〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.268 2014/08/23 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その3) トマス・ブラッドワーディンの『運動の速度間における数比論』(略して 『数比論』)を読んでいます。第一章の第三節では、数比の問題にまつわ るいくつかの基本前提を挙げ、そこからの帰結としていくつかのテーゼを 導出しています。まずその前提ですが、次のようなものが列挙されていま す。(1)表記が同一・同等であるような数比は同一・同等である。 (2)両端と中間の三つの項があるとき、一番目と三番目の比は、一番目 と二番目、二番目と三番目の比から構成される。(3)中間項が増える場 合でも、一番目と最後の比は、一番目と二番目、二番目と三番目……最後 の一つ前と最後の項の比から構成される。(4)同等の二つの量が三つめ の量と比較されるとき、それらの比は同一となる。 (5)大小の二つの量が三つめの量と比較されるとき、大きいほうが比も 大きく、小さいほうは比も小さくなるが、三つめの量が大小二つの量と比 較されるときには、大きい量のほうが比が小さく、小さい量のほうが比は 大きくなる(これはつまり、A > Bなら、A : C > B : Cですが、C : A < C : Bということです)。まだまだ続きます。(6)別の量に対する比が 同じで、その別の量が一定であれば、もとの量も同じになる。(7)比例 関係にある四つの量の間では、項目を入れ替えても比例関係が成立する。 (8)比例関係にある四つの量の間では、最大の量と最小の量を合わせた ものは、残る二つを合わせた量よりも大きくなる。 いずれも基本的な内容ですが、ここからブラッドワーディンは七つの帰結 が導かれるとしています。それらを順に見ていきましょう。「(帰結一) 一番目と二番目の量の差が、二番目と三番目よりも大きい場合(比は一定 だとします)、一番目と三番目の比は、一番目と二番目、二番目と三番目 の倍になる」。これは、一番目が8、二番目が4、三番目が2だと考えると よいでしょう。項目間は2 : 1の関係になっています。ここで一番目と三 番目の比は4 : 1、つまり項目間の2 : 1の「倍」の比になっている、とい うわけですね。ここでいう倍とは、比率の二乗のことをいいます。もとの ラテン語ではduplaなのですね。 これを一般論として証明するとなると少し面倒かもしれません。ブラッド ワーディンはこれを、上の基本前提のうちとくに(2)から導きます。 「第一項から第三項への比は、第一項から第二項の比と、第二項から第三 項への比によって構成される」というのですが、これはつまり、第一項を A、第二項をB、第三項をCとした場合に、A : C = (A : B) * (B : C) とい うことを意味します。かけ算で示されていますが、要するに比の端同士を 掛け合わせるということで、ここではA : C = AB : BCということになり ます、で、目下の場合、比は一定なので、A : C = (A : B) * (A : B) = (A : B)^2 となり、かくしてAとCの比はAとBの比の倍(二乗)だということ になります。 続く帰結二も類似しています。「(帰結二)四つの連続する項が、項目間 で同じ比の関係にある場合、一番目から四番目の比は、項目間の比の三倍 になる」。これも、16, 8, 4, 2という数列で見ればよいでしょう。16と 2は8 : 1の比で、項目間の比である2 ; 1の「三倍」(三乗)の比になっ ています。この帰結にはさらに補足があり、五つの連続する項の場合に は、一番目から五番目の比は項目間の比の四倍(四乗)になり、項が増え ていくと五倍、六倍になり、無限に続くとされています。 「(帰結三)一番目の項が二番目の項の倍よりも大きく、その二番目の項 が三番目の項のちょうど倍である場合、一番目と三番目の比は、一番目と 二番目の倍の比よりも小さくなる」。これはたとえば20, 8, 4という数列 の場合を考えてみるとよいでしょう。第一項と第三項の数比は5 : 1で す。第一項と第二項の数比は5 : 2で、倍の比(二乗)ならば25 : 4とな り、5 : 1(つまり25 : 5)よりも「小さく」なるわけですね。ブラッド ワーディンはこれについても一般論としての証明を試みます。上と同様、 第一項をA、第二項をB、第三項をCとします。AはBの倍以上(A > 2B)、BはCのちょうど倍(B = 2C)、そしてDは、BDがABと同じ比 になるような数値です(B : D = A : B)。ここで上の前提(4)から、D はCと同一ではないとされます。また、前提(5)からDはCよりも小さ いと考えられます(D < C)。同じく前提(5)から、A : DはA : Cより も大きいとされます(A : D > A : C)。すると、帰結一から、A : Dは A : Bの二倍(二乗)になるので、結果的にA : CはA : Bの二乗よりも小 さいことになります。 これについてはもう一つ別の証明手順も示されています。今度は、CはD より大きい数で(C > D)、AとBを両端としたときに両者の間に来るも のとします(A > C > B)。前提(2)から、A : Dの比は、A : Cおよび C : Dの比で構成されます。A : D = (A : C) * (C : D) ですね。