよう。光はみずから無限に 増幅することによってあらゆる部分に等しく拡散し、質料をあらゆる方向 に等しく、球の形で延長する。その結果、必然的に、その延長された部分 は外側の質料をさらに延長し、中心に近い内側の部分よりもいっそう希薄 化していく。外側の部分が最大限希薄化するとき、内側の部分はさらに多 くの希薄化を被りうるようになるだろう。 # # # 「腕尺」とも訳されるキュービットは、辞書によると43cmから53cmを 表す尺度ということです。前回見たように、グロステストは無限同士の比 較が可能だと考えており、増殖が比の関係であれば、その結果生じるもの も比の関係をなすと見なしています。今回の二つめの段落では、最初に原 子論が引き合いに出され、それが全体・部分の複合体論とは矛盾しないと 言われています。底本の注釈によると、この複合体論は、連続体に関する アリストテレスの説を指し(おおもとの出典は『天空論』だといいま す)、つまりは原子論が、それもまた小さなものから大きなものが成ると いう説だという意味で、それと矛盾しないという言い方になっています。 アリストテレス自身は原子論(それ以上分割できない不可分のもの)を斥 けていたはずですが、底本の注釈によれば、『分割不可能な直線につい て』(De lineis indivisibilibus)という偽アリストテレス文書があり、そ れがグロステストの主要な参照元になっているのではないか、といいま す。そこでは、「それ以上は分割不可能な線」つまりは直線の原子のよう なものが示されているのですね。ラテン語に何度か訳されていて(アルベ ルトゥス・マグヌスによる『自然学注解』でも言及されているといいま す)、グロステスト訳とされる版もあるようです(ただしそれは、『光に ついて』より後のものと言われます)。 グロステストは、「部分があると言われるだけ、〜から成るという言い方 もある」ということの事例を四つほど挙げていますが、原文が少々わかり にくいのは二つめの事例です。原文ではdiameter、つまり直径という語 が使われていますが、参考にしている伊訳では対角線と訳出されています (上の訳出もそれに倣いました)。注釈によれば、これはグロステストが 円に内接する正方形を考えているためだといいます。なるほど、その場 合、正方形の対角線と円の直径は等しくなるわけですね。で、正方形の辺 とその対角線とは無理数の比になっているので、整数倍にすればその対角 線よりも長くなってしまうのは明らかです。 その同じ注釈では、三つめの角度の事例についても、contingentieを 「接する」と解釈し、「接線が作る角度」が織りなすやや複雑な事象とし て読み解いているのですが、個人的にはこれが腑に落ちず、とりあえずこ こではいったん採用を見送りました。うーん、でもこのあたりは、後で改 めて再考する必要がありそうです。 * * マッケヴォイの研究書から、出典問題についての続きをまとめましょう。 創世記とその注解のほかに重要なソースとなっているのが、アラブ系、ユ ダヤ系の神学的議論です。まず挙げられているのが、アヴィセンナ、ガザ ーリー、アヴェロエスのラインです。彼らは、第一質料を延長の可能態と 規定し、それに物体性の形相が加わって三次元性が励起するという理論を 練り上げたとされています。そうしてできたものに、個別の形相が加えら れて物体が生じるというのですね。 ですが、グロステストの着想源としてより大きな位置を占めているのは、 アヴィチェブロン(イブン・ガビロール)だとされています。その『生命 の泉』では、質料は一者に近いとされ、一者の光(または力)の影響を受 けると記されているのですね。普遍的形相は光のごとく質料に拡散すると も記されているのだとか(個人的には未確認ですが)。マッケヴォイによ れば、この「第一の物体的な形相が質料を三次元へと延長する」という考 え方をグロステストが受け継いでいるのだといいます。マッケヴォイはさ らに、第一形相と知性の精神的世界との近接性というアヴィチェブロンの 思想は、光を精神的な実体に準じるものと見たアウグスティヌスの議論と 接合できるものだったとも述べています(ただし光を第一の物体性と同一 視するという点はグロステストのオリジナルの議論だったと考えていま す)。 さらに、まだ見ていない部分ですが、『光について』の天空の運動論に寄 与したものとして、アラブの占星術師たちが挙げられています。一二世紀 のアルペトラギウス(イブン・イシャク・アル=ベトゥルージ)は天球の 数を九つと定め、その天球の運動を第一の天球の働きに結びつけた人物と されます。グロステストは必ずしもその学説をすべて採用しているわけで はないといいますが、それでも他の著作を含め、大きな敬意を示している のだとか。 前回までに見たような、「相対的な無限」論(無限同士が比較可能だとす る議論)もグロステストのオリジナルだとマッケヴォイは記しています (そのあたりはどうなのでしょうか。要検討かもしれません……)。テキ ストの最後のほうに出てくるという数のシンボリズムは、もちろんピュタ ゴラス派以来の一般的なものです。また、この後に読むことになります が、質料の密度が抵抗をなすという議論は、プラトンの『ティマイオス』 の影響があるとされています。そしてマッケヴォイは、いよいよ最重要ソ ースとしてのアリストテレスに話が移っていくのですが、それはまた次回 に。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は05月10日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------