ゆえにAか らCへの比は、AからDへの比よりも小さくなければなりません。A : C < A : D です。ここで、A : DはA : Bの二倍(二乗)になります(これもお そらく帰結一から導かれるということなのでしょうけれど、すっきりしま せん)。したがって、A : CはA : Bの二乗よりも小さいことになる……と いうわけなのですが、 これが少しわかりにくいのは、Dの設定について 説明がないからです。どうやらここでのDは、Cを起点にA : Cと同じ比を 取る数ということらしいのですが、そのようには記されていません。こう した言葉足らずの部分がテキストを読みにくいものにしていることは、中 世の数学書を読むにあたっての留意すべきポイントになりそうです。 ここでは詳しくは触れませんが、同じような証明方法で次の帰結四も導か れています。「(帰結四)一番目の項が二番目の倍であり、その二番目の 項が三番目の項の倍よりも大きい場合、一番目と三番目の比は、一番目と 二番目の倍の比よりも小さくなる」。また、数列による証明は、次の帰結 の説明(論証)でも使われています。これはちょうど帰結三を裏返しにし たものに相当します。「(帰結五)一番目の項が二番目の項の倍よりも小 さく、その二番目の項が三番目の項のちょうど倍である場合、一番目と三 番目の比は、一番目と二番目の比よりも大きくなる」。 長くなってしまいましたので、残りの帰結についてはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その1) 今回からゲント(ヘント、もしくはガン)のヘンリクスを取り上げ、その 主著である『スンマ』から、序文と第一問題の一部を読んでいくことにし たいと思います。基本的なテーマは「学知とは何か」ということで、とく に神学の扱いが問題になりそうです。加えて、ヘンリクスは古代ギリシ ア・ローマからの哲学的伝統などにも触れているようなので、そのあたり も興味深そうです。今回はまず序文を取り上げましょう。底本とするの は、ヴラン社刊の羅仏対訳本、Henri de Gand, "Sur la possibilite de la connaissance humaine", trad. Dominique Demange, Vrin, 2013で す。 # # # Quia theologia est scientia in qua est sermo de Deo et de rebus divinis, ut dicit Augustinus VIII De Civitate Dei - dicitur enim theologica quasi "deologia" a "Theos" Graece, quod est "Deus" Latine, et "logos", quod est sermo vel ratio, quasi sermo vel ratio de Deo et de rebus divinis -, ideo quaeritur hic primo modo theologia de Deo et de rebus divinis sit scientia; secundo quomodo in ea de Deo et de rebus divinis locutio sit habenda; tertio quae est qualia in ea de Deo et de rebus divinis sint cognoscenda. Ut autem iuxta processum Augustini et eius intentionem in libris De Academicis, "argumenta eorum quae multis ingerunt veri inveniendi desperationem", dicentium scilicet "omnia esse incerta", et "nihil posse sciri", "quantis possumus rationibus amoveantur", paulo altius ordinendo quaerendum est hic primo de scientia et scibili communiter et in generali; secundo de scientia et scibili propriis theologiae in speciali. Et quia sacra scriptura solummodo ad hominis instructionem tradita est secundum Apostolum dicentem: "quaecumque scripta sunt ad nostram doctrinam scripta sunt", ideo omnia hic dubitanda ad scientiam humanae instructionis sunt referenda. アウグスティヌスが『神の国』第八巻で述べているように、神学とは神と 神的事象についての言葉を含む学知である。神学[テオロギア]は、「神 の学」(デオロギア)として、ラテン語で神を表すギリシア語のテオス と、言葉もしくはラチオを表すロゴスかなら成り、すなわち神と神的事象 についての言葉もしくはラチオであるとされる。ゆえにここでは、まずは 神と神的事象を扱う神学がいかなる点で学知であるか、第二に、その学知 において神と神的事象についての言説はどのようになされなくてはならな いか、第三に、その学知において神と神的事象はどのような点を認識され なくてはならないかが問われる。だが、著書『アカデメイア派について』 でのアウグスティヌスの推論と意図に沿って、「絶望的な真理を得ようと 励んできた多くの人々の議論」、すなわち「あらゆるものは不確か」で 「何も知ることはできない」と言う議論は、「理性によってできるかぎり 遠ざけらる」べきものである以上、ここではわずかでもより高い観点か ら、まずは学知とその共通の対象全般を、次いで神学独自の学知とその固 有の対象を探求しなくてはならない。また、「書かれていることはすべ て、われわれの学識のために書かれている」との使徒の言葉にもあるよう に、聖書の言葉は人間の教育のためにのみ伝えられているのであるから、 ここで疑わしいとされるべきことはすべて、教養ある人間の学知に訴える ものでなくてはならない。 Quantum igitur pertinet ad possibilitatem humanae cognitionis, circa primum praedictorum quaerenda sunt hic quinque: primum de possibilitate sciendi; secundum de modo sciendi; tertium de qualitate scibilium; quartum de appetitu sciendi; quintum de studio sciendi. したがって、人間の認識の可能性に沿う限りにおいて、上で述べた第一の 点に関し、まずは次の五点を考察しなくてはならない。一つめは学知の可 能性について。二つめは学知の様態について。三つめは学知の対象の性質 について。四つめは学究の意欲について。五つめは学知の探求について。 # # # 前にも取り上げたことがあったと思いますが、再び記しておくと、荘厳博 士ことゲントのヘンリクス(1217または23頃〜93)は、パリ大学の学 芸部の教師(1270まで)を経て神学部の教授を歴任(1276から92ま で)した人物です。その後1279年にトゥルネーの福司教に任命され、晩 年にいたるまでその職を全うしました。思想史的には、タンピエの禁令に 一役買った人物として知られています。代表的著作には『神学大全』(以 下『スンマ』)と『自由討論集』とがあります。ここで読もうとしている のは前者の冒頭部分です。 この『スンマ』は、ちょうど同時代にトマス・アクィナスが記した『神学 大全』とまさしく対照的だと言われます。底本の仏訳者ドミニク・ドマン ジュによる解説によれば、トマスのほうは問題を分析的に分割していき、 各節において基本的な問いが掲げられ、明快な回答が示されるようになっ ているのに対し、ヘンリクスの場合には半ば包摂的に問いから問いへと渡 っていき、問題の前提や帰結を明らかにしていくようなスタイルで書かれ ているといいます。問いが発せられるたびに、読み手の前には新たなパー スペクティブが開かれるというわけで、これがヘンリクスを読むときの独 特の難しさをもたらしているのだとか。そのあたりは追々確認していきた いと思います。 ヘンリクスの『スンマ』は三九の問題から成り、一貫して人間の知性の可 能性やその本性、様態などについて問うているといいます。 とりわけ第 一部(articulus 1)は学知についての一二の問題から成り、今回参照す る底本では、序文とその最初の三つの問いを原文と訳で対照しています。 ここでは、そのまたさわりの部分を読んでいくことになります。今回の箇 所は冒頭の序文ですが、ヘンリクスがとりわけ依拠しているのがアウグス ティヌスであることは、この序文からも浮かび上がっていますね。 やや先走りになりますが、再びドマンジュの解説によると、ヘンリクスの 学知論は、グロステストやボナヴェントゥラ、アクアスパルタのマテュー などに見られる伝統を継承しています。人間知性の真理と確かさを保証す るために、神のイデアがいかなる意味で、またいかなる様態で必要とされ るのかを検討するというものです。そしてその伝統の大元にアウグスティ ヌスがいます。キリストを教師と見なし、神の御言葉のみが真の教育をな すというアウグスティヌスの教義は、ヘンリクスの議論の中にも息づいて いるというわけですね。ですが、一三世紀において範型論(あらゆる知識 は神のもとにある範型の認知にもとづくという教説です)が台頭した(後 には危機的状況にもいたるのですが)背景は、アウグスティヌスの伝統だ けではないといいます(底本、p.10)。 そこには、ほかにアリストテレスの合理的な認識論もありましたし、また それとは別に、古代の懐疑論の復活という側面もありました。そしてその 懐疑論の復活に、ほかならなぬヘンリクスが貢献しているというのです (同、p.10)。今回のテキストでの注目点は、このように範型論の系譜 と古代の懐疑論の再活性化という二つのテーマになりまそうです。今回見 た序文にも、すでにその両方が暗示されているように思えますね。その意 味では、これはなかなか興味深い書き出しです。 というわけで、次回から本格的に第一部の問題一を見ていきたいと思いま す。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月06日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